オオカンザクラ 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 2014-03-17
*明治37年(1904)
6月2日
・ロシア司令官クロパトキン大将、シベリア第1軍団基幹救援部隊、旅順口へ派出。
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6月3日
・小林秀雄(2)妹富士子、誕生。牛込の納戸町。
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6月4日
・末広恭雄、誕生。魚類学者。
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6月5日
・週刊『平民新聞』第30号発行
社説「政府に忠告す(社会主義者と新取締策)」
(要旨)
今の欠陥ある社会では全ての階級に犯罪者の続出するは怪しむに足りない。
政友会も多くの犯罪者を出した、進歩党もそうだ、日本の政府、殊に文部官僚の中からも、警視庁自身の部内からすら犯罪者を出した。
我は健康なる者のために来れるに非ず疾病者を救わんがために来れるなり、といったヤソの言はまたわれら社会主義者の心である。
況んや二人の刑余者の前科なるものは10年ないし20年の昔、社会主義の語すらまだ聞かれなかった時世の事に属するというにおいてをや。
故にわれわれは同志中に刑余の徒あることを毫も恐怖する者ではないが、警視庁が社会主義運動を取締る手段として故(ことさ)ら個人の旧罪を発(あば)き、世人の悪意を挑発しようとする奸策を弄して敢て恥じざるに至っては、日本が野蛮国として非難するロシアと何の選ぶところがあるかと糾弾。
片山潜の米国社会党大会(3月10日、シカゴ)傍聴記。
大会は社会党の大統領候補として鉄道労働者の指導者ユージン・デブスを、副大統領候補としてベン・ハンフォードを指名。
また日露戦争に関して次の決議を通過した。
「露国および日本における上流階級の商業的利益の衝突は、これら両国の政府をして露日両国民の間に戦争を開始するに至らしめたるが故に、而して露国および日本の労働者はこの殺伐残忍なる戦争のために何等の利益する所なきが故に、米国社会党の本大会は露国および日本の労働者に向って友情団結の敬意を寄せ、且つ露日戦争を以て進歩と文明に対する罪悪なりとしてこれを非難する者なり。ここに是れを決議す。
而して更に吾人は露国および日本の賃銀労働者が、世界平和のために尽力せんには、宜しく万国社会主義運動と握手提携せんことを切言する者なり。ここに是れを決議す。」
「世界之新聞」欄
ドイツ社会党が日露戦争にあたって、ドイツ政府が暗にロシアを援ける形迹(けいせき)あるを見て大いに憤慨し、首領ベーベルの4月14日の議会での演説を紹介。
「わが党は宰相ビューローの中立宣言に反対しなかったが、しかしドイツの中立ははなはだ疑わしい。ハンブルヒ・アメリカン汽船会社がその汽船ビスマルク号を露国会社に売ったのは何故か、外務省は何故にこれを許可したか。該汽船は開戦の際、ドイツ海軍の補助巡洋艦となるものなのに、これを売却するは咄々(とつとつ)怪事といわなければならぬ。……今や世界は火薬に充たされ、一点の火も世界を焦土と化さんとする時、宰相はこれらの売却とこれより生ずる日本の損害、霧国の利益を果して如何に考えるか」と論難。
「龍城後の平民社」(3月6日に籠城の記を掲載して3ヶ月が過ぎた)
(「平民社龍城の記」(3月6日、第17号)、爾来「春光夢の如く今や指折れば早や三ヵ月の日子を過ぎて」、・・・)
営業面では、「今日までに殆んど何等の進歩も無い」。
市中卸し売代金の収入は、2月に179円、3月は172円余、4月は134円余、5月は120円余と漸減。新聞の売れ高の2/3は卸し売なので、この減収は相当の痛手。
平民社は応急策として3月以降全社員の給料の2割削減、ついで5月以後は社員一切無給とした。
ただし、無給とはいっても喰わねばならぬので、西川、石川、柿内、神崎、熊谷の5人は社内に住み込んで清田夫婦が炊爨(すいさん)一切の世話をし、社員は理髪代・湯銭・郵便代まで社の銭箱から取出すという形式をとった。
ただ堺と幸徳は家族を抱えてるので依然淀橋に住み、社から実費というにも足らぬほどの給料をうけていた。
だが、堺は、夫人ミチ子の病重く、8月に加藤病院の神奈川分院に入るに及んで、家をたたみ幼女を親戚に托して「籠城組」の一人となった。
こうして節約し得た金は3ヵ月間に100円内外に達し、どうにか平民社の水の手を支えた。
世間の状態を見ると、戦争の影響で一般に商業の不景気、殊に出版界の不振は甚だしく、流行の戦争物すら2、3を除けばみな損失続きの実状で、平民社が維持しているのは、むしろ不思議なくらい。
一方、直接購読は増加傾向となっている。
2月の直接購読の前金払い込みは60余円であったが、3月に140円、4月に150余円、そして前金切れの読者が一と通り払い込んだ5月でも、90余円となった。
「平民社籠城の記」当時は新聞の印刷部数4,500であったのが、卸し売りの減少のために3,700部に減った。
しかし直接購読の方は現に200~300部の増加を見ているので、市中の景気によって左右されない基礎が固まりつつある証拠とも見られる
次に平民社の出版物・取次書籍の売上高は3月が81円、4月が75円、5月が83円で、純益は幾らもないが損失の恐れもなく、宜伝効果と将来発展の見通しとが儲け物といえるかも知れない。
このように営業方面は、この3ヶ月間に進歩はなかったが、社員が背水の陣を布いて平民社を守り通すことが出来た。
しかし、「他の方面を言へば、これまた進歩の見るべき者のないのは慙愧の至りである」。
3月初めに籠城態勢を整えたが、3週間とたたぬに筆禍事件がおこって新聞は発売禁止、一審判決は発行禁止。禁止なれば直ちに後継の機関紙を出さねはならぬが、保証金1千円の工面がつかない。発行所を郡部に置けば350円の保証金ですむが、それとても調達の見込みがない。結局、ふたたび小島竜太郎から借りることになったが、幸い二審で発行禁止は取消され堺の刑期も1ヵ月を滅ぜられた。
しかし、堺の入獄は八面六臂の働き手を奪われるのだから、平民社にとっては発行禁止にも劣らぬ打撃である。その善後策として、従来堺の執っていた事務を幸徳、西川、石川の3人で分担し、幸徳は会計の帳簿を西川に引渡して編集に専念することとなった。
平民社七不思議の一にも算えらるべき「秋水先生の算盤珠」を、今後は西川がまぶしそうな眼をして弾(はじ)いているありさまは、殊勝にもまた覚束ない限りの光景であった。
もともと人手不足のところへ、編集長格の堺が欠けて、社中の誰もが夜12時まで筆を放す暇もなく、病身の幸徳すら日曜から木曜までは社に泊り込んでいた。
この間、『平民新聞』が得た最大の援助は木下尚江の応援であった。
木下は銀座4丁目の毎日新聞社(尾張町の角)から朝夕、筒袖姿に日和下駄を鳴らして平民社に「通勤」して論文を書く、編集を手伝う、事務の世話を焼く、演説会には出る、都々逸まで作る(「戦争の歌」参照)という奮闘ぶりである。
安部も早稲田の講義の暇を割いて担当の英文欄のほか、社を見舞ってはいろいろ面倒を見てくれる。
お客は多く、社会主義協会、早稲田派、地方団体、個人的同志の来訪や毎土曜日の新聞発送、演説会のビラ書き等、平民社は昼は編集局とクラブと事務所と商店と梁山泊との混合である。
そして夜はまた研究会や講演会があり、同人はよく人から「君等はいつも遊んでいるねえ」とも、「そう忙しくては溜まる」とも言われる。実際、遊んでいるのか忙しいのか、自分でもよく判らぬと記者は書いている。
記者は最後に『平民新聞』の帰属問題について一言する。
本紙は社会主義運動の機関であって吾々の私有物ではないが、まだ同志の全国的な団体組織がないために直ちにこれを引渡すわけにいかないので、同志の代表者とも見るべき数名の先輩を相談役に選び、本社の経営、維持、監督についてその成(せい)を仰ぐことにした。即ち左の人々である。小島竜太郎、安部磯雄、木下尚江、佐治実然、加藤時次郎。「右の諸君に加へて本社の秋水、枯川と西川、石川の両君を併せて一切公明正大なる合議の上でやって行くこととなった。」
さて今後の方針としては、
▲本社財政の基礎を鞏固にするため一万の読者を得なければならぬ。
▲新開の内容体裁の改善進歩を益々図らなければならぬ。
▲財政と時間と人数が許すに至らば現在の週刊を五日一回、三日一回、遂に日刊にまで拡大発展させなければならぬ。
次に遊説運動については、
▲今年の夏季休暇を利用して安部、木下、西川、石川をはじめ堺、幸徳がこもごも地方遊説におもむく事。
「以上我等の三ヵ月間の経過は幸ひに一点自ら欺かず、一点疾(やま)しきことなきを得た。そして今後の計画と希望とを達せんがために、益々自己の努力と修養とを期すると同時にまた層一層、読者諸君、同志諸君の同情と尽力とに信頼するの外はない。……諸君、最早我党大主義の勝利は眼前にある。この戦後の好機を逸してはならぬ、そして今一と息、この危機を踏み越えて進まねばならぬ。実に今一歩である、願はくば人類のため社会のため、教諭を吝(おし)むなかれ。」
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6月6日
・第3軍(司令官乃木中将)5万7千、遼東半島・塩大澳上陸。大将昇格。
7日、乃木大将、長男勝典の戦死の地、南山の戦場を視察。
この日の乃木の日記
斉藤季二〔次〕郎少佐軍政委員なり、来訪。同氏の案内、南山の戦場巡視、山上戦死者基棟に麦酒を献じて飲む。幕僚同行。
山河草木転荒涼 十里風暒新戦場
征馬不前人不語 金州城外立夕陽
この詩はのちの推敲によって、「河」が「川」に、「夕」が「斜」に改められた。
山川草木うたた荒涼 十里風なまぐさし新戦場
征馬すすまず人語らず 金州城外斜陽に立つ。
この詩は野口寧斎のもとに届けられ、詩誌「百花欄」第19集(明治37年7月25日)に掲載された。
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6月6日
・侍従武官長(陸軍)岡沢中将
近衛師団長長谷川好道中将
第2師団長西寛二郎中将
第3軍司令官乃木中将
参謀次長児玉中将
連合艦隊司令長官東郷中将
海相山本中将の7人
大将昇格。
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