2024年10月8日火曜日

大杉栄とその時代年表(277) 1900(明治33)年2月12日 この日付けの子規の漱石宛て手紙。12日夜に書き、続きを13日夜半過ぎに書く。 「例の愚痴談だからヒマナ時に読んでくれ玉へ、人に見せては困ル、二度読マレテハ困ル」で始まる長文の手紙。

 


大杉栄とその時代年表(276) 1900(明治33)年1月28日~2月12日 「上京青年組織ノ件」につき相談(室田忠七日記) 社会主義協会発足 子規「叙事文」 鉄幹「人を戀ふる歌」 「二六新報」新発足 泉鏡花「高野聖」 より続く

1900(明治33)年

2月12日

この日付けの子規の漱石宛て手紙。12日夜に書き、続きを13日夜半過ぎに書く。

「例の愚痴談だからヒマナ時に読んでくれ玉へ、人に見せては困ル、二度読マレテハ困ル」で始まる長文の手紙。


漱石から送られた「大金柑」の礼、病気激発の厄月、寒さと病気との関連、新聞「日本」と雑談「ホトトギス」執筆のための多忙、最近の病状、漱石へ手紙を書くことは、カタルシスであり失礼だが許してほしいこと、漱石の教え子寺田寅彦、股野義郎のこと、インフルエンザ流行と家族のこと、来客が多く執筆が夜半になること、浣腸、繃帯替の苦痛な実情。

候文と言文一致体と、漢字平仮名交じり文と漢字片仮名交じり文が入り乱れた奇妙な長手紙になっている。

「例の愚痴談だからヒマナ時に読んでくれ玉へ、人に見せては困ル、二度読マレテハ困ル。

御手紙ハとくに拝見。金柑ハ五、六日前に相届候ニ付かたがた以て御礼かたがた御返書可差上存候ひながら、それはそれはなさけなき身の上とても申すべき身の上、一通り御聞なされて下されたく候。病気激発の厄月は四、五、六月の際なれども勢力の尤少きは十二、一、二月に御座候。これはいふまでもなく寒気のために御座候。しかるに小生の職務上尤いそがしきは十二月一月に御座候(コレハ『日本』がいそがしいのと地方ノ新聞雑誌などのたのまれ有之(コレハ大概ハコトワリ)、『ホトトギス』は一番骨なれどもこれは毎号同じ事也。寒気と多忙のために十二月と一月始とに忙殺せられ候ところへ二月分の雑誌など書かざるべからずとくる。イザ書カウトスルト客ガ来ル。昼間ハ来客ノタメニ全ク出来ず、これは毎日同じ事也。夕刻ヨリ熟ガ出ル。時候ガヨケレバ熱イトテ構フタ事ハナイ。徹夜シテデモ熱ヲ押へテデモ書ク。ソレガナサケナイ事ニハコノ頃ノ寒サデハトテモ出来ヌ。

現ニ只今モサシタル熱ガナイヤウダカラ原稿書カウ今夜ハ徹夜デモスルゾト大奮発シテ先ヅ浣腸卜繃帯取替トヲスル(コノ二事ガ老妹ノ日々ノ大役ダ)。平生ナラバ小生ハ浣腸後少シ疲労スルノミニテ、ムシロ安心スルケレド体ニ申分アルトキ、マタハ痔疾ニ秘結ナドゝクルト後へモ先キヘモ行カヌコトガアル。陸(くが)の葬儀ナドノタメ四日目ニ今日ハ浣腸シタケレド成績ハ中等デアツタガ少シ冷エテ風引イタカ咳ガ出テ来夕。折角ノ奮発ノ原稿ハカケヌ。腹ガ立ツテ腹ガ立ツテタマランノデモ腹ノ立チ処ガナイノデ貴兄へノ手紙認メルコトニ相成候。箇様ナ失敬ナ申条ナレド情願御許被下度候。

(略)

東京モ大寒気ノ由(小生ニハ分ラズ)インフルエンザ流行、十人の内五人以上ハヤラレ候。小家モ皆ヤリ申候。小生モ人並ニヤリ健全ナ母サへ二日半就褥致候。小生記臆已来始めての大病ニ御座候。皆々軽症なれども小生ハソレガタメトハナクテ毎夜発熱、時ニヨルト夜十二時頃ヨリ突然発熱夜明ニ至リテ熱さむタメニ徹夜致候など腹の立事ニ候。翌日も昼間は来客ありて眠る事出来不申候。ソノ日の夜ハ夕刻ヨリ発熱夜ノ十二時過熱さめ候故、夕飯を夜半にしたためて(チヨット御馳走ヲ御披露申上候。粥二椀、叔父ヨリ貰ヒタテノ豚ノラカン三キレホド)コレカラ『ホトトギス』ノ原稿(マダ一ツモ出来ヲラズ)ニ取掛ラウト思フト眠クナツタカラ「寝ロ寝ロ」」トイフ事ニ変ツテ夜半過ヨリ寝て今朝ハ昼飯まで睡眠非常に愉快ニナリ候。

シカシ夕方マデ来客絶エズ夕飯スミテ浣腸、繃帯替(コノニツガ同時ニ行ハネバナラヌ事故下痢症ニ掛ツタトキハ何トモ致方ナク非常ノ困難ヲ窮メ候。此時ハ浣腸ハ不用ナレド「サア糞ガシタイ」トイフテカラ尻ノ繃帯ヲ取リハヅシお尻ヲ据ヱル迄ニ早クテ五分、遅クテ十五分ヲ要シ候。ソノ五分乃至十五分間糞ヲコラ工ル苦ハ昨年始メテ経験致候。屎(し)ヲスル際ニ時々貴兄ガ兄上ノ糞ヲトラレクトイフ話ラ思ヒ出シ候)。此浣腸繃帯替スミ、イザ原稿トイフ処デ咳、ソコデ此手紙ト、カウイフ都合デ、コノ後デ原稿ガ出来ルカ出来ヌカヾ問題ナリ。

小生ノ欲望ヲイフト、二月ノ月一ケ月ダケハ何モセズニ(気ガ向イタラ俳句分類位ハスル)休ミタクテタマランノダ。シカシコンナコトヲ高浜ナドニイヒ玉フナ、マジメニ心配スル男ダカラ。

『日本』ハ売レヌ、『ホトゝギス』ハ売レル。陸(クガ)氏ハ僕ニ新聞ノコトヲ時々イフ(コレハタダ材料ヤ体裁ナドノコト)ケレドモ僕ニ書ケトハイハヌ、『ホトゝギス』ヲ妬ムトイフヤウナコトハ少シモナイ、僕ガ『ホトゝギス』ノタメニ忙シイトイフコトハ十分知ツテ居ル故・・・・・(1行以上に「点」を打つ、略)・・・・・(此間落泪)

僕ニ『日本』へ書ケトハイハヌ、ソウシテイツデモ『ホトゝギス』ノ繁昌スル方法ナドヲイフ、ソレデ正直イフト『日本』ハ今売高一万以下ナノダカラネ(売高ノコトハ人ニイフテクレ玉フナ)。僕カライへバ『日本』ハ正妻デ『ホトゝギス』ハ権妻(ごんさい)トイフワケデアルノニ、トカク権妻ノ方へ善(よ)ク通フトイフ次第ダカラ『日本』へ対シテ面目ガナイ、ソレデ陸氏ノ言ヲ思ヒ出スト、イツモ涙ガ出ルノダ。徳ノ上カライフテコノヤウナ人ハ余り類ガナイト思フ。(其陸ガ六人目ニ得タ長男ヲ失フテ今日ガ葬式デアツタノダ、天公是カ非カナンテイフ処ダネ)

ソレデ陸ノ旧案ヲ今取リテ今年ハ和歌ノ募集ナドトイフテ少シバカリ骨ヲ折ツタ。ソレデモ骨折ノ度ハトテモ『ホトゝキス』ニハ及バヌ。僕ガ歌論ヲ書イタカラトテ新聞ハ一枚モフエルワケハナイ・・・・・

『日本』へ少シ書ク。歌ノ方ヲ少シ研究スルト歌ニノリ気ガ出来テ俳句ノ方へ少シ疎遠ニナル・・・・・。二月分ノ『ホトゝキス』ノ原稿ハマダ一枚モ出来ンノダ。察シテクレ玉へ、僕ガ此無気力デコノ後一週間位ノ間ニ『ホトゝキス』ヲ書イテシマハネバナラヌト思フテ前途ヲ望ンダ時ノ僕ノ胸中ヲ。

高浜モ寝テ居ルサウダカラトテモマダ原稿ハ出来マイ。ツイデニイフガコノ前ノ『ホトトギス』ハ二千四百位売レタサウダ

僕ハ「落泪」トイフ事ヲ書イタノヲ君ハ怪ムデアローガソレハネカウイフワケダ。君ト二人デ須田(*学生時代に行った須田医院)ヘ往テ僕モ眼ヲ見テモラウタコトガアル。其時須田ニ「ドンナ病気カ」ト聞イタラ須田ハ「涙ノ穴ノ塞ガツタノダ」トイフタ。ソノ時ハ何トモ思ハナカツタガ今思ヒ出ストヨホド面白イ病気ダ。ソノ頃ハソレガタメデモアルマイガ僕ハ余リ泣イタコトハナイ。勿論喀血後ノコトダガ、一度、少シ悲シイコトガアツタカラ、「僕ハ昨日泣イタ」ト君ニ話スト、君ハ「鬼ノ目ニ涙ダ」トイツテ笑ツタ。ソレガ神戸病院ニ這入ツテ後ハ時々泣クヤウニナツタガ、近来ノ泣キヤウハ実ニハゲシクナツタ。何モ泣ク程ノ事ガアツテ泣クノデハナイ。何カ分ランコトニ一寸感ジタト思フトスグ涙ガ出ル。僕ガ旅行中ニ病気スル、ソレヲ知ラヌ人ガ介抱シテクレルトイフコトヲ妄想スル、ソレガモー有難クテハヤ涙ガ出ル。不折ガ素寒貧カラ稼イデ立派ナ家ヲ建テタト思フト感ニ堪へテ涙ガ出ル。僕ガ生キテ居ル問ハ 『ホトトギス』ヲ倒サヌト誓ツタコトガアルト思フトモー涙ガ出ル・・・・・・・・・・(落泪)


(子規はさらに、泪の出る例を続ける。日本新聞社で恩になり久松家で恩になったと思っても涙、叔父に受けた恩などを思えば無論泪、僕が死んで母が今日のような我儘が出来ないだろうと思うと泪、妹が癇癪持の冷淡な奴であるから僕の死後人に嫌がられるだろうと思うと涙、死後の家族の事を思って泪が出るなどはおかしくもないが、僕のはそんな尤もな時にばかり出るのでない。家族の事などは却って思い出しても泪のない事が多い。)

日本新聞社デ恩ニナリ久松家デ恩ニナッタト思フテモ涙、叔父ニ受ケタ恩ナドヲ恩へバ無論泪、僕ガ死ンデ後ニ母ガ今日ノヤウナ我儘ガ出来ナイダラウト思フト泪、妹ガ癇癪持ノ冷淡ナヤツデアルカラ僕ノ死後人ニイヤガラレルダラウト思フト涙、死後ノ家族ノ事ヲ思フテ泪ガ出ルナゾハヲカシクモナイガ、僕ノハソンナ尤ナ時ニバカリ出ルノデナイ。

家族ノ事ナドハカヘツテ思ヒ出シテモ泪ノナイ事ガ多イ。ソレヨリモ今年ノ夏、君ガ上京シテ、僕ノ内ヘ来テ顔ヲ合セタラ、ナドゝ考ヘタトキニ泪ガ出ル。ケレド僕ガ最早再ビ君ニ逢ハレヌナドト思フテ居ルノデハナイ。シカシナガラ君心配ナドスルニハ及バンヨ。君ト実際顔ヲ合ワセタカラトテ僕ハ無論泣ク気遣ヒハナイ。空想デ考ヘタ時ニナカナカ泣クノダ。

昼ハ泣カヌ。夜モ仕事ヲシテ居ル間ハ泣カヌ。夜ヒトリデ、少シ体ガ弱ツテヰルトキニ、仕事シナイデ考へテルト種々ノ妄想ガ起ツテ自分デ小説的ノ趣向ナド作ツテ泣イテ居ル。ソレダカラチヨツト涙グンダバカリデスグヤム。ヤムトモー馬鹿ゲテ感ゼラル。狐ツキノ狐ガノイタヤウダ。ソレデモコンナ事ヲ高浜ニ話ストスグニ同情ヲ表シテ実際ヨリモ余計ニ感ジル、サウスルト『ホトゝキス』ガ益々遅延スルカモ知レヌカラ言ハズニ置ク。僕ノ愚痴ヲ聞クダケマジメニ聞テ後デ善イ加減ニ笑ツテクレルノハ君デアラウト思ツテ君ニ向ツテイフノダカラ貧乏籤引イタト思ツテ笑ツテクレ玉ヘ。僕ダツテ泪ガナクナツテ考ヘルト実ニヲカシイヨ。・・・・・・・・・・

シカシ君、此愚痴ヲ真面目ニウケテ返事ナドクレテハ困ルヨ。ソレハネ妙ナモノデ、嘘カラ出夕誠、トイフノハ実際シバシバ感ジルコトダガ、女郎デモハジメハイゝ加減ニ表面ニオ世辞イツテヰタ男ニツイホレルヤウナモノデ、僕ノ空涙デモ繰り返シテヰルト終ニ真物ニ近ツイテクルカモ知レヌカラ。実際君ト向合フタトキ君ガストーヴコシラエテヤロカトイフタトテ僕ハ「ウン」トイツテル位ノモノデ泣キモセヌ。ケレド手紙デソーイフコトヲイハレルト少シ涙グムネ。ソレモ手紙ヲ見テスグ涙モ何モ出ヤウトモセヌ。タダ夜ヒトリ寐テヰルトキニフトソレヲ考ヘ出スト泣クコトガアル。自分ノ体ガ弱ツテヰルトキニ泣クノダカラ老人ガ南無アミダ/\トイツテ独リ泣イテイルヤウナモノダカラ、返事ナドオコシテクレ玉フナ。君ガコレヲ見テ「フン」トイツテクレレバソレデ十分ダ。

(略)

僕ガ愚痴ツポクなつたのハ去年の手紙中『ホトトギス』ノ文ナドデ大方察シテハヰタロ-ガコレポドトハ思ハナカツタロー、コレポド僕ヲ愚痴ニシタノハ病気ダヨ。尤モ僕ハ筆ヲトルト物ヲ仰山ニ書ク方ダカラ、喀血以前でも「病身である」だの「先づ無事でゐる」だのと書いて菊池に笑ほれた事がある。コノ手紙などを見せたら菊池ハ腹の中で笑ふであらう。それハ笑はれても仕方がない。僕もめめしい事でいひたくないのだ。けれどいはないでゐるといつ迄も不平が去らぬ。かう仰山にいつてしまうふとあとは忘れたやうになつて心が平かになる。・・・・・これだけ書くと僕も夢のさめたやうになつたからもはややめる。さうなると君が馬鹿ナ目ヲ見タト腹立てハしないかと思ふやうになってくる。ゆるしてくれ玉へ。

新らしい愚痴が出来たらまたこぼすかも知れないが、これだけいふて非常にさつぱりしたから、君に対して書面上に愚痴をこぼすのハもうこれ限りとしたいと思ふてゐる。金柑の御礼をいはうと思ふてこんな事になつた。決して人に見せてくれ玉ふな。もし他人に見られては困ると思ふて書留にしたのだから。

明治卅三年二月十二日夜半過書す

僕自ラモ二度卜読ミ返スノハイヤダカラ読ンデ見ヌ、変ナ処ガ多イダロー」


子規は自分の頭を「空涙」という。他人の思い遣り、気遣い、やさしさに敏感な子規である。その子規は漱石に気遣いしている。泣き事、愚痴だらけの手紙だが、それだけに漱石に読んで貰いたい。返事も要らない、冷淡に扱って貰いたい、と語っているが、聴き流されるのは寂しい、出来るならば構って貰いたいようだ。子規は自分が愚痴っぽくなったのはなぜか、をつづけて語る。

子規は「僕ガ愚痴ツポクなったのハ、去年の手紙中ホトゝキスノ文ナドデ大方察シテハヰタローガコレ程トハ思ハナカツタロー」、これほど僕を愚痴にしたのは「病気ダヨ」、もっとも僕は筆をとると物を仰山に書くはうだから、喀血以前でも「病身である」だの、「先づ無事でゐる」だのと書いて、菊池(謙二郎)に笑われたことがある。此の手紙などを見せたら菊池は腹の中で笑うであろう。それは笑われても仕方がない。僕もめめしい事で言いたくないのだ。(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))


つづく


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