江戸城(皇居)東御苑 シナミザクラ 2014-03-18
*数百枚のタピスリー:
スペイン・ハブスプルグ家の蒐集になるもので、世界最大のコレクション
「マドリードの王宮、あるいはエル・エスコリアールの離宮を訪れた人は、数百枚のタピスリー(壁飾り、あるいは壁掛)を見せられて、案内役から、これはほんの一部で、全体では千何百枚かあって、その総面積は何千平方メートルとかに及ぶ、といった説明を聞かされる筈である。大部分はスペイン・ハブスプルグ家の蒐集になるもので、それは世界最大のコレクションであった。」
タピスリーとは何か?
「タピスリーそのものは、実に人類の文化とともに古いものであった。エシプトのファラオの王官や神殿にも、また古代ギリシャのパルテノン神殿にもかけてあった。ローマの王ネロは、タピスリーの大ファンであったという記録もある。しかしその起源は、おそらくペルシャあたり、つまりは西方から見ての東方であろうし、中近東へ出掛けて行った十字軍の将兵が、東方土産にもちかえって来たのが、西欧での普及のはしりてあったようである。
用途は、言うまでもなく室内装飾のためであったが、実用としては、石に漆喰を塗っただけの壁から滲み出て来る寒さを防ぎ、保温をめざしたものでもあった。また、戦争や狩猟のために野営をするときも、このタピスリーを棒に巻き込んでかつがせて行き、木枠を使ってこれでテントをつくったりもしたものであった。それはまた、宮廷や貴族の家格を誇示するためのものでもあった。戦争で、城などを占領すると、あらゆるタピスリーを剥いで戦利品として持ち去ることもまたこの家格ということと関係があった。」
ゴブランとは何か?
「・・・ゴブランというのは、実はただの家の名前なのであった。フランス王のアンリ四世が一六〇一年に、フランドルからタピスリーの織り工たち二〇〇人をパリに呼び寄せたとき、この織り工たちは、セーヌ河左岸の、ノートル・ダームを対岸にのぞむリエーヴル河岸にあった染物屋で有名なゴブラン家の館に宿を与えられ、そこで製作もしたものであった。そこから、パリ製のタピスリーがゴブラン織りと言われることになったものてあって、別にゴブランという特殊な織り方があったわけてはないのてある。現在でも同じ場所で、たとえばリュルサ(Lurcat)などの現代的な下絵で織られている。」
1720年、他国に遅れて王立タピスリー工場が設立された。その理由は?
「王立タピスリー工場が出来たのは、フランスなどよりも大分おくれて、一七二〇年、スペイン・ブルボン王朝の第一王であるフェリーぺ五世が設立させたものであった。なぜそれがおくれたか、・・・
かつての巨大なスペイン帝国は、現在のオランダ、ベルギーなどにあたる低地諸地方を領有していた。すなわちフランドル地方であり、ここがヨーロッパのタピスリー製造の中心地であった。だから、スペイン王室にしても貴族にしても、マドリードにそういう工場などという面倒くさいものをもつ必要がなかったのである。・・・」
辺地、辺境に発達したスペインの国内諸産業
「それにもう一つの理由は、広大な帝国内諸領域にある諸産業が、お互いに競合したりしないように、自国内での工業を抑制しもしたのであった。・・・いったいそのスぺイン自体に如何なる産業があったか。
それは、バレンシアとグラナダの絹、カタルーニァのコルク栓、木綿とプランティ、カスティーリアの羊毛、グアディスとトレドのナイフと剣、モレーリァの馬具、ラ・マンチャの鎌、カディスとサン・セバスティアンの造船……それは数えたてて行って心細くなって来るほどのものである。そうしてこれらの産業のすべても、長い停滞の時期に入っていた。」
「・・・その大部分が沿海地方であるということである。
スペインでは、辺地、辺境の方が、実は産業的に言っての中心なのであって、地理的、政治的中央である新旧のカスティーリァ地方は、産業という面では、辺地、辺境であってほとんど無に近い。・・・
・・・しかも、その複数の中心が相互に交通し交流することは、海を除くとすれば、ほとんど不可能である。・・・」
日用品や製造用具などは海外から購入、支払はメキシコの銀で
「・・・日常の用品、あるいは製造用の道具などは、どこから手に入れたらよいか。
要するに買えばいい、外国から。
その代金はどこから来るか。
南北アメリカとフィリピンから来る。特にメキシコの銀で支払えばいい。王位継承の問題やヨーロッパ各地にある植民地のことなどをめぐって起る、頻々たる戦争の代金もまた、その銀で払えはいい。メキシコとの貿易を長いあいた独占していたカディス港には、フランスの銀行が九つもあった。」
アルゼンチンから来る金、メキシコやペルーから来る銀や銅は、スペインを素通りしてフランスやイギリスやオランダへ行ってしまう
「要するに、砕いて言えばアルゼンチンから来る金、メキシコやペルーから来る銀や銅は、スペインを素通りしてフランスやイギリスやオランダへ行ってしまうのである。
そうしてこれらの植民地が独立してしまえば、スペインは裸のままの、もとの木阿弥である。・・・」
王立サンタ・パルバラ・タピスリー工場
「ユトレヒト条約によって、フランドル地方がスペイン領地ではなくなってから七年たった一七二〇年、時のフェリーペ五世は、フランドルからヴァン・テル・ゴッテン(Van der Gotten)なる織り師一家と多数の職人をつれて来させて、マドリード北のサンタ・パルバラ門(Santa Barbara)の外に王立のタピスリー工場を設置した。この工場は、ゴブラン織りの場合と同じく、その場所の名をとって王立サンタ・パルバラ・タピスリー工場と名付けられた。
このほかにも、一七一八年にはマドリードからそう遠くはないクアグラハーラに、王立の羊毛工場場が設立され、イギリス人が監督をして、多数のイギリス人織り工が仕事に従事した。王室の夏季離宮の一つ、サン・イルデフォンソには鏡と切子ガラス製造の工場が設立された。カルロス三世がナポリからやって来たとき、彼はいっしょに瀬戸物職人をつれて来てマドリード郊外のフエン・シティーロに陶器工場をつくり、また紙、剣、絹ストッキングなどの製造施設も設置した。すべて独占企業であり、民間が同じものを大規模に行うことは禁じられていた。」
「すべてこれ贅沢品であり、奢侈品であるとさえ言ってよいであろう。つまりこれらの王立工場は、産業用のものではなかった。王族と貴族たち自身と、その邸を飾るためのものにはかならない。・・・」
羊毛工場だけは、まずまず成功して・・・?
「服地用の羊毛工場は、元来スペインの羊毛を英国に輸出して、そこから服地を輸入するという、この莫迦莫迦しい、後進原料提供国としての立場から抜け出ようとして設置されたものであった。この工場だけは、まずまず成功して、スペイン全土にあまねく乞食がうようよしていたのに、グアダラハーラ地方には乞食がいなくなった、という噂がたったほどに有名になった。・・・」
「がしかし、イギリス人の管理者がいなくなると、途端に赤字になってしまった。
第一に、工場の立地条件がわるかった。市場としては地理的にマドリードだけしかもちえない。それに原料の羊毛を刈る中心地からは、はるかに離れていて、しかも有効な輸送手段がない。・・・」
スペインの製造業者は、こまかく細分された職業ギルドによって厳重に統制された閉鎖社会に属していた
「スペインのもろもろの製造業者は、ひどくこまかく細分された職業ギルドによって厳重に統制された閉鎖社会に属していた。しかもこの職業ギルドには、出身地域別による職業別までが持ち込まれていた。ニ重三重に、産業はがんじがらめになっていた。」
「ギルドは、自由な競争による発展のためのものではなくて、保守的、保旧的な自己保存と自己防衛のための組織であった。また製造業だけではなくて、製品を売る商人までがこういうギルド組織をとっていたとすれば、他よりも安値にしたり割り引いたりという商行為の上での刺激もがなくなる。」
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