2023年7月23日日曜日

〈100年前の世界010〉大正12(1923)年2月21日~28日 第3次広東政府(孫文) 普通選挙即行国民大会 普選法案上程 普選民衆運動打ち切り 三悪法案反対全国労働組合同盟 

 

尾崎行雄

〈100年前の世界009〉大正12(1923)年2月7日~20日 三悪法(過激社会運動取締法案・労働組合取締法案・小作争議調停法案)反対示威運動 全国普選記者大会 日農第2回大会 より続く

大正12(1923)年

2月21日

・孫文、客軍の力により陳炯明を広州から追い落とし、広州入り。広東(広州)で大元帥に就任。大元帥大本営を組織(第3次広東政府)。

孫文は、腹心の蒋介石をソ連に留学させ軍事・政治の勉強をさせ、政治顧問ポロディン・軍事顧問ガレンなど数10名をソ連から招いて国民政府の改革に着手。

2月22日

・蔡培火ら、台湾議会設置請願書を議会に提出。

2月23日

・普選案が衆議院本会議に上程される(24日)その前日の23日、普通選挙即行国民大会。集合場所とされた芝公園には、正午までに3万人が集まった(『東京朝日新聞』2月24日)。

示威行進は芝公園を出発して坂本公園で解散するというコースで行なわれ、「正一時となるや四方に起る爆竹の音を出発の合図となし、旗振り乍ら万歳々々を連呼して徐々に出発し始めた。一番先頭には尾崎行雄、古島一雄、三木武吉の3名が自動車に乗って案内役を努め、その後へ当日の総帥河野広中の自動車次ぎ、『万機公論』『普選即行』の二大旗が後へ従ひ松本君平、田中善立、田淵豊吉の3名は乗馬で旗に次いだ。そして楽隊の音勇ましく、普選歌を天まで届けといはん許りに歌ひながら行進した。100名位の一分隊には白バラつけた代議士が先頭に立ち、隊側には白襷の民衆警察隊と、真物の警官とが附き添って物々しく、順路なる増上寺前から大門に出で新橋、銀座へと出た。先頭が新橋駅前に来た頃、最後部は漸く芝公園の会場を発した程で、実に空前の長蛇の行列」(水野石渓「普選運動血涙史」大正14年)であったという。

2月24日

・衆議院本会議に野党側提出の普選法案(選挙権の納税資格を撤廃し、25歳以上の男子に選挙権を与える)が上程され、憲政会の降旗元太郎が趣旨弁明。

政友会の戸水寛人が中流社会中心主義の立場をとり社会状態が改善されるまで普通選挙は見合わすべきだとの反対論を展開。革新倶楽部の前川虎造が賛成論で切り返す。

同日、芝公園では前日に続いて、普選派の国民大会が開かれ、午後5時すぎに閉会されるや、群衆は小旗を打ち振りながら議会へ押しかけようとして警官隊との小競合いを演じている。

このころ、議場では延会の討議によって普選案の討議は次回に持ちこされ ることになった。

事態がこうなってみると、普選派のリーダーたちは自分たちが動員した民衆をどう指導すべきかについて迷いはじめた。そしてこのままの形で運動をすすめれば、議会へ向かおうとする民衆と、警官隊との衝突が拡大するだけとして、結局民衆運動を24日の段階で打ち切ることとした。

2月24日

・「過激社会運動取締法案労働組合法案小作争議調停法案反対全国労働組合同盟」会合、在京の殆ど全組合が出席、失業防止を「モット」とする連合運動を展開する事を正式決定。「全国同盟」崩壊・再分裂の始まり

「全国同盟」は三悪法反対の次に失業防止を取り上げ、機械組合など未加入組合を含め同盟再組織を決す。失業防止に関して、ポル派は「具体的モット」として軍縮剰余金の譲渡・八時間労働即時実施・最低賃銀制定・対露通商即時開始・職業紹介所の労働組合管理などを持ち出し紛糾。アナ派の機械連合・信友会は、これでは社会政策要求の政治運動になるとして反対。

平沢計七は、共同戦線維持の立場から当面「失業防止」だけの標語で運動をやり、演説会の口調は自由とし、別の掲げたい組合は別の時期を選んで運動してはどうかと捷案。この調停案にアナ派は賛成し、ポル派内では川合義虎らは賛成するが、共産党の組合運動責任者杉浦啓一は、それでは機械連合に屈服するも同じだとポル派を纏め平沢案を拒否。

3月9日、アナ派を排除した総同盟系譜組合は「失業防止同盟」を結成するが、大阪・東京で各1回演説会を開いただけ。3悪法反対運動で成立した労働組合の共同戦線を割り、アナ・ポル対立を再び激化させる犠牲を払うには余りに少ない成果。

5日の決裂協議会で、信友会水沼辰夫がポル派に対し、「失業の為に運動するのが主なのか、標語を掲げるのが日的なのか」と質問すると、総同盟関東労働同盟主事河田賢治は、「吾等は標語が重大なのだ」と言明。政治運動を否定している者に頭から政治スローガンを押し付ける態度は、一致点を見付ける努力なしに対立点のみを強調する総連合決裂当時のポル派の姿勢の再現。山崎今朝弥は「労働週報」続刊の意欲を失い、4月19日廃刊。平沢計七は城東の労働組合に復帰。

2月25日

・普通選挙即行運動の指導部(憲政会幹事長小泉又次郎、翌年衆議院議長)、院外運動打ち切り。

「政友会が尚早諭をとなえているこの議会で、あくまで吾人の目的を達せんとするならば、遂には誠に忌むべき手段に訴えてやるよりほかに道はない。民衆運動はこれをもって打ち切り、各自自己の職業につき、普選案については院内代議士に一任されたい」と述べ、民衆運動を打ち切る。

労働団体などは、こうした既成政党の指導する普選運動にそっぽをむいて悪法反対運動に注力。

この第46議会に、再び過激社会運動取締法秦が上程される構えがみえると、総同盟はじめ19労働団体や、朝鮮人労働者同盟会・水平社などが協議し、過激法秦・労働組合反対全国労働組合委員会を結成、次いで日農を加え、小作争議調停法案反対を含む3悪法案反対運動をとする。"

2月25日

・「過激法反対無産者同盟」、この日の総会で政党組織の可否まで議論し、恒常的連絡機関としての「無産者同盟」となる。

2月25日

・東大学友会運動。2ヶ条の請願を総長に提出。各学部学友会委員、2ヶ条の請願(①全学生をして学友会員たらしむること ②大学は学友会に対して種々の便宜を与へられたきこと)

2月26日

・後藤新平、海相官邸で加藤首相と会見、日ソ関係の現状打破への首相の英断を求める覚書を提出し、さらに追加覚書を送ってソビエト早期承認の必要を力説した。すなわち彼は「今日ニ於テ労農政府ノ承認ハ迅キニ於テノミ有効也。以テ利権 (経済的連鎖方法ノ提供)ノ交換問題タリ得ベシ、他国ニ追随シテノ承認ハ所謂二束三文ノ価値スラモ無カルベシ」 (鶴見裕輔「後藤新平」第4巻昭和13年421頁)とのべて世界にさきがけて、ソビエトを承認することを求めた。

2月27日

・日本銀行、台湾銀行の整理援助に関し声明を発表(同行、第1次整理に着手)。

2月28日

・「帝国国防方針」「帝国国防に要する兵力及帝国軍用兵綱領」を改訂裁可。仮想敵国を従来の露・米・中国から米・露・中国の順とする。


つづく


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

このように具体的事実の編年体で読むと大正年12年の普選運動の昂まりと9月4日の亀戸事件との関係が良く分かります。息の長い作業ですが大いに期待しており、愛読しております。小林倉市翁。20230724