北の丸公園 2014-11-19
*1941(昭和16)年
7月
・ドノバン長官のもとに情報調整官事務局(OCI)設置。まもなく戦略情報事務局(OSS)改組。
7月3日
・野村大使の警告電。
「モシ独ソ戦争ニ関連シテ対南方武力行使ヲナサルル決意ナリトセバ、日米関係調節ノ余地ハ全然ナキモノト観測セラル・・・日米開戦ノ一歩手前マデ行ク倶ナシトセズ」と進言。
7月6日
・グル―駐日大使、日本の対ソ戦不参加を要求。
翌日、松岡洋右外相、アメリカ大統領へ対ソ戦不参加を回答
7月8日
・アメリカの暗号解読室、2日の帝国国策要綱の解読に成功。
7月2日、第5回(この年の1回目、昭和に入って5回目)御前会議、「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」決定。
①南北両面に備え、②南進態勢強化(南部仏印進駐)、③対米戦辞せず、独ソ戦不介入。
7月10日
・大本営政府連絡会議、ようやく米国の6月21日案とハルのステートメントを審議。この日は外務省に意見開陳のみ。この日夜、近衛首相、陸海内3相と松岡問題を協議。
12日、大本営政府連絡会議、松岡外相が日米交渉打切りを提議。松岡の癇癪玉が破裂し、松岡の政治生命がこの瞬間に絶える。
7月14日
・松岡外相の意見を容れた日本側第2次案が出来、午後8時、近衛は松岡の腹心斎藤顧問に対し、この第2次案とオーラル・ステートメント拒否訓電の同時発信を支持するが、午後11時、拒否訓電のみが発信される。
7月15日
・寺崎アメリカ局長が松岡外相に内密に第2次案をアメリカに送る(これは、野村大使が米側に提示せず)。松岡は、坂本欧亜局長に命じ、既にこれをドイツに内報させている。
この日、松岡欠席の閣議後、陸海内3相と協議し松岡罷免を決定。更迭はハルのオーラルステートメントに強要されたように見えるので総辞職がよいとなるが、最終決定は16日に再度検討して決めることとする。
7月15日
・米国務省極東部長ハミルトンと日本課長バランタイン、野村に南部仏印進駐に関し真相を質す。
7月17日
・ジョー・ディマジオの連続試合ヒットが57試合目のインディアンズ戦で終り、56試合連続ヒットの記録となる。
7月18日
・横浜港からサンフランシスコ航路最終船(日本郵船の浅間丸)が出港
7月18日
・米国の閣議、日本に対する制裁を検討。結論出ず。
全面禁輸に踏み切れば、日本の蘭印占領を促し、米国の対日参戦を招くおそれがあるとして躊躇。大西洋で援英物資輸送船舶の護送に専念したい米海軍は、対日貿易禁止に反対。また、外相の交代(松岡から豊田)にも、多少の希望をつなぐ。
7月21日
・病気のハル長官に代り米国務次官ウェルズ、野村大使代理の若杉公使に、「情報によれば日本は最近仏印を占領する模様であるが、かくては従来の会談は無用となる」と警告。
7月23日
・野村大使から豊田外相宛ての電報。
「当方面の対日空気急変の原因は南進にあり。しかして南進はやがてシソガポール・蘭印に進む第一歩なりと認むるにあり」と伝える(野村吉三郎「米国に使して」)。
7月23日
・休養中のハル、電話でウェルズ次官に、日米交渉の中止を日本に伝えるよう命じる。
日本広東総領事の現地陸軍から出た、進駐に関する14日付本省宛電報が、19日「マジック」により解読され、新内閣の方針に変化なしと判断。
7月23日
・国務次官ウェルズ、野村大使とも会談、重大申入れ。
「従来米国は能ふ限りの忍耐を以て日本と会談して来たが、今となつては最早会談の基調は失はれるに至った」(近衛著)。
7月23日
・野村大使、本国へ「至急新内閣の対米方針を御内示相成度」と請訓。
7月23日
・ルーズベルト大統領、中国空軍再建への援助を承認。
7月24日
・この日着の野村駐米大使の電報によると、米国では、従来の日米会談は東京側に「トピードー」(破壌)されるであろう、また日本は同盟国に対して、日米国交調整の試みは南進準備完了迄の謀略と説明している、との説が支配的となっている。(近衛書)
7月24日
・午前、大統領は義勇協力委員会の人々を引見した際、もし米国が対日石油輸出禁止をしていたならば、すでに日本は蘭印を占領し戦争となっていただろうと演説。
7月24日
・午後の閣議、大統領は、無制限国家非常事態宣言に基づき在米日本資産凍結を決定(26日発効。英・蘭印もこれに続き、前年締結された日蘭民間石油協定は破棄)。但し、米政府は、これによって日米貿易を許可制の下におくこととしたが、直ちに全面禁輸を意図したのではなく、大統領は「資産凍結が全面禁輸をもたらさないことを、国務および海軍省の官僚に再度確約した」という(日本政府の出方を見守ることとする)。
7月24日
・アメリカのラジオニュース放送、日本の軍艦がカムラン湾沖に現れ、日本軍輸送船が海南島から南下しつつあると報道。
7月24日
・ルーズベルト大統領、野村吉三郎駐米大使に南部仏印進駐の中止を勧告。仏印中立化を提案。
ルーズヴェルトは、仏印進駐中止及び撤兵を前提とし、各国(日米英蘭支)が仏印中立を共同保障し、自由・公平に仏印物資を入手する「仏印中立化」提案を行ない、同時に、日本軍が南部仏印に進駐すれば、米国国内の対日石油禁輸輿論を宥和することは国難になるであろうと述べる。
日本がもし軍事拠点確保の実力行動を続行すれば、アメリカは対抗措置をとらざるを得ないとの警告。
日本はこれを無視し28日上陸開始。
同日付豊田宛野村電。
「従来輿論ハ日本ニ対シ石油ヲ禁輸スベシト強ク主張セシニ拘ラズ、自分ハ之ヲ太平洋平和維持ノ為ニ不可ナリト言ウテ説得シ来リシガ、今ヤ其ノ論拠ヲ失ウニ至レリ、ト述べテ石油ノ禁輸アルベキヲ仄カシ・・・今ハ既ニ時期遅レタルノ感アリ、事前国務省卜打合セヲ為セシニ非ザルガト前置キシ、若シ夫レ仏印ヨリ撤兵セラレ、各国其ノ中立(瑞西ノ如ク)ヲ保障シ、各国自由ニ公平ニ仏印ノ物資ヲ入手シ得ルガ如キ方法アリトセバ、自分ハ尽力ヲ惜マズト語り、且日本ノ物資入手ニハ自分モ極メテ同情ヲ持ツ」と述べる。
同席のウェルズ国務次官記述。
大統領は、米英側は仏印に脅威を与えていないのだから、日本の仏印進駐はそこを基地として更なる南進を意図したものと考えるほかない、もし日本が石油獲得のために英蘭と戦争すれば、英国援助を国是とす米国にとっても重大な事態とならざるを得ないと警告。
しかし仏印が中立化されれば、現地政府がドゴール政権化しないことを保証すると言う。また日本の政策はドイツの圧力によるものであろうが(米側の思いこみで、野村も強く否定)、日本政府は理解していないが、ナチスは世界征服を意図しており、将来日本と米国の海軍は共同してヒトラーと戦わねばならなくなるとさえ述べる。
野村は中立化提案に心を打たれた様子だったが、日本側には面子の問題があり、真に偉大な政治家でなければ政策の転換をなし得ないだろうが、ただちに本国に報告すると述べる。辞去する野村に楽観的な気配は感ぜられなかったという。
7月25日
・日本の南部仏印進出への報復措置続く
アメリカ政府、在米日本資産凍結令公布(26日発効)。英(26日)・蘭印(オランダ領東インド)(27日)もこれに続いて同措置。
7月26日
・南部仏印進駐の政府声明。
声明に先立ち、豊田外相はグルー米大使、クレーギー英大使と個別に会見、仏印進駐には領土的野心はなく、仏印に対する周辺からの攻撃態勢に備えた共同防衛の措置であり、他地域に対する前進基地とするためではない旨を強調、両国の理解を求めた。
これに対し彼らは「サラニ南方ニ進出スルナラン・・・英米ハ脅威ニ感ズルコト大ナリ」(米大使)、「日本ヲ包囲的ニ圧迫シツツアリトイウモ、此ノ如キコトハ絶対ニナシ。オ前ガヤルナラ俺ノトコロモ考エル、ト極メテ興奮シテ語」る(英大使)。
7月26日
・ルーズヴェルト大統領、フィリピン陸海軍を米陸海軍に編入し、米極東陸軍司令部を新設し、ダグラス・マッカーサーを最高指揮官に任命。フィリピン防衛を本格化し、新鋭爆撃機ボーイング17 (空飛ぶ要塞)を配備するようになる。
7月27日
・グルー大使,豊田外相に仏印中立化案受諾を要請。
グルーは、「これは日本が自称する困難と、これまた日本が自称する自国の安全をおびやかすABCD国家の包囲的手段とからぬけ出す、理窟にあった方法を、日本に提供している」と考えた。
しかし、豊田外相はこの情報を知らないと言う。外務省内の枢軸派による妨害とか、野村がこの提案を速報しなかったため、とも云われる。実際は、野村は24日、27日の電報でこれを詳報しているが、積極的な受け入れを上申していない。
豊田はグルーに対して、時すでに遅しとか、資産凍結で高まった日本国民の反米感情が冷却するまでは仕方がないとか、と消極的な反応を示す。グルーは、大統領提案によってのみこの難局を打開できるし、これを果たせば、豊田は日本最大の政治家の一人として永く歴史に残るだろう、ともち上げステーツマンシップを発揮するよう訴える。
日本側資料では、豊田は「斯ル米大統領ノ提案ヲ直チニ取上グルコトハ断ジテ不可能」、あまりに重大な提案なので即答できないという。
7月30日
・ツツイラ号事件。揚子江上の米艦に至近弾。
朝、第11航空艦隊所属の第21航空戦隊・鹿屋航空機の中攻26機中の1機、重慶市街地を爆撃中、南岸に面した江中に投錨中のツツイラ艦尾8ヤード地点に1弾を落下、大きな水柱を盛り上げる。
「人員に異常なし、艦載動力艇一隻ひどく損傷、モーターサンバン一隻係留装置を外れ流失」(ガウス大使から国務長官宛ての電報)。ツツイラが至近弾を受けるのは、これで3度目。前年5月28日には400ヤード地点、同10月25日に300北方の江中に弾着。駐日グルー大使は、「日米両国、戦争の八ヤード前までくる」と日記に書く。「爆弾はツツイラから八ヤードばかり離れた場所に落ちたが、艦は損害を受け、別の爆弾は危険にも米大使館のすぐ近くに投下された。人員に死傷がなかったのが奇跡である。私にはどうしてもこれが偶発事件だとは思われない。米国の官吏が三人、ツツイラの真上ともいうべき丘の上から見ていたが、天気は極めてよく、一万五千フィートぐらいの高度を保って重慶に近づいてきた一台の爆撃機は編隊を解き、ツツイラと大使館を結ぶ線へとコースを変えた。この爆撃がツツイラと大使館を故意に目標としたもので、僅かの差で目標に爆弾があたらなかったのだということは、米国人の官吏が口をそろえて述べている」(グルー「滞日十年」)。
7月30日
・ワシントン、ツツイラ号事件に関し、サムナー・ウェルズ国務次官(長官代理)と野村吉三郎駐米大使の会談。翌日再度会見。
野村大使、バネー号事件同様、日本側の非を全面的に認め、損害賠償を提案。更に今回は「重慶市街地区に対するすべての爆撃停止」措置も含まれる。しかし、8月8日以降爆撃再開。
野村提案の前日(日本日付7月31日)夜8時、上海の「出雲」艦上の支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎大将は、海軍省軍務局長発の機密電を受け取る。「『ツツイラ』事件ニ関シ外交折衝上・・・一時重慶市街ノ爆撃ハ差控フル旨在米大使ニ通知スル事トセラレタルこ付含ミ置カレ度」。爆撃停止宣言は「外交折衝上」の技巧で、現地最高指揮官に対し、爆撃停止命令として伝達されたのではなく、「含ミ置カレ度」程度の要請。
7月31日
・天皇、永野修身軍令部総長に対米施策について下問。アメリカの強行施策に対する動揺が見える。
「日米国交調整が不可能になって油の供給源を失うことになれば、二年間分の貯蔵量を有するのみであり、戦争となれば一年半で消費してしまう。むしろこのさい打って出るほかはない。・・・その結果は、日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るやいなやも覚束なし」と答え、天皇をしてまことに危険な「捨てばちの戦争」と慨嘆させる。一方この時、三国同盟から脱退しても日米交渉を纏めるべきであるとも受け取れる意味の答えをもする(「木戸幸一日記」下)。
8月1日
・藤井茂軍令部員の日記。
「帝国首脳部ハ日米関係ノ悪化ヲ極度ニ恐レ・・・米大統領ノ申シ出ヲ取り上ゲ、日米再交渉ヲ極秘裏ニ進メントセリ。之が基礎案ノ作製ヲ命ゼラル(八月一日)」とある。"
8月1日
・ルーズベルト大統領、対日石油輸出完全停止。全ての「侵略者」国家に石油禁輸。原綿・食料を除き全面的に通商不許可と付け加える。
この頃の日本の石油貯蔵量は4270万バーレル(1年半分)。供給先はアメリカが80%、残りがボルネオ、蘭印。
8月2日
・この日の参謀本部20班(戦争指導班)の「大本営機密戦争日誌」の記述。
「対米戦争ハ百年戦争ナリ。帝国ハ遂ニ之ヲ回避スルノ方法ナキヤ。同盟電ニ依レハ石油ヲ禁輸スルト云フ。事実ナリトセハ遂ニ百年戦争ハ避ケ難キ宿命ナリ。軍務課対英米戦争ヲ決意スヘキ御前会議ヲ提議シ来ル」。
(百年戦争、つまり戦争で米国を屈伏させることはできない、勝てないから、せめて負けない戦をしなければならぬ、短期決戦に持ち込みたいが、短期決戦で勝利を収める決め手がないから、否応なく長期戦争を覚悟して、双方痛み分けを期待するほかはない、ということ。)
「対英米方策ヲ如何ニスベキヤ。対英米戦ヲ決意スベキヤ、対英米屈伏スベキヤ。戦争ヲセズ而モ屈伏セズ打開ノ道ナキヤ。此ノ苦悩連綿トシテ尽キズ。班内二日間論議ス。対米長期戦争ノ勝目ハナキモ不敗ノ算ハナキヤ。詔勅ヲ仰ギタル枢軸結成ヲ今更離脱シ得ルヤ。皇国ノ面子ヲ損セズシテ一時的ニ妥協シ日米戦争ノ発生ヲ成ルベク遅カ〔ラ〕シメル策案ナキヤ・・・」(7日、8日)」
「苦悩続ク 情勢進捗セズ・・・。仏印進駐ヲ遶ル英米ノ対日動向判断ニ於テ楽観ニ過ギタルハ既ニ明カナリ 情勢判断誤レルヲ告白ス・・・。年内対「ソ」武力解決ハ行ワザルヲ立前トスルコトニ決ス」(9日)
「情勢動力ズ。沈思苦悩ノ日続ク。一日ノ待機ハ一滴ノ油ヲ消ヒス。一日ノ待機ハ一滴ノ血ヲ多カラシム。而シテ対米百年戦争ハ避ケ度」(10、11日)
「(米国以外の)石油入取〔手〕ノ能否ヲ研究ス。大体ニ於テ何レモ藁ヲモ「ツカム」ノ部類ナリ。外交ニ依り一時的ニ油ヲ取得シ其場ヲ凌ギ得ルトスルモ米ノ海、航、軍備充実ノ暁ハ如何 其ノ場合「ストップ」ヲ受クルモ起ツ能ワザルニ至ルコトナキヤ。米ハ将来ニ亘リ太平洋ノ平和ヲ念願スルモノナリヤ否ヤ(12、13日)
この頃、海軍中央は省部の中堅士官を夜間非常呼集。余りに峻烈なアメリカの対抗措置に、だれもが「しまった」と唸る。
軍務局長岡敬純少将は、「米英の態度がシリアスになると考えたが、まさか全面禁輸をやるとは思わなかった」と云う。
8月3日
・近衛首相、有田八郎への返書で南部仏印進駐の影響(米の強硬態度)への見通しの甘さを語る。
「全く御同感の事ばかりにて、しかも微力如何ともする能わず、日夜煩悶懊悩致し居る次第御憐察被下度侯。仏印進駐は松岡前外相すら反対したる所、しかも刀折れ矢尽き前内閣の御前会議にて決定を見、新内閣成立の時は既に海南島に集結を了し居り、矢は弦を離れたる形にて最早如何ともする能わず、ただし日・米国交調整の見地よりすれば、蘭印ならば兎も角、仏印なれば大した故障なかるべしとの見透しが、陸・海とも一致したる見解にて、この見透しが誤り、今回の如き結果となりし事、遺憾至極に存居候」(「馬鹿八と人はいう」)。
ドイツの傀儡ヴィシーへの圧力による進駐であるため、アメリカを刺激しないと甘い判断。一方では、南進は「対英米戦争も辞せず」としているにもかかわらず・・・。
8月4日
・大本営政府連絡会議、米大統領の仏印中立化提案(7月24日)に対する回答として、日米交渉再開の糸口とするべく対米申入れを決定。
翌5日野村大使宛訓電。翌々6日野村大使はハル長官に伝達(「8月6日回答案」)。ハルはこれを殆ど問題にせず。日本が武力政策を捨てない限り会談続行の意思はないという。
①日本は仏印以上に進駐の意思なく、仏印からは支那事変(日中戦争)解決後撤兵。②比島の中立を保障。③米国は南西太平洋の武装を撤廃。④米国は蘭印での日本の資源獲得に協力する。⑤米国は日支直接商議の橋渡しをし、又撤兵後も仏印での日本の特殊的地位を容認する。
「近衛手記」は、大統領提案に対する回答案を8月4日の連絡会議で決定したと述べているが、この日の『杉山メモ』にはこの件についての記録はない。この日は、統帥部を参加させずに、近衛・豊田・東条・及川の四相会議で密かに検討されと考えられる。
軍務局の石井によれば、この案は「下僚に一切関与させることなく、外務省と両軍務局長(武藤、岡)とで作り上げ」たものという。ここでの「外務省の局長」は、斎藤音次南洋局長(前年、バタビヤ(現ジャカルタ)総領事として蘭印交渉に当たる。積極的な南進論者)と推定される。
8月4日
・夕刻、近衛首相、陸海両相に米大統領と会見する決意を打ち明ける。海軍賛成、陸軍は文書で回答。
この案は富田健治内閣書記官長が思いつき、伊藤述史情報局総裁の意見をきいて近衛に進言。
5日、近衛は木戸に書面で決意を表明。
「(従来の交渉では)双方の真意が徹底しておらぬ憾(ウラミ)あり。此のままずるずると戦争に這入ると云う事は・・・為政者として申訳ない事と考える。・・・大統領と直接会て遂に了解を得られなかったと云う事であれば、国民に対しても、真に日米戦止むを得ずとの覚悟を促す事になり、又一般世界に対しても侵略を事とするのではなくして太平洋平和椎持の為には此れ丈け誠意を披瀝したのである事がはっきりして、世界輿論の悪化を幾分にても緩和し得る利益あり。」
日米対立点については、日本の理想とする大東亜共栄圏の確立と、米国の九ヵ国条約主義とは相容れないが、米国も合法的なる方法による条約の改定にはいつでも相談に乗るといっているし、日本もこの理想の全部を一挙に実現することは、今日の国力の上から見て無理だから、日米の話し合いは双方が大乗的立場に立てば、できないことはないとしている。
「要するに、尽す丈けの事をつくす、そして出来なければ止むを得ぬ、つくす丈けの事をつくすと云う事が、対外的にも対内的にも、必要であると考えるのである」と結ぶ。
この時の近衛の考え:
①これまでの日米交渉には、誤解や感情の行き違いがあり、双方の真意が相互に徹底していない。この際尽すべきを尽す必要がある。
②時局は危機一髪の時で、野村大使等の出先を通じての交渉では時宜を失する虞がある。首脳会談で直接話し合って、妥協できるものかできないものかを決める必要がある。
③日本の主張は大東亜共栄圏建設で、米国の原則は9ヶ国条約なので、両者は相容れないが、日本が大東亜共栄圏確立をめざしても、現在の日本の国力ではこれ一挙に実現することは無理であり、米国も合法的な方法による9ヶ国条約改訂には話し合いに応する用意があると言っているので、双方の談合は不可能ではないと考えられる。
④日米首脳会談は急を要する。独ソ戦の山は9月には見えるであろう。もし戦線膠着になれば、ドイツの前途は楽観を許されないであろうし、米国も強腰になり日本との談合に一顧だにしなくなるであろうから、そうならぬ内に会談を実現する必要がある。
近衛は、誤解や感情の行き違い、と考えているが・・・。中国を侵略し、三国枢軸を形成し米国を敵視し、いま南方を侵略しつつある日本の国策に、米国との根本的行き違いがあるのを理解していない。
東條の文書での回答。武藤・佐藤・石井と検討。近衛の提案は三国同盟との関連から適当ではないが、近衛の前向きな姿勢は評価する、大統領と話し合ったからといって懸案が片付くわけがない、などの意見がでる。
回答は、「・・・(ルーズベルトが)依然現在とりつつある政策を続行せんとする場合には、断乎対米一戦の決意を以て之に臨まるゝに於ては、陸軍としても敢て異存を唱ふる限りに非ず。附言。(一)先方の内意を探り、大統領以外のハル長官以下との会見なれば不同意なり。(二)会見の結果、不成功の理由を以て辞職せられざること。否寧ろ対米戦争の陣頭に立つの決意を固めらるゝこと」。
8月4日
・ウェルズ国務次官、仏印中立化の大統領提案に関し若杉公使に追加説明。日本が大統領提案に応じれば、米国は経済封鎖を解くと言う。
「即チ日本ノ仏印進駐ハ、一ハ英支聯合(多分米ヲモ加エ居ルナラント附言ス)ノ脅威ニ対スル防衛卜称シ、二ハ原料資源ヲ獲得スル為ナル由(ナル)ヲ以テ、大統領ハ日本ガ撤兵スルニ於テハ日米英支(予メ蘭ヲ加エ)ニ於テ、各国共仏印ニ脅威ヲ及ボサザル協定ヲ為シ、同地ヲ中立トスル時ハ、日本側ノ第一理由ハ満足セラルベク・・・又原料資源ノ獲得ニ付テハ、仏印ノ物資ヲ以テ日本ノ需要ヲ満シ得ベシトハ信ゼザルモ、右ノ協定可能ナラバ、大統領ニ於テ関係諸国(蘭支ヲ含ムト云ウ)ヲシテ均等ノ基礎(「イクオール・ベーシス」)ニ於テ日本ノ要望ニ応ゼシムルノ覚悟アリト明言シ、此ノ提案ニ対シ日本側ノ回答ヲ期待シ(テイル)。」
8月5日
・天皇、東久邇宮稔彦に対し南部仏印進駐の影響について語る。
「南部仏印進駐にあたって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかと聞いたところ、杉山はなんら各国に影響するところはない、作戦上必要だから進駐いたしますというので仕方なく許可した」(東久邇宮稔彦「一皇族の戦争日記」)と話す。
8月5日
・この日付け戦「田中新一中将業務日誌」。
この日午前、東条が杉山を訪問、外務電によるとして大統領の仏印中立化案を紹介し、日本の回答に、(イ)日本軍は仏印から撤兵することはできない。日中戦争が終了したら撤兵する、(ロ)米国は蒋介石に和平の勧告をせよ、(ハ)比島の中立は認める、という趣旨を盛り込みたいと語る。杉山からこれを聞いた作戦部長田中は、仏印中立化案はもってのほかと考え、拒否すべしとし、政府がこの好餌につられて南部仏印進駐の基本方針を台なしにしてしまうことを心配。
8月5日
・陸軍、東条陸相名の文書で、首脳会談について米国が譲歩しない場合に「断乎対米一戦の決意を以て之に臨まるるに於ては」あえて異存を唱えないが、会談不成功の場合でも辞職せず、むしろ対米戦争の陣頭に立つべきであると回答(『近衛手記』)。
参謀本部には5日午前、東条の杉山訪問時に伝えられる。海軍は4日に賛意を表明。
8月6日
・朝、近衛首相、連絡会議の直後、首脳会議の件を上奏。
翌7日午後、近衛は天皇に呼ばれ、「大統領との会見は速なるべし」と督促される。
8月6日
・野村、仏印中立化案に対する対案提示(「八月六日案」)。8日、米側の回答。
ハルはこの案を一瞥したのみでさしたる関心を示さず(マジックによって解読済みであったのだろう)、ヒトラーと同様な侵略行為には深く失望した、と述べて日本の最近の行動を非難した(8月6日野村電)。
(1)日本政府の確約事項 (イ)仏印以上に進駐せず、日中戦争解決後仏印から撤兵、(ロ)フィリピンの中立保障、(ハ)東亜における米国の必要資源獲得に協力
(2)米国政府の確約事項 (イ)南西太平洋の軍備拡大中止、(ロ)日本の蘭印資源獲得に協力、(ハ)日米通商関係の復活、(ニ)日中交渉の橋渡し、撤兵後の日本の仏印における特殊地位の承認
8月7日
・午前、豐田貞次郎外相、近衞・ルーズベルト会談提議を野村吉三郎駐米大使に訓令。
8月7日
・近衛首相、天皇に拝謁後、木戸と本音を語る。
油は海軍が二年、戦争すれば一年半、陸軍は一年位しかないとすれば、到底米国に対して必勝の戦いをすることは出来ない。蘭印を攻略するにはシンガポール、フィリッピンを制覇しなければならないが、これらの作戦中に油井は破壊されるであろうから、必要量の油をうるには到底一年半では難しいだろう。蘭印に手を出せば米国は参戦するだろう。そうすれば長距離の油の輸送のリスクは高く、果たして所期の成果を挙げ得るや、すこぶる疑わしい。
結局表面の形は変わっているが、日清戦後の三国干渉の場合と同じ決意をするほかなく、今後十年を目標とし臥薪嘗胆するはかない。
8月8日
・この日付け戦争指導班による「大本営機密戦争日誌」。
「対英米戦ヲ如何ニスへキヤ 対英米戦ヲ決意スヘキヤ 対英米屈伏スヘキヤ 戦争ヲセス而モ屈伏セス打開ノ道ナキヤ 此ノ苦悩連綿トシテ尽キス 班内二日間論議ス」
8月8日
・野村吉三郎駐米大使、ハル長官に近衞・ルーズベルト会談提議を伝達。
長官は「政策ニ変更ナキ限リ話合ノ根拠ナシ」、「日本ニシテ武力行使ヲ止ムルニ於テ始メテ話合ヲ為スベシ」と応える。大統領はチャーチルとの洋上会談のため不在。
また、この日、ハル長官、野村大使に、8月6日手交の日本側提案に回答。日本側申し入れはポイントが外れていると指摘。野村大使は東京でもグルー大使に働きかけるよう電報。
仏印中立化提案の趣旨を繰り返し強調し、日本の回答案は「大統領ニ依り為サレタ提議ニ対スル応答タルこ於テ、不充分ナリト思考スル」と一蹴。
野村は本省に、米国は南部仏印進駐を、日本の政策方向を決定的ならしめたものとみなしているから、単に総理の出馬だけでは不十分で、米国を動かす「何等カノ手段ヲ御考究相成ルニアラザレバ局面打開シ難シ」と報告(9日野村電)。
8月9日
・米英首脳大西洋会議(~12)。13日、洋上会談中の米英両首脳、スターリンに対し、「われわれは力を合せて、あなたが最も必要としている物資を最大限に供給しようとしている」と声明を送る。
8月11日
・戦争指導班有末次班長が塚田攻参謀次長に対し、「帝国としては日独伊三国同盟の実質的破棄を辞せず、この際対米外交打開の途を講ずべきこと」を進言したと、戦争指導班部員の種村佐孝は記す。
8月11日
・天皇、木戸内大臣に「近衛首相の奏上せるル大統領との会談が成功すればとにかく、もし米国が日本の申し出につき単純率直に受諾せざる場合には、真に重大なる決意をなさざるべからずと思う」とし、そのはあいの御前会職の構成および運営について質問。
8月12日
・豊田外相、野村大使に、日本案は最終的なものではなく、近衛総理はこの案にとらわれず「世界平和保持ノ大局的見地ヨリ、大統領卜膝ヲ交エテ局面ノ打開こ当」たろうとしていることを申し入れるよう打電。野村が大統領に会うのは、大西洋会談後の17日。
8月14日
・米英共同宣言(大西洋憲章)発表
チャーチル・ルーズベルト会談。ニューファウンドランド沖の英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」号上で。
9月24日、ソ連など15ヶ国が憲章支持を表明。ルーズベルトは、「3ヶ月間日本をあやすこと(to baby)ができる」と語ったと云われ、米英首脳はこの共同宣言以降の日米交渉は時間稼ぎと見做す。
ソ連を陣営に引き入れること、日本とは当面摩擦を起こさないよう努めることで合意。しかし日本のこれ以上の武力進出には警告を出す事を決める。最後通牒にも等しい警告を出しておけば、日本はタイや蘭印に進出する事はないと判断。
会談後のチャーチルの下院演説。「日本は中国の五億の住民を侵害し苦しめている。日本軍は無益な行動のために広大な中国をうろつきまわり、中国国民を虐殺し、国土を荒らし、こうした行動を〝支那事変″と呼んでいる。いまや日本はその貪欲な手を中国の南方地域にのばしている。日本はみじめなヴィシー・フランス政府から仏印をひったくった。日本はタイをおどし、英国と豪州の間の連結点であるシンガポールを脅迫し、米国の保護下にあるフィリッビンをも脅している」
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