2024年6月12日水曜日

大杉栄とその時代年表(159) 1895(明治28)年8月1日~24日 「(日清)戦後経営」が議論される 伊藤博文・大山巌・山県有朋・西郷従道ら侯爵となる 台湾総督府条例制定(台湾に軍政をしく) 予備役陸軍中将・子爵・宮中顧問官三浦梧楼、駐朝公使 子規、須磨保養院を退院    

 

三浦梧楼

大杉栄とその時代年表(158) 1895(明治28)年7月20日~31日 子規、県立神戸病院から須磨保養院へ移る 「或時は須磨寺に遊んで敦盛蕎麦を食つた」「須磨の静養は、居士の生涯に於ける最も快適な一時期であつた」 より続く

1895(明治28)年

8月1日

この頃から官民各界で「(日清)戦後経営」という言葉が使われ始める。

戦争勝利と三国干渉の打撃を前提に日本支配層が朝鮮・清国を巡る帝国主義諸列強の領土分割競争へ参加する為に採った諸政策の総体を示す。

軍備拡張を基軸とし、それを支える殖産興業・教育振興を不可欠の環とし、獲得した植民地台湾「経営」をも包摂する多面的内容のもの。来るべき対露戦に備えての日本社会内部の帝国主義的編成替、対露戦を必至たらしめる朝鮮・清国への対外侵略政策までを包含する。

大軍拡の為には巨額の財政資金が必要で、戦艦1隻建造に約1500万円、1等巡洋艦1隻に約11100万円を要する海軍の拡張には、1896年度から10ヶ年継続予算として2億1310万円が計上され、同年度からの7ヶ年継続陸軍拡張予算8168万円を大きく上回る。松方正義・阪谷芳郎ら大蔵官僚が、軍拡とともに「民力培養」を「戦後経営」構想の不可欠の一環として戦後財政計画を立案。

大蔵官僚が構想する「民力培養」方式については、「資本流通と通信運搬との二義を含有」する「交通の発達を謀る」ことに努力を注ぐべきとされる(「渡辺逓信大臣の戦後経済談」(「東京経済雑誌」8月3日)、阪谷芳郎演説「戦時及戦後経済」(同11月2日)。

戦後財政計画の基本方針を確定した蔵相松方の「財政前途ノ経画ニ付提議」(8月1日)の冒頭に、「負担ノ増加卜共ニ国力ノ発達ハ最モ其方法ヲ怠ルべカラズ、其方法タル多アルべシト雖トモ、就中大ニ交通運輸ノ便ヲ開発シ、以テ農商工業ノ隆盛ヲ計り、興業銀行農業銀行ヲ起シ、資本融通ノ潤沢ヲ充分ナラシムルハ頗ル急務卜信ズル所ナリ」とある。大蔵官僚(さらに逓信官僚)は、官設鉄道・通信網の拡充と特殊金融機関の増設という国家資本部門の強化を通ずる間接的「民力培養」策が重視されている。

故に財政支出において農商務省経費の比重が2.8%と低く逓信省経費の1/5となっている。「交通」を「経済開発」手段とする構想は、アジア諸国に転用されると、「侵略の尖兵」としての「交通」という構想に化する事になる。

しかし、農商務官僚も、「実業界ノ参謀本部」といわれる農商工高等会議を3度にわたり召集し、「戦後経営」諸施策につき大ブルジョアジーの意見を徴するなど、「戦後経営」に於いて重要な役割を果たす。

8月

「文庫」創刊。~明治43年8月。

8月

川上眉山『うらおもて』

8月

大阪で活動写真興行

8月初旬

画家の中村不折が子規を見舞う。3日滞在して奈良へ写生旅行にいくのを子規は見送る。


画でおくれ奈良の事々夏木立

8月1日

一葉、大橋乙羽より先月末に届けられた「にごりえ」原稿(未完成)と贈答品を受け取ったことへの礼を述べられる。また、博文館大橋新太郎より原稿料(未完成の30数枚に対する沙金)を15円とする交渉が来る。

「たけくらべ」の連載を中断したまま、『文芸倶楽部』のために新しい作品の構想を練り、和歌の稽古に来る大橋ときを通じて、博文館へ前借りを依頼。乙羽は、7月8日付けで、書きかけでも旧作でもいいから原稿さえ受けとれば金を融通すると返事。

8月2日

一葉、先月末に届けた未完成の「にごりえ」の残りの部分を大橋乙羽に送る。

8月5日

伊藤博文・大山巌・山県有朋・西郷従道ら、日清戦争論功行賞として侯爵を授かる

8月5日

午後10時30分、エンゲルス、没

8月6日

陸軍省、台湾総督府条例制定。台湾に軍政をしく。台湾で独立運動が激化。

8月14日

台湾、近衛師団、苗栗を占領

8月17日

予備役陸軍中将・子爵・宮中顧問官三浦梧楼、駐朝公使となる。9月1日着任。井上馨の後任、井上の推薦(長州閥)。

三浦は、赴任に先立ち、①朝鮮国を日本と同盟する独立国と認定し、日本が独力で防衛と改革を行うか、②欧米列強と共同で保護し独立国とするか、③ロシアと朝鮮半島を分割するか(ロシアには北方の不凍港あるいは成鏡道くらいを与えれば満足するか)と、「三策」を示し政府の方針を尋ねる意見書を提出。

西園寺外相代理は陸奥外相に、政府方針に変更が無いので、三浦は井上公使への訓令に基づき執務するのは当然で、三浦の「三策」のようなものは、閣議で確定する時期ではないので、公使(三浦)に訓令する必要はない、また、今後の朝鮮国に対する駆け引きについては、いちいち電信または書状で訓令すべきであると考えている、と書く(陸奥宗光宛西園寺公望書状、8月14日付)。

8月20日

日本軍は台南を南北から挟撃

8月20日

子規、須磨保養院を退院


「明日保養院を出て松山に帰るという晩、子規は改った口調で虚子に訓戒を垂れ、自分は子供がいないから虚子を「後継者」と心に決めている、しかしお前は秉公(河東碧梧桐)といっしょにいるとどうも落着がなくなるから、「断じて別居をして、静かに学問をする工夫」をしなければならない、といった。虚子はおどろき、ただうなずきながら重苦しい気持で子規の昂奮した言葉を聴いていた。」(江藤淳『漱石とその時代1』)


8月20日

関如来のもとに一葉「うつせみ」の原稿が届く

8月21日

閣議、日清通商条約案決定。駐清公使林董を全権代表とする交渉は長びく。下関条約第6条第4項の製造業の自由=内地税の扱いが焦点。翌明治29年7月21日条約締結。10月20日発効。

下関条約第6条第4項の製造業の自由:

元来、日本資本主義はこの条項には積極的ではない。「英国にたいする国際上の賄賂」(「日本」95/12/9)と言われる。9月、紡績連合会は委員を上海に派遣して実情視察。上海の紡績業は数年を期せずして日本を凌駕する勢い。渋沢栄一らが東華紡、益田孝らが上海紡を設立して上海での紡績業経営を企画するが、挫折。むしろ、清国が外国人の紡績業を禁止するほうが日本に益ありということになる。結果、日本は課税問題を切離して通商条約締結に持込む。

イギリスに「賄賂」を考慮せざるをえなかった講和への道筋、と国内整備が完了しない段階で極東の帝国主義的分割競争に割り込まざるをえない日本資本主義の現状。

8月22日

京都の時代祭が始る。

8月24日

第3次金弘集内閣。閔氏派(沈相薫)や欧米派(李完用・李範晋ら)起用。


つづく



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