2026年3月2日月曜日

大杉栄とその時代年表(769) 1908(明治41)年2月3日~10日 「紀州新宮の大石祿亭君、彼は実に吾党の先輩長者である。彼の医術がいかにひいでたるかは僕の知るところでない。しかし僕はもし病ありて彼の手に治療を受くるならば、即日死んでも本望である。彼の半面は慈眼愛腸(ママ)である。彼の反面は狷介不羈である。彼は浮世をお茶にして三分五厘を観すべき瓢逸の質を備えている。彼は世を捨て山に入り隠遁の生を送るべき仙骨をも備えている。 しかして今彼はあくまで人間にとどまり、あくまで世間と闘い、革命家をもって自ら任ぜんとしているのである。彼はどどいつをも作る。料理にも凝る、細君の紋付のすそ模様の考案をもする。一種風変りの洋服をも案出する。産科学の書をも読む。哲学宗教の書をも読む。文章も書く。演説もする。痛罵もする、冷嘲もする。皮肉を言う、そしていつでも嬉々として喜び、ゆうゆうとして楽しんでいる。僕は実に彼の清高と多才とに推服せざるを得ぬ。」(堺利彦「獄中より諸友を懐(おも)ふ」)

 

大石誠之助

大杉栄とその時代年表(768) 1908(明治41)年2月1日~2日 「貞吉は実際、自分ながら訳の分らぬ程、日本人を毛嫌ひしてゐる。西洋に来たのを鬼の首でも取つたやうに得意がつて居る漫遊実業家、何の役にも立たぬ政府の視察員、天から虫の好かぬ陸軍の留学生。彼等は、秘密を曝かれる懼れがないと見て、夜半酒場に出入し、醜業婦に戯れて居ながら、浅薄な観察で欧洲社会の腐敗を罵り、其の上句には狭い道徳観から古い武士道なぞを今更の如くゆかし気に云ひ囃す」 (荷風『ふらんす物語』) より続く

1908(明治41)年

2月3日

八王子第七十三銀行休業し、同地の第三十六銀行取付にあう。各地で弱小銀行の動揺激化。

2月~7月中、判明分のみでも支払停止23行、預金取付42行に。

2月3日

米最高裁、反トラスト法を労働組合に適用。

2月4日

衆議院、酒税、石油税、糖税増徴案可決。憲政本党代議士会反対決議。

2月4日

(漱石)

「二月四日(火)、瀧田哲太郎(樗陰)宛手紙に、『中央公論』三月号に、夏日漱石論掲載されるとか、漱石論も大分書かれたので、もうたくさんだと述べる。

(鏡、小宮豊隆を訪ねたが留守である。)

二月五日(水)、鏡、エイを連れて小宮豊隆の下宿(本郷区森川町一番地小吉館) に行く。

二月六日(木)、高浜虚子・松根東洋城・野上豊一郎・森田草平・生田長江・野間真綱・鈴木三重吉・小宮豊隆来る。生田長江、自己流の自然主義を語る。食後の糖分は二プロッェシトである。

二月六日(木)以後二月二十日(木)以前、真山青果、生田長江に伴われて、初めて訪ねて来る。

二月七日(金)、森巻吉宛手紙に、訓育院のための寄付などあれば応じたいと伝える。高浜虚子宛手紙に、謡本五冊を届けて貰った礼を述べ、そのほかの謡本については、宝生新と相談してご指定のものを得たい、晩に『班女』はもう少しで習いおえるから、後は来訪の際、両人で謡っていただきたいと頼む。」(荒正人、前掲書)


2月4日

国木田独歩(37)、茅ヶ崎のサナトリウム「南湖院」に転地。妻治子、愛人の看護婦奥井君子を連れて。

2月5日

「辰丸」事件。

武器を積んだ日本汽船「第2辰丸」、マカオ沖航行中に清国軍艦に拿捕。

3月15日、清国、日本の要求受諾、解決。

19日、辰丸事件に関し広東に日本商品ボイコット運動激発。以後、各地に波及拡大。

2月5日

警察官及び消防官服制、巡査服制各公布。同型の服装、1945年まで続く。

2月5日

全国実業組合連合大会。参加500。税制整理要求と増税反対を決議(前日、衆議院は増税法案可決)。5月総選挙には増税賛成議員を再選させない決議

京都の西陣機業関係組合は飯田新七(高島屋)・下村忠兵衛(大丸)を含む20名を送る。

2月5日

「日本平民新聞」17号発刊

幸徳秋水「海南だより」。屋上演説事件で主要メンバが捕われた後に残された者の責任について。

守田有秋「金曜講演迫害記」。 1908年1月17日に開催された「屋上講演事件」における警察の弾圧や、それに続く検束の様子を記録した記事。

堺利彦「日本社会主義運動における無政府主義の役割」。 当時の運動動向に関する論説。

堺利彦「獄中より諸友を懐(おも)ふ」

大石誠之助のことを次のように語る。

「紀州新宮の大石祿亭君、彼は実に吾党の先輩長者である。彼の医術がいかにひいでたるかは僕の知るところでない。しかし僕はもし病ありて彼の手に治療を受くるならば、即日死んでも本望である。彼の半面は慈眼愛腸(ママ)である。彼の反面は狷介不羈である。彼は浮世をお茶にして三分五厘を観すべき瓢逸の質を備えている。彼は世を捨て山に入り隠遁の生を送るべき仙骨をも備えている。

しかして今彼はあくまで人間にとどまり、あくまで世間と闘い、革命家をもって自ら任ぜんとしているのである。彼はどどいつをも作る。料理にも凝る、細君の紋付のすそ模様の考案をもする。一種風変りの洋服をも案出する。産科学の書をも読む。哲学宗教の書をも読む。文章も書く。演説もする。痛罵もする、冷嘲もする。皮肉を言う、そしていつでも嬉々として喜び、ゆうゆうとして楽しんでいる。僕は実に彼の清高と多才とに推服せざるを得ぬ。」

2月5日

大杉栄、監獄より堀保子に手紙を書く

2月6日

西陣機業家大会。350名。織元長谷川杢次郎が演説(1月中旬より代表として東京へ派遣。日露戦争下で「平民新聞」読者。この時徒弟奉公していた辻井民之助はここで社会主義パンフレットを読み、これが転機となり、後に京都での労働運動指導者とばる)。

2月7日

大杉栄、午後1時、東京地方裁判所で開かれた屋上演説秩序紊乱事件公判に出廷。4時閉廷。

大審院第一刑事部で電車賃値上反対騒擾事件の判決。「原判決を破毀し、本件を宮城控訴院に移す」とされる。

2月8日

常盤電気株式会社創立。東京。

2月8日

啄木のこの日付け宮崎郁雨への手紙

「友人の無いのにも大分弱った、殊に当地の事情を聞く人がなくて弱った、此処いらで三面を作るには、怎(どう)しても何よりさきに粋界の事情に通じなければならぬ事だから、無粋の僕、苦心したのせぬの話ではない、幸ひ警察の池野警部を捕虜にして、各有力家の独占芸妓の事を詳しく聞き、㋙の女将を自家薬籠中のものにして、更に其裡面の事を探ったので、今では余程明らかになった、」と述べて、三面記事取材の苦心を述べる。

2月8日

英国王夫妻、ポルトガル国王と皇太子の追悼ミサに出席。宗教改革以来初めて、英国王が国内で行われたローマ・カトリック儀式に参加。

2月8日

第1回上毛同志会講演会。築比地仲助宅。

2月9日

(漱石)

「二月九日 (日)、小宮豊隆に誘われ、十二社の銀世界(梅園)に行く。小宮豊隆泊る。

一万十日(月)、岡田 (林原) 耕三宛手紙に、医者の診断で肺は異常ない由、精々御療養の上、婦京して欲しいと書く。

二月十一日(火)、紀元節。午後、青木昌吉来る。寺田寅彦も来る。青木昌吉の帰った後、小説の趣向について話しあう。夕食の前に蕎麦を食う。」(荒正人、前掲書)


2月10日

政友会代議士丸山嵯峨、同志36名と共に商業会議所に関する質問、提出。会議所を政府・政友会にかみつく「狂犬病患者」とみなし「会議所の廃止を断行する意思」を問う。政府はこれを黙殺。但し、内務省は連合会委員に尾行をつけ、大会には政談にならぬよう警告するなど運動抑圧を試みる。

2月10日

商業会議所連合会、再開(8日)され、この日、全国実連・記者300を招き非増税大懇親会を開催。

14日、総選挙についての宣言書を発表して閉会。

2月10日

京都の私立花園学院高等部、専門学校令により設立認可(花園大学の前身)。

2月10日

大杉栄、午後1時、東京地方裁判所刑事第三部で屋上演説秩序紊乱事件の判決。治安警察法違反で軽禁錮1ヵ月15日とされる。堺利彦、山川人も1ヵ月15日。森岡永治、坂本清馬、竹内善朔は軽禁錮1ヵ月。堺為子は「大杉君はカラカラ笑って舌をぺろりと出す」(裁判言渡の光景」)と記す。

間もなく巣鴨監獄に収監される。両隣の監房には石川三四郎と堺利彦がいた。

2月10日

エジプト国民党創始者ムスタファ・カミール(34)、没。

11日、葬儀、大規模な反英デモ。


つづく

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