1908(明治41)年
2月
清国、集会結社条例公布。
-2月
盛宣懐、大冶鉄鉱、漢陽鉄廠、萍郷炭鉱を合併。漢冶萍廠礦公司、設立。
2月
「推讃之辞」(「早稲田文学」)。田山花袋「蒲団」、「ハムレット」の土肥春曙、和田三造「南風」を推讃。この推讃の辞は以後毎年2月に行われ、同誌の名物となる。
2月
坪内逍遥『お夏物狂い』(お夏狂乱)。『早稲田文学』、舞踊劇、初演1914年9月、帝国劇場。
2月
二葉亭四迷『私は懐疑派だ』(『文章世界』、6月、同誌に『予が反省の懺悔』)。
2月
平出修、「文芸倶楽部」2月号が、生田葵山の小説「都会」を掲載したため発売禁止となり、筆者と発行人が新聞紙条例違反に問われて起訴された事件について東京地方裁判所法廷で弁護。結果、罰金20円の判決。
2月
(漱石)
「二月、この頃、昼食をやめて夕食を蕎麦にする。」(荒正人、前掲書)
2月
パブロ・カザルス、コンセール・ラムルー管弦楽団演奏会に指揮者兼ソリストとして登場。3回にわたりベートーヴェン交響曲第5番、ブラームス交響曲第3番ほか指揮。
2月
ロンドン国際海運会議、乗客運賃を決定。ダンピング競争に終止符。
2月1日
宮下太吉、再び森近運平を訪問。直接行動論ず。森近「脳と手」(「日本平民新聞」)で労働者宮下太吉の成長を賞揚。
2月1日
幸徳秋水、荒畑寒村に葉書。
「日本各地にアナーキストが、たくさんできた。テロリストさえも、ボツボツできるようだね」
2月1日
(漱石)
「二月一日 (土)、戸川秋骨 (東京府下大久保仲百人町百五十三番地、現・新宿区百人町)を訪ねたが、留守で会えず、『東京朔日新聞』の原稿料だけ置いて煽る。帰宅後、戸川秋骨宛手紙に渋川柳次郎(玄耳)と「朝日文藝欄」について相談した結果、三、四月頃から紙面の拡大をするかもしれぬので、その時は原稿掲載を実現できるかも知れぬと伝える。」(荒正人、前掲書)
2月1日
大杉栄「ツルゲネフとゾラ(一)ツルゲネフ」(『新声』)
2月1日
啄木(22)、「釧路新聞」に花柳界記事「紅筆便り」連載。その他紙面の刷新に意を用い、次第に競争紙「北東新報」を圧倒する。また、花柳界にも出入りし、芸者小奴との交情を深め、笠井病院看護婦梅川操との事件も起こす。
2月1日
ポルトガル、共和派、国王カルロス1世(ドン・カルロス)と皇太子ドン・ルイスを暗殺。独裁的抑圧政治を行っていたジョアン・フランコ首相、辞任。国王カルロス1世次男マヌエル2世即位(1910年10月5日退位)。フランコ独裁廃止。立憲政治復活。共和党伸長。
2月2日
啄木、この日の釧路新聞社新社屋落成祝賀式の準備委員長となって、社内外の装飾や当日の余興であろ裾引に奇抜な考案をするなどの準備に忙殺された。当日は日景主筆から借りた紋付き羽織、仙古平の袴に威儀を正して式場に臨み、夜は釧路第一の料亭書望楼における来賓70余名、芸者14名の大宴会に出席し、土地の名士や多くの美しい芸妓達と顔見しりになった。
2月2日
この日付け荷風の西村恵次郎宛の手紙
「フランスに来てフランスの生活を見ると今更のやうにモオバツサンのいゝ処が分るので此頃は又々それを読返してゐる。
小説以外に全力を傾注してゐるのは音楽だ。外観的のオペラから進んで純音楽に入つた。自分はピアノもヰオロンも楽器は手にしないが毎夜必ずコンセールに出掛けて一時間位は音楽をきく事にして居る音楽の哲理に関する書物も一通は読んでしまつた」
〈憧れのフランスと「放蕩」(『ふらんす物語』)〉
『ふらんす物語』より(フランスへ来た荷風の喜び)
父の配慮により前年7月より横浜正金銀行リヨン支店に勤務(ニューヨーク支店から転勤)
「ニューヨークで、高架鉄道や荷馬車の響で、気が狂ふかと思ふほど頭痛のしたのが、このバリーぢや、何処へ行っても女の笑ふ声にビオロンの優しい音色だ。ニューヨークの絶望時代と今日の境遇とを比較して見給へ。僕は無限の感に打れるよ。米国ぢや、ロングフェローの百年忌が来たと云っても、新聞紙は余白うづめに、誰でも知つて居る、珍しくもない肖像画を出す位が関の山だし、折角、革命の文豪ゴルギーの来遊があつても、くだらない道義的僻見で排斥して了ふしさ、欧洲の音楽史に一新期限を作つた『ザロメ』の如きオペラの演奏は、狭い宗教上の見地から禁止すると云ふ始末だ。それが、どうだらう! 大西洋一ツ越した此のフランスでは、唯だ一人、若手の劇詩人が、新にアカデミーの会員に選ばれると云へば、全都、全国の新聞紙が全紙面を埋めて是れを是非する位ぢやないか。ニューヨークの市街だと、古い大統領の銅像がたまさか、高架鉄道の架橋の下なぞに、塵だらけになって居るのが、このバリーに来ると、市中到る処に詩人画家学者の石像が道行く人を見下して居る」(『ふらんす物語』「再会」)
「そもそも、私がフランス語を学ぼうと云ふ心掛けを起しましたのは、あゝ、モーパツサン先生よ。先生の文章を英語によらずして、原文のまゝに味ひたいと思つたからです。一字一句でも、先生が手づからお書きになった文字を、わが舌自らで、発音したいと思つたからです」 (「モーパツサンの石像を拝す」)
「巴里の、殊に斯うした化粧の上手な女の年ほど不可知なものは有るまい。帽子の下から雲のやうに渦巻き出で、豊かに両の耳を蔽ふ髪の毛の黒いだけ、白粉した細面は抜けるやうに白いばかりか、近く見詰めると、その皮膚の滑かさは驚くほどで、眼の縁、口尻を験(シラ)べても、まだ目につく様な小皺も線(スジ)もない。とは云ふものゝ、やゝ落ちこけた其の頬の淋しさと、深い目の色には、久しくかうした浮浪の生活に、さまざまな苦労をしたらしいやつれが現はれて居た。
巴里の女は、決して年を取らないと云ふが、実際であると自分は思った。年のない女とはかゝるものを云ふのであらう」 (「羅典街(カルチエーラタン)の一夜」)
「フランスの女は外国で想像する程美人と云ふのぢやない、が、云ふに云はれぬ処に魔力があって鳥渡、料理屋か公園なんかで、何の気なしに話をする - 散歩する - 手を掘る ー 身体を摺寄せる - 凭(モタ)せ掛ける - 知らない中に引込まれてしまふのだ
(六行ほど省略)
だから、僕は決心した。一切、フランスに居る間は、女には手を出さぬ。何かの機合で思はれ慕はれでもしたら、僕はとても再び日本にや帰られなくなるかも知れんからね」(「祭の夜がたり」)
*鳥渡;ちょっと
「自分には、汚れがないと称される処女と云ふものは、如何に美しい容貌をして居ても、何等の感興を誘ふ力さへないが、妻、妾、情婦、もしくは其れ以上の経歴ある女と見れば、十人が十人、自分は必ず何かの妄想なしに過ぎ去る事が出来ない。新聞紙や人の口で、不義汚行の名の下に噂された女の名前は、容易に記憶から消去らぬばかりか、其の面影は折々、罌粟の花のやうに濃く毒々しく、自分の空想中に浮んで来るのが常である」 (「祭の夜がたり」)
『ふらんす物語』は、翌明治42年3月25日発刊予定であったが、印刷が終わって製本に取りかかったところで発売禁止となった。
ただ、誰かが出来上がりかけていた『ふらんす物語』初版のごく少部数が密かに持ち出され、希代の「幻の奇書」とされ、高額で取引されたという。
風俗を乱すというのが、発売禁止の理由だが、、、、国家・国策・官への反撥、享楽的で耽美的、例えば、こんな個所(↓)などか?
「華盛頓(*ワシントン)に来ると、其の翌年に日露戦争が起つた。けれども貞吉は自分で勇立ちたいと思ふほど、どうしても勇み立つ事が出来ない。国家存亡ノ秋、不肖ノ身、任ヲ帯ビテ海外二在り……なぞと自分から其の境遇に、支那歴史的慷慨悲憤の色調を帯びさせやうとしても、事実は、差当り、国家の安危とは、直接の関係から甚だ遠かつた政府の一雇人に過ぎない。毎日、朱摺の十三行卦紙へ、上役の人の作つた草稿と外務省公報を後生大事に清書する、暗号電報翻訳の手伝ひをするだけだ。上役、先輩の人の口から聞かれる四辺の談話は、日清戦争講和当時の恩賃金や、旅費手当の事ばかり。人が用をして居る最中に、古い官報や職員録を引張り出させて、身寄でも友達でもない人の過去つた十年昔の叙爵や叙勲の事ばかり議論して居る」
「貞吉は実際、自分ながら訳の分らぬ程、日本人を毛嫌ひしてゐる。西洋に来たのを鬼の首でも取つたやうに得意がつて居る漫遊実業家、何の役にも立たぬ政府の視察員、天から虫の好かぬ陸軍の留学生。彼等は、秘密を曝かれる懼れがないと見て、夜半酒場に出入し、醜業婦に戯れて居ながら、浅薄な観察で欧洲社会の腐敗を罵り、其の上句には狭い道徳観から古い武士道なぞを今更の如くゆかし気に云ひ囃す」
「酒に酔ひ女に戯るゝ事の愚なるは人巳に知れり。されど其の愚なる事も極みに達すれば、又解すべからざる神秘を生ず。われは実に、人の血には何故かゝる放蕩の念の宿れるかを、極むるに苦しむ」 (「橡の落葉・夜半の舞踏」より)
つづく
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