千鳥ヶ淵 2014-11-21
*3 九段坂・青春前期
「中村光夫や武田勝彦にならって『あめりか物語』、『ふらんす物語』の年代を《荷風の青春》とよぶなら、それに先行する青春前期とでも称すべき一時期」について
「父・久一郎が文部大臣秘書官となって麹町区永田町一丁目二十一番地の官舎に移ったのは明治二十三年、荷風がかぞえ年で十二歳のおり・・・その直後ごろから荷風の生活圏の中心は、九段坂周辺という一地点に据えられることになる。
永田町から麹町区飯田町三丁目、黐(もち)の木坂下 - 麹町区飯田町二丁目二番地の借家へ移ったのは二十六年十一月・・・」
黐の木坂は、
「現在では、ホテル・グランドパレスの向かってすぐ左横にある坂だという説明が、いちばんわかりやすい表現になるだろう。地図でいえば、その坂が千代田区飯田町一丁目と九段北一丁目との境界になっている。さらに、中坂の下には飯田町の世継稲荷の縁日で、一と六の日に夜店が出たが、三番町の二七不動や小川町の五十稲荷の縁日にくらべればずっと淋しかった。大正時代でも、飯田町は暗い静かな町であった。
しかし、永井家はその借家にも一年たらずいただけで、翌二十七年十月には、おなじ麹町区内の一番町四十二番地に移転している。明治三十七年版の『麹町区全図』をみると、四十二番地は現在の九段南二丁目 - 九段花街の千鳥ケ淵や半蔵門の方向に寄ったすぐ裏手あたりで、現在の三番町の北端部に所在した模様である。『桑中喜語』(『猥談』の改題)には次のような一節がある
《明治三十年の頃僕麹町一番町の家に親の脛をかじりゐたり。門を出でゝ坂を下れば富士見町の妓家軒先に御神燈をぶら下げたり。御神燈とは妓の名を書きたる提灯をいふなり。毎日学校への往かへりに提灯の名を早くも諳じ女同士が格子戸の立ばなしより耳ざとく女の名を聞きおぼえて、之を御神燈の名に照し合すほどに、いつとなく何家の何ちやんはどんな芸者といふ事、一度も遊ばざるに蚤(ハヤ)く之を知る身ぞ賢かりける。》」
「また、永井威三郎の『風樹の年輪』によると、この家屋には明治三十五年五月二十六日、牛込区大久保余丁町七十九番地 - 市ヶ谷刑務署の裏手、すなわち『監獄署の裏』の家屋に転じるまで八年弱居住しているが、荷風が入院生活をしたのも、一番町時代のことである。《生来腺病質で十六才(ママ)の頃東京医科大学病院で二回瘰癧(るいれき)の外科手術を受けた。》と威三郎は記しているが、荷風自身は短文『雅号について』で次のようにのべている。
《尋常中学の二三年級の頃、下谷の第二病院に入院した時、一人の看護婦を見染めた。自分が女性に対して特別の感情を経験したのは、此れがそもそもの始めである。退院した後、小説をかいた。(これも余の小説の処女作である)小説には、是非雅号を署名せねばならぬと思って、其の時いろいろ考へた。看護婦の名が「お蓮」と云ふので、其れに近いものをと考へた未に、荷風小史と云ふ字を得た。》」
一方で荷風の雅号については、
「荷風が作家として師事した広津柳浪の子息である広津和郎の『年月のあしおと』」に記述がある。
《永井は最初からズバ抜けて才能があった。中村(=吉蔵)は学者に向いたろうが、作家としては永井とは較べものにならなかった」と後年父は私に話したことがあるし、又荷風という雅号は、永井さんが荷風というのともう一つ何とか云うのと二つ持って来て選んでくれと云ったので、荷風が字面も好いし、響きもいいので、「それにしたらいいだろう」と云って荷風を選んだというようなことも云っていた。》
「・・・昭和十年正月に書かれた『十六七のころ』をみると、《十六七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった。若しこの事がなかったなら、わたくしは今日のやうに、老に至るまで閑文字をも弄(もてあそ)ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人(あるじ)ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかも知れない。》と記されているから、いささかの誇張は割引きしても、その病臥が一応後年の作家=永井荷風を形成する出発点となったとみられぬことはない。が、荷風は最初から文学者への道をひとすじに歩きつづけたわけではなかった。
「わたくしが十六の年の暮、といへば、丁度日清戦役の最中である。流行感冒に罹ってあくる年の正月一ばい一番町の家の一間に寝てゐた。(略)二月になつて、もとのやうに神田の或中学校へ通ったが、一週間たゝぬ中またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。(略)そろそろ桜がさきかけるころ、わたくしはやつと病褥を出たが、医者から転地療養の勧告を受け、学年試験もそのまゝ打捨て、父につれられて小田原の町はづれに在った足柄病院へ行く事になった。》」
「この文中の《神田の或中学校》は、一ツ橋の高等師範学校附属学校尋常中学科で、小田原の《足柄病院》は十字町にあった。荷風は、そこに四カ月いたのち、《七月の初東京の家に帰ったが、間もなく学校は例年の通り暑中休暇になるので、家の人達と共に逗子の別荘に往き九月になって始めて学校へ出た。然しこれまで幾年間同じ級にゐた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のやうに学業に興味を持つことが出来ない。》
そのため、ほぼ九カ月の療養生活は荷風に読書の習慣を植えつけたかわりに、彼を学業から遠ざける結果をもたらした。・・・」
「明治三十年、数え年十九歳の三月に附属中学を卒業した荷風は、おなじ年の七月、第一高等学校の入学試験に失敗した。・・・同年九月にはすでに官界をしりぞいて日本郵船株式会社上海支店長となっていた父、母、弟らとともに上海へ渡航して、十一月に父だけをのこして帰京したのち、高等商業学校の附属外国語学校清語科に入学した。が、その件に関しては凌霜こと相磯勝弥との対談『荷風思出草』 のなかで、《シナ語のところはすぐはいれたから。はいるのは楽だったんだ。ほかのところは、もう入学試験がすんじまっていたあとだつたから。》と語っていることからみても、ただ両親のてまえ学校へ入ったというだけのものでしかなかったようである。事実、彼はそのままずるずると逸楽の淵へはまりこんでいって、ついに正規の学校教育は受けずじまいにおわってしまったのだが、順序としてその前に、いわゆる新帰朝当時の作品群のひとつである短篇『祝盃』をみておかねばならない。
《遂に最後の機会が到来した。それは学校の同級会から一同尋常中学を卒業した祝賀会をかねて鎌倉へ一泊の徒歩旅行を催す廻状の葉書の来た時である。》
その同級会のほうへは不参の返事を差出した《私》は、親からは過分な旅費を受け取って外泊の許可も得る。
《其の日の夕方兼て打合して置いた通り、親友の岩佐が自分を誘ひに来た。岩佐も今度の好機を逸しては他に外泊の口実を見出す事が出来まいと思ってゐたので、二人は早や夏らしい夕風の吹きそめる往来へと親の家をば逃るやうに飛出し四五町がほどは何にも云はず互の顔さへ見ず非常に急いで、そして世間を悼るやうに町の溝際を歩いて行った。その頃私の家は市ヶ谷の濠外に在ったので足にまかせて乗かゝつた処は九段の公園であった。往来はまだ明い。公園の葉桜の蔭ばかりが早や夜らしく暗くなってゐるのを見るや、私と岩佐とは同じ秘密を包む身のいづれが言出すともなく殊更に暗い木立の奥の腰掛を択んで腰をおろした。》
「そこで二人は双方の所持金をたしかめ合い、《第一の案内書なる都新聞其の他の研究から芸者はどうも高価であるらしく、》思われるところから、坂をくだって小川町まで歩いた末に《合箱(あひばこ)》つまり二人乗りの人力車に乗って吉原へ繰りこむ。
むろん『祝盃』は小説だから、これを事実として受け取るわけにはいかない。・・・」
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