2014年2月1日土曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(59) 「三十三 玉の井から浅草へ」 (その1) 「もし永井荷風から何を連想するかと聞かれれば、たいていの人は浅草と答えるのではあるまいか。しかし戦前、荷風が作品を書きつづけていた時代には彼にとって浅草はそれほど重要な町ではなかった。」(エドワード・サイデンステッカー)

カワヅザクラ 北の丸公園 2014-01-31
*
三十三 玉の井から浅草へ

東京の下町を愛した荷風は、意外なことに浅草とは縁が薄かった。
「すみだ川」(明治41年)などで明治末期の浅草を描いたことはあるが、浅草オペラはなやかなりし震災前の浅草には、ほとんど足を運んでいない。

わずかに大正9年9月22日に、近頃流行の安来節を一度聞いてみようと思い立ち、浅草に出かけているのと、大正11年2月9日に、市川段四郎の告別式で浅草に出向いている程度。
あれだけ東京の下町を歩いた荷風が、黄金時代の浅草には出かけていない。
戦後書かれた随筆「浅草むかしばなし」(昭和25年)にも、明治から大正にかけての浅草のにぎわいが思い出されていながら、浅草オペラについてはひとことも触れられていない。
荷風は、田谷力三が活躍した震災前の浅草オペラを見なかったのではないか。

震災後の浅草が活気を取り戻すのは、榎本健二(エノケン)がカジノ・フォーリーで人気者になる昭和4年ごろからだが、この時期にも意外なことに荷風は、ほとんど浅草に出かけていない。
エドワード・サイデンステッカーがいうように「もし永井荷風から何を連想するかと聞かれれば、たいていの人は浅草と答えるのではあるまいか。しかし戦前、荷風が作品を書きつづけていた時代には彼にとって浅草はそれほど重要な町ではなかった。少なくとも、作品に描くべきほど大事な土地ではなかった」(『日本との50年戦争 ひと・くに・ことば』朝日新聞社、1994年)。

浅草に部屋を借りて、「浅草紅團」を書いた川端康成や同じように浅草に部屋を借りて「如何なる星の下に」を書いた高見順と対照的である。

「なぜ荷風は浅草に行かなかったのか。おそらくそれは、浅草が荷風にとって「下町」「江戸情趣を残す古い町」というよりは、今をときめく盛り場、にぎやかな興行街に見えたからだろう。」(川本)

震災前の浅草は、東京一の繁華街である。
たとえば当時、映画の封切館(いまでいえばロードショー館)は浅草にしかなかった。
だから、映画評論家の飯島正が回想記『ぼくの明治・大正・昭和』で書いているように、当時の若い「活動狂」は新しい外国映画を見るために、”浅草通い”をした。
"
浅草は震災前は東京の第一等の盛り場だった。
だから陋巷趣味の荷風にとっては縁のないところに思えたのだろう。さらに浅草オペラといっても、ニューヨークやパリでオペラを見て来た荷風にとっては、ハイカラなはずの浅草オペラが、野暮ったいものに見えたに違いない。
震災後、復興した浅草にしばらく足を向けなかったのも同じ理由だろう。
荷風にとって浅草は、濹東を散策する際に立ち寄る場所でしかなかった。
「日乗」のなかで、浅草は長いあいだ大きな役割を与えられていない。たまに浅草公園に出かけたり、酉の市に出かけたりしている程度である。

どうにか浅草が意味を持ってくるのは、やっと昭和6年12月11日
「晡時中洲病院に往く、日未没せざるに淡烟模糊、市街を籠め、燈火既に燦然たり、新大橋より乗合汽船に乗り吾妻橋に至る、花川戸の岸に松屋呉服店の建物吃立せり、橋際に地下鉄道の降口あり、市街の光景全く一変したり」。
震災後、急速に復興しつつある浅草の新しい都市風景に驚いている。

さらに昭和7年4月15日
「晡時中洲病院に往きて薬を求む。夕飯時まで二時間ばかり、雨中の事とて散歩すべき處もなければ、新大橋より船に乗り吾妻橋に至り、松屋百貨店の楼上を歩む。二階は東武鉄道の停車場なり。窓より隅田川を見おろすに鉄道の鉄橋花川戸より源森川の岸に架せられたれば、今はむかしの枕橋も高架線路の下になりて見えず。隅田川の川幅も吾妻橋のあたりは餘程狭くなりたるやうなり」

19章の「立ちあがる大東京-震災後の復興」にあるように、現在も隅田川沿いに建物を残す浅草の松屋デパートが開店したのは、震災後、東京復興のさなかの昭和6年。
他方、それまで隅田川の東、業平橋どまりだった東武鉄道が隅田川を渡って路線を延長させ、浅草松屋の二階を夕ーミナル駅にした(昭和6年5月25日)。
それまで東京市周縁を始終駅にしていた私鉄が市中に乗入れするようになった。私鉄の歴史のなかで画期的事件である。

「日乗」昭和7年4月15日
この日の記述は、この変化、新しい浅草の景観をとらえている。
「鉄道の鉄橋」は、東武鉄道の鉄橋(花川戸橋)のことで、現在もなお健在。普通の鉄橋とちがって、トラスが低く造られている。だから電卓に乗るとよくわかるが、電車の窓からトラスの鉄骨に妨げられることなく、隅田川をパノラマのように一望のもとに見ることができる。震災後の東京復興のなかで、「景観」が重視されていたことが、このことからもうかがえる。
昭和7年4月15日に、松屋デパートの屋上から隅田川を見たことを「日乗」のなかに書き記したのは、震災後の新しい浅草に興味を覚えたからに違いない。

昭和9年3月16日
再び松屋デパートの屋上にのぼり隅田川沿いの風景をながめる。その帰りに銀座に出るために地下鉄に乗る。荷風が地下鉄に乗ったのはこのときが最初。
「午後浅草に往き松屋百貨店の屋上に登る。人のはなしに晴れたる日には鴻の台の森もよく見ゆる由なれど、余のこゝに来る時は空いつもくもりて近く亀井戸あたりかと思はるゝガスタンクさへ朦朧として影の如し。此日も空には雲多く煤烟濠濠として眺望を恣にすること能はず。隅田川の水も鐘ヶ淵あたりより川上は物に遮られたり。五時過雷門に出で始めて地下織道に乗り銀座尾張町に至る」

当初、荷風は浅草の行き帰りに「乗合汽船」を利用している。
明治の初期、創業を開始したころ一区間が一銭だったためにその後船賃が五銭に上がっても「一銭蒸汽」と呼ばれて親しまれた小型の蒸気船である。永代橋から吾妻橋の隅田汽船と、吾妻橋から千住大橋の千住汽船の二つの会社が運航していた。

「日乗」昭和6年12月11日
荷風は中洲病院の帰り、新大橋からこの蒸気船に乗って吾妻橋まで行き、そこで降りて浅草の町を歩く。
昭和7年4月15日の浅草行きもそうだ。

さらに昭和7年5月23日
「新大橋より乗合船にて吾妻橋に至る。其途上両国橋掛替工事既に終りたるを見る。新橋は鉄骨橋上に聳えざる以て形大に好し」。
大川(隅田川)を走る船から、震災復興橋梁として完成しつつある両国橋(開橋は昭和7年11月)を見て、そのデザインを「大に好し」としている。
1週間後にまた蒸気船に乗る。

5月30日
「午後中洲病院に往き、乗合汽船にて吾妻橋に至り河端の公開を歩み(略)」
隅田川を昔ながらの蒸汽船に乗ってさかのぼっていく。船上で荷風は懐旧の思いにかられたことだろう。
*
*

0 件のコメント: