2017年12月21日木曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(6) 第一章 アジア Ⅰマカオ(2)

皇居東御苑 2017-12-20
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遺言状と異端審問調書からわかる奴隷の詳細
日本人の家事奴隷がマカオ社会に存在したことは、1576年以降、複数回にわたってカピタン・モールとしてマカオから来日したドミンゴス・モンティロの遺言状(1592年)にも明白である。その遺言状には、「私のために働いた日本人男女の奴隷たちは、自分の死後は自由の身となる」とある。うち女性の奴隷は、各々50パルダオの恩給を受け取った。ヴィオランテという日本人の女性奴隷は、400パルダオを受け取った。名前不詳であるが、他にも多くの日本人奴隷が解放され、各々10パルダオを受け取った。ドミンゴス・モンティロの奴隷たちの中には、マリア、セニョーラ・アマリサゥン、ジョアン(女性)、ギオマール、アグエダ、マリアーナといった名前の未成年の日本人少女たちがおり、結婚適齢期になるまで、モンティロの従兄弟のガスパール・ピント・デ・ロッシャの家に滞在することが示された。

また別の遺言状から、1600年頃マカオにいた別の未成年の日本人の女性奴隷の詳細がわかる。マダレーナという女性は、ルシア・ロウバータという婦人に仕える奴隷であった。ルシアは商人クリストヴァン・ソアーレス・モシテローソの妻であった。彼女は遺言状に、自分の死後、日本人奴隷のマダレーナを解放し、10パルダオを与え、結婚するまでフェルナン・バリャーレスの家で暮らすように、という指示を残している。その家にいた別の2人の未成年女性奴隷が転売されたことから、マダレーナは、その家庭で特別な存在であったと思われる。

マカオに住んだポルトガル人の遺言状は、マカオ社会の構成を知る上で非常に貴重な情報を提供するもので、これらの遺言状から、当時の日本人奴隷が置かれた環現が、非常に国際色豊かなものであったことがわかる。前述のマダレーナはシャム人や中国人の奴隷と一緒に暮らしていた。

レオノール・ダ・フォンセッカというマカオ在住のポルトガル人女性に関する1593年付の異端審問記録からは、ポルトガル人女性に仕えるイネスという日本人女性のことがわかる。イネスの主人は、ユダヤ教徒の嫌疑で異端審問所に逮捕され、貧困のうちに没した。この女性奴隷のその後は不明であるが、おそらくマカオの他の家族に売られたと思われる。

多くの奴隷は、解放後、仕事を得て、自立して生きていける可能性があった。男性の奴隷や元奴隷がマカオの港湾労働者として働く一方、女性の解放奴隷らは家庭内で、召使いとして働くのか一般的であった。
1593年頃、マリア・ピレスという名の元奴隷である日本人女性は、1562年に日本で生まれ、1583年頃にマカオへやってきた。解放された彼女は召使いとして、マカオの商人宅を転々としたという。
ウルスラ・ペレイラという女性は、1560~1564年に日本で生まれ、解放後も、召使いとしてマカオに住み続けた。彼女はマカオ生まれのポルトガル人女性レオノール・ダ・フォンセッカに仕え、生後4ヵ月の赤ん坊の子守となった。
マカオの裕福なポルトガル人家庭には、少数の男性の奴隷もいた。1593年の記録では、アンドレ・ヴァズという日本人の男性奴隷がニコラウ・シルヴェイラという神父の所有であったことがわかっている。

日本人傭兵
マカオにいた日本人は、奴隷、自由民といった身分にかかわらず、マラッカ、ゴア、マニラ同様に兵隊/傭兵として働くことがあった。

マラッカでは1600年~1614年、町の警備役としてマレー人兵の他に日本人傭兵がいた。
1606年、オランダ人の艦隊長マテリエフがマラッカを攻撃した際、アンドレ・フルタード・デ・メンドンサ隊長の指揮下のポルトガル人、マラッカ生まれの混血、先住民、さらには各地からの奴隷が、マラッカまで商用で来ていた日本人の船の加勢を受けた。

ゴアの市参事会関係の文書でも、島を守備する日本人の奴隷兵の必要性が述べられている。同じ文脈で、もし日本人奴隷が解放されれば、現地人に加勢して反乱を起こす危険性も危惧されていた。そのことは、ゴア在住の日本人奴隷が非常に多かったことを示唆している。

フィリピンでは、1596年1月18日、日本人傭兵のグループがスペイン軍のカンボジア遠征に参加した。
1598年には、別の日本人グループが、スペイン軍に参加し、二度目のカンボジア遠征へ出発した。
1603年10月6日、マニラで起きた在住中国人(サングレイ)の大虐殺には、スペイン軍とともに、人数不明の日本人と1,500人のパンパンゴ先住民とタガログ先住民が加わった。
1597年4月16日、フェリぺ2世(スペイン王。在位、1556~98。ポルトガル王としてフェリペ1世)は日本人に対し、マカオ市内での武器使用を禁止する法律を公布した。この法律に反した場合、厳しい罰則が科されることとなった。

マカオでは、兵隊/傭兵には自由民か奴隷の二パターンがあった。日本人で奴隷の場合は、単独行動でも従者として行動している時でも刀剣類の帯同は禁じられていた。その命令に背いた者は、日本人奴隷であればインドのガレー船での終身漕役刑が科された。自由民であれば同じガレー船で10年の同刑となった。

1592年、マニラでも同様の方策が採られた。総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは、マニラ在住の日本人の兵力を恐れ、同地域の日本人コミュニティの弱体化を図った。そのため、日本人コミュニティはマニラ市中心から離れたディラオ地区へ移され、あらゆる武器が没収された。

とはいえ、マカオでは、この法律に従う人間はいなかった。なぜなら、一般市民も宗教関係者も、これらの傭兵を必要としていたからである。

マカオではこれらの傭兵の活動に、アフリカ人奴隷も参加していた。うち多くが「カフル」と呼ばれるモザンビーク出身者であり、ポルトガルの貿易商人たちに雇われていた。マカオには多くのモザンビーク人が住んでいた。
彼らが日本やマカオなどの極東へ至る来歴は、概ね次のようなものであった。
インド航路を渡るナウ船は、ほとんどの場合アフリカ東沿岸のモザンビーク港に立ち寄る。そこでは奴隷を安値で仕入れることができ、彼らはゴアで売却された。さらに彼らはアジアのあらゆる地域へ運ばれた。とりわけマカオでは、モザンビーク人奴隷は高値で取引され、裕福な商人たちは彼らを日本への航海に同伴させた。彼らの姿は、1622年長崎でおこなわれた宣教師の大規模な処刑、いわゆる元和の大殉教を描いた絵画(ローマのジェズ教会所蔵)にも、処刑劇の観客として描かれている。
アフリカ人奴隷あるいは傭兵の多くは、給与を受け取り、自分のために奴隷を購入することもあった。1598年の記録では、アフリカ人奴隷が長崎で日本人奴隷を買ったというものがある。また、フアン・ビスカイノという名のアフリカ人奴隷が1631年、日本人奴隷フアン・アントンを解放したという記録もメキシコに残っている。

自ら身売りする人々と奴隷の末路
16世紀末、マカオ在住の日本人人口は増加傾向にあった。カピタン・モールや私貿易商人の船が毎年のように日本へ渡航し、その乗組員として日本人がマカオへ到来したからである。
ポルトガル船の乗組員になる日本人の多くは犯罪者や、借金、貧困などから逃れようとする者たちであった。中には奴隷の売人が提示する条件を受け入れて、自分で身売りする者もいた。こうした人々は自分がどういった立場に置かれ、どのような仕事に従事するのかということさえ知らなかった。
マカオへ着くや否や、日本人は失踪すると言われていたため、ポルトガル人の中には、日本人を乗客として乗せたがらない者もおり、マカオへの渡航を望む日本人の中には逃亡しないことの保証として、売人に自身の身柄を売り渡して、あえて「奴隷」身分に落ちる者さえあった。
奴隷の売人は日本人の認識不足と、海外で新しい人生を始めたいという欲求を上手く利用して、容易に奴隷を集めることができた。
こうした人々は、マカオからさらにポルトガル人の要塞や駐屯地へと売られていった。

さらにこのような奴隷の、マカオにおける悲惨な境遇もまた事実であった。たとえば、主人が没し、遺言状により自由の身が約束された日本人奴隷の中には、解放後、犯罪に手を染める者もいた。彼らは集団で、マカオに食料を売りに来る中国人たちを襲うこともあった
16世紀末、貧困者たちは強盗集団を結成し、一般市民を襲い始めた。スペイン国王フェリペ2世(ポルトガル国王フェリペ1世)は、度々司法官を派遣したり、地元当局に対しこうした罪人の捕縛を指示した。
フィリピンのスペイン人たちと外交面あるいは商業面で問題が生じた際、ポルトガル人は復讐の手段としてアルコール中毒者、強盗、犯罪者など、厄介な奴隷を集め、船に乗せ、マニラへと送った。その中には日本人も含まれていた。マニラで売りに出されたこの種の奴隷は、マニラ市内で数ヵ月にわたり混乱を引き起こした。1605年~1608年の記録には、こうしたポルトガル人のやり方に対する多くの不平、不満が記されている。

マカオでの生活に不慣れなまま、主人から離れ、自由民となった日本人は、女性の場合、生きる術として、売春を選ぶことも多々あった。
またゴアからマカオに至るポルトガル領の港では、病気で働くことのできない高齢の奴隷が、しばしば道に捨てられ、誰にも拾われることなく孤独死する姿も見られた。1606年、この状況を目の当たりにした教会当局は、主人が奴隷の末期の面倒を見ないのであれば、その奴隷は解放されるべきこと、そして誰にも拾われず、治療を受けられない場合は、その地のミゼリコルディア(慈善院または救貧院)の院長と修道士たちが身柄を引き取り、貧困者向けの病院に収容することを決定した。

(つづく)



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