1901(明治34)年
7月20日
黒岩涙香、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦、山県五十雄、斯波貞吉、円城寺清ら万潮報有志、社会改良団体「理想団」結成。参会者500人。
黒岩涙香によれば、「理想団」は宗教的団体ではなく、政治の党派でもなく、利益を目的とする会社でもなく、社会改良の理想をもって集まった団衆だという。ただし、具体的に何をするかという点で、黒岩涙香と内村鑑三、社会民主党の創立委員だった幸徳秋水らの思惑はそれぞれ違っていた。安部磯雄・片山潜・木下尚江ら社会民主党関係者が「自分らのものにしよう」として、名を連ねる。『家庭の新風味』シリーズを執筆しながら、理想の家庭について考えていた堺は、理想団の趣旨に賛同し、日記にも「至極面白い、大いにやつて見たいものだ」と記している。
政治世界の公義心の欠落には、社会の住人全体にも責任があると考え、社会住人自体の公義心向上による社会制裁カの強化が、社会の腐敗を救済するとし、良心的個人の団結を訴える。
人心の腐敗が金力本位・利欲本位の政治(政党)の弊害がもたらすところ大と認識する黒岩は、「今の政党を怨敵の一」とし、「政党と同一の領分を争はざるを得ず」と考え、「政治は人心に影響を有する事件中の最も大なる者、人心を改善せんとするの士が到底度外視する能はざる所」との意向を表明。
理想団は非政党的政治団体である。日本全国に理想団の呼びかけに応ずる多数の有志があったことは、社会改革を待望する気運が各地に存在していたことを示す。
7月22日の堺利彦の日記に堺は、
「社会民主党の連中は、自分等のものにしようと思つて来り加はつている、それもよい、或点までは両者の主義も一致してゐる」
と書いている。
理想団には、社会主義と名乗らない社会主義団体という隠された目的があり、社会主義者たちが流れこんできた。「予の半生」によると、堺はこのとき自分が社会主義者であることを告白したという。
その後も理想団への加入者は増え続け、3,166人が加入したことが『萬朝報』紙上で報告されている。
8月11日付『萬朝報』に、堺は「予は理想団員として何を為さんとするか」という一文を書いているが、ここには「社会主義」という言葉は見えない。自分とその家族、親族、友人、隣人の狭い範囲で多少の善事美事を行っていきたい、と語るにとどめている。
7月20日
仏、モロッコと協定調印。モロッコ、仏の国境警察の支配権認める。
7月20日
ロンドンの漱石(5番目の下宿に移転)
「七月二十日(土)、午前、 81 The Chase, Clapham Common, London S.W. の Miss Leale (リール嬢)方へ転居する。(ロンドンで第五回めの下宿)午後四時頃、書籍を入れた大きい革鞄来る。箱が大きすぎて門に入らず、門前で書籍を取り出し、苦労して三階まで運んだので、汗だくになる。この家には、老嬢姉妹(上品なフランス語を話す)と八十五歳位の退役陸軍大佐が同居し、犬塚武夫もいる。(小宮豊隆)一週三十五シリング。隣も同じような家屋で三方煉瓦に囲まれ、老爺が日光浴をしたり、老婆が芝生を芝刈機で手入れをしたりしている。帰国までの約一年半ほど、『文學論』準備のため、三階の自室に閉じこもる。この頃から明治三十五年の末まで、資料の収集・抜粋・読書・思索などに力を注ぐ。 Charing Cross (チャリング・クロス)の古本屋を覗くほか余り外出もしない。」(荒正人、前掲書)
「「自分の古い知友、太良(渡辺和太郎)は以前から、この家の二階に下宿していた。たまたま三階に空室が出来て、日本人で下宿の欲しいものがあれば、世話してくれと、主婦から頼まれた。丁度その時漱石先生は、前からの家が、思はしくなく、外に適当なのを探していた所なので、太良は早速先生に通知した。そして太良はかねてから計画していた大陸旅行に出掛けた。下宿のことは、主婦によく話しておいた。先生は自身懸け合って、この宿に移ることになった。」(渡辺春渓「漱石先生のロンドン生活」)渡辺和太郎からの知らせは、七月十七日(水)以前数日の間に来たものと想像される。」(荒正人、前掲書)
「七月二十日(土)
午前 Miss Leale 方ニ引越ス。大騒動ナリ。四時頃書籍大革鞄来ル。箱大ニシテ門ニ入ラズ。門前ニテ書籍ヲ出ス。夫ヲ三階へ上ル。非常ナ手数ナリ。暑気堪難シ。発汗一斗許リ。室内乱雑膝ヲ容ルゝ能ハズ」(『日記』)
「「今度の家も場所柄は、余り住いとはいえなかったが、閑静で、郊園(コンモン)に近く、市の中央に容易に出られる便があり、先生のいう安直であった。くすんだ街の通りの中でも、青蔦が黄色な煉瓦建の高い屋根裏迄、一面に蔽いかぶさっていて、目立って清楚に見えた。先生は裏庭に画した一室を占めた。往来の荷馬車の響などあまり聞えなかった。」
「下宿料は室代三食付、一週三十五志で、食事も左種悪くなく、この外洗濯賃、冬はストーブの石炭代など加えて、生活費はそんなにかさ張らなかったので、案外心安く過されたようであった。」(渡辺春渓「漱石先生のロンドン生活」)
「夏目さんの倫敦の縞を自分も知つてゐる。河向ふの本所といつた、労働者の多いバタッシイ公園から遠くないクラハムにずつとゐたのだ。ザ・チエースといふあの通りも、コムモンの方へ近い上手になると、蔦や鐵銭花などを門にからました、幾分瀟洒とした邸宅もあつたが、宿はずつと裾の方になつてゐて、場末に見る佗びしい住居が軒を並べてゐた。スピンスタアの標本ともいふべき未婚の姉妹が主人で、老耄した退役の陸軍大佐が同居してゐて、その老人が地階の表ての一室を客間兼食堂にして、家の者や他の下宿人は地下室で食事をし、夏目さんは三階のベッド・シッティジグ・ルウムへ陣取って、チェアリング・クロスあたりへ古本屋をひやかしに行く以外には、殆んど外出もしなかつたらしい。實に侘しい、しがないその日を送つてゐられたのだ」(平田禿木『禿木随筆』昭和十四年十月十三日誉社刊)。
「索宵は夜中枕の上で、ばちばち云ふ響を聞いた。是は近所にクラバム、ジャンクションと云ふ大停車場のある御蔭である。此のジャンクションには一日のうちに、汽車が千いくつか集まってくる。それを細かに割附けて見ると、一分に一と列車位宛出入りする譯になる。その各列中霧の深い時には、何かの仕掛で、停車場間際へ來ると、爆竹の様な音を立てて相図する。信号の燈光は青でも赤でも全く役に立たない程暗くなるからである。」(『永日小品』「霧」)
これは、明治三十四年(一九〇一)かまたは明治三十五年(一九〇二)の秋の回想である。」(荒正人、前掲書)
「金之助が引越し先を決めたのは、七月十六日のことである。この日彼は、クラバム・コモンのザ・チェイズ八十一番地にあるミス・リール方を訪れて女主人に面会し、女主人のミス・リール姉妹と同居人の退役陸軍大佐という「頗る老朽的生活」のおもむきのある下宿に移ることに決めた。帰路彼はカバン屋に立ち寄り、カバン二個と帽子入れ一個を四ギニー、つまり四ポンド四シリングで買った。おそらく中流住宅地のクラバム・コモンに移るのに、書生の下宿替えのように荷物をむき出しではこびこむことはできないと思ったためである。」
「クラバム・コモンはテムズ南岸、大ロンドン市の南西部にあるかなり広い緑地である。チェルシイ・ブリッジでテムズ河を渡り、バターシイ・パークを右手に見ながら倉庫や工場の並んだ地帯を南に一マイル半ほど下りつづけると、にわかに木立に囲まれた平坦な芝生がひろがり、木柵で区切られた道が通じていて、場所柄やや意外なほど広々とした公園の景観を呈する。これがクラバム・コモンで、その中央に近いところにひとつ、東側に二つの池がある。周囲に建ち並んでいるのは、カンパーウェル、トゥーティンクなどとくらべるとかなりましな中流住宅ばかりで、おのずからひとつの聚落を形成する。ザ・チュイズは、コモンの北側にほぼ南北に通じる通りである。
この通りのコモンに面した角の左側には精神病院がある。八十一番地は病院と同じ側、つまりコモンから北に向って左の七、八軒目にある三階建の家で、鉄柵でできた小さな門と前庭があり、金之助がロンドンで住んだ下宿のなかでは一番上品な家である。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
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「第五の下宿に落ち着く
・・・・・新聞広告を出して、やっとクラパン・コモン駅から約二十分のミス・リール宅の三階に決めた。出口保夫によれば、新聞広告には「当方日本人、下宿ヲ求ム、タダシ文学趣味ヲ有スルイングランド人家庭ニ限ル」などの文言があったそうだから、高級ではなくとも意に適った宿だったのだろう。三食付き、週三十五シリング、近所には「ザ・チェイス」通り(狩猟場の悪)があったが、住宅街の一画は閑静だった。女主人のミス・リール(五十歳前後)が妹と一緒に宿を経営していた。退役した陸軍大佐の老人やフランス人の子供二人、日本人では実業家の渡辺和太郎(号、太良)がいた。横浜の富商の息子で銀行員である。彼とはここで知り合い、帰国後も交際が続いた。
ミス・リールは彼が希望したように文学的素養のある女性だった。「この御婆さんが「ミルトン」や「シエクスビヤー」を読んで居ておまけに仏関西語をベラベラ弁ずるのだから一寸恐縮する」と彼は子規に報じている。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
「越したのは七月二十日であった。この家もスピンスター(糸紡ぎ女=老嬢)の典型ともいうべき姉妹が主人で、彼女らの老父にあたるのか、八十なかばの退役軍人大佐が同居していた。しかしこちらの姉妹は前の下宿の姉妹より上品で、フランス語も解した。
越した日の夜は、近くの広大なクラバム・ジャンクションを出入りする蒸気機関車の汽笛が耳についたというから、東京でいえば隅田川貨物駅近くの千住あたりの風情と思われる。下宿人中には日本人もいて、ひとりは東京美術学校教授の下村観山であった。
しかし漱石は、もはや日本人とつきあうこともなく、この引越しをきっかけにクレイグ先生宅に通うこともやめ、後世の英国人が古き良き時代として懐かしむエドワード七世の御世を、三階の自室にとじこもって読書にあけくれるのである。ベルリンから様子を見にきた芳賀矢一が、文部省に「夏目狂せり」と打電したほどの孤絶した集中ぶりは、翌年晩秋、帰国直前までの一年半近くもつづく。
そんな漱石に、もはや子規をかえりみる余裕はない。子規への通信も途絶え、したがって「倫敦消息」もそれきりになった。」(関川夏央、前掲書)
つづく
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