自宅近くの公園
*明治33年
「文部省直轄学校外国委託生ニ関スル規程」発布
この年
孫文の武装蜂起、失敗
1900年、清国で義和団事変が起きたのを好機とみて、孫文は革命に着手。宮崎滔天、平山周、福本日南、清藤幸七郎ら日本人志士たちと図って、「日中合同」の武装蜂起を起こそうとしたが、失敗。山田良政は日本人最初の犠牲者となった。
明治34年
文部省令第十五号「直轄学校外国人特別入学規程」発布
1901年、清国は義和団事変で8ヵ国連合軍に敗北し富国強兵の必要を強く感じ、留学生制度を再開した。派遣先として近代国家・日本が定められた。日本は同じアジアの国で欧米諸国ほど文化的差異がなく、漢字も共通している。おまけに軍人教育も受け入れるという。
明治35年
清国人最初の日本語学校、弘文学院設立
1901年(明治34年)、新たに清国警務学堂から日本への留学生26名が送られることになり、牛込区西五軒町34番地の大邸宅を借りうけ弘文学院を開校した。名前も、嘉納治五郎がかつて開講していた私塾「弘文館」(設立は明治15年3、4月頃)からとった。嘉納は外務大臣小村寿太郎と相談して正規の教育機関として東京府へ認可申請を行った。
嘉納治五郎;講道館の創設者、「柔道界の父」。スポーツ振興を通じて幅広い人間形成を提唱する一方、東京高等師範学校の校長も務める教育者で、その熱意と使命感が清国人教育にも振り向けられた。
弘文学院の場所;東京市牛込区西五軒町34番地(現、新宿区西五軒町12、13番)。神田在住の富豪山崎武兵衛所有の大邸宅を丸ごと借り受けた。総面積は約3千坪。敷地内には樹木が生い茂り、敷石を配した日本庭園があった。その中に122坪の木造平屋建ての校舎1棟と大小さまざまな12棟の建物が点在していた。
弘文学院の第1期生には、鉱務鉄路学堂の卒業生5人とともに入学した魯迅がいる。湖南師範学校の教員だった黄興も在籍し、弘文学院で宋教仁、陳天華ら湖南出身者数名と知り合い、帰国後に革命結社「華興会」を組織することを相談した。『新青年』を発行して新文化運動を提唱し、五四運動の火付け役となった陳独秀も、短期間だが同校にいた時期がある。また、1921年の中国共産党第1回全国代表大会の参加者のひとり、李漢俊の兄である李書城も、同校に学んだ。李書城は後に孫文・国民政府の高級軍人になった人だが、毛沢東も参加した中国共産党第1回全国代表大会の開催地は、李書城の上海の邸宅である。その他、大勢の留学生が中国革命に携わっている。
嘉納治五郎の清国教育視察
1902年7月、嘉納治五郎が湖広総督張之洞の招きに応じて清国へ教育視察の旅に出た。
嘉納の旅は2ヶ月半に及び、北京、天津、保定、上海から揚子江を遡って南京、安慶、武邑、長沙と巡り、北京では清朝政府の親王や大臣と教育政策について話し合い、各地で総督や巡撫から大歓迎を受け、教育関係者と意見交換した。
嘉納は帰国後、清国視察旅行の印象を、「靖国巡遊所感」など数編にまとめて雑誌『国士』に掲載した。
日本では、清国は大いに覚醒して刷新を図ろうとしていると考えられているが、現実は決してそうではない。日本に来た清国の視察員や留学生たちの改革意欲に燃える姿だけを見て、清国全体がそうなのかと思うのは大きな間違いである。
自分の見るところ、世界の知識を輸入して近代的な教育を普及させ、世界の強国と肩を並べるだけの国力を備えたいと熱望しているのは、実は「某大臣、某総督、某志士、某学者というがごとき僅々の人士」だけであって、地方全体ではそんな雰囲気はない。そのために、せっかく海外留学して帰国しても、憂国の心情に駆られて急激な主張を唱えれば、大多数の頑迷な人々から拒絶され、海外留学は有害だとまで言われてしまう。
「その心情まことに憐れむべきものあり」
この年10月21日、湖南省派遣の「速成師範科」10名らの卒業式を前にして嘉納は講話を行った。その内容は全校を巻き込む大論争に発展した。
嘉納はこう語った。
中国で最も急を要する教育は、普通教育と実業教育である、専門教育はその上に立つ。普通教育の目指すものは、国家の一員としての資格を備えた国民の養成である。大学教育は普通教育の普及をまって行うべきだが、専門教育の中で、師範教育と法学・医学の教育だけは、緊急に必要なものである。
また「法学を学ぶ者には道徳教育の必要がある」とも言った。
法学を学ぶには節度をもって「権利義務」を正しく学ぶ必要があり、そのためには道徳教育が大切だから、「中国の改革は急進的にではなく、平和的で漸進的に行うのが良い」。
講話が終わると、湖南省出身の聴講生で革命思想に傾倒していた楊度(ようたく)が立ち上がって質問した。
「清朝高官の眼中にあるのは己の爵禄の保全だけです。国民や国家のために働く心はない。このような者の心をいかにして動かすのでしょうか」
楊度は、「中国の救亡に役立つのは、いかなる教育か」と質問した。彼の主張によれば、百年来の欧州の近代化はフランス革命以来の急進的改革の成果であり、明治維新はその潮流の先端にある。この急進的改革、つまり革命こそが、中国数千年の弊害を除き、民意を発揚させ、国を滅亡から救う。だから、教育の使命とは、この精神を養うことにあるのではないか、と言う。
だが、嘉納は清国の体制維持を前提として「平和的進歩主義」(漸進的改革)を主張し、「民度の向上をはかることが中国の最優先課題であり、それが教育の役目なのだ」と応じた。
会合は4回続き、激昂した嘉納は傲然と言い放った。
中国の国体は、「支那人種」が「満州人種」の下に臣服することで成り立っており、この名分にはずれてはならぬのである。ゆえに、「支那人種」の教育は、「満州人種」に服従することをその要義とする・・・この(支那人種の)民族性は長い間にできあがってしまったものだ。
さらに「(漢民族の)奴隷的な根性は改善の見込みがない」などとも断言した。
楊度はこう切り返した。
だからこそ西欧列強の高度な文明に迫られて「危急存亡」の秋にある中国は、このままでは滅亡する。同じ滅亡するなら革命を起こして「百亡の中に一存を求める」ことが急務だ。
結局、議論は平行線をたどり、最終的に嘉納が譲歩した。
教育は、強権に服してはならぬが、公理には服すべきである。
公理主義を教えるのが教育である。
「革命」か「道徳教育」か、「時間をかけて変革する」のか「一気に根底から覆す」のか、という議論は、当時の留学生たちにとって重大な問題だった。
弘文学院は1902年に開校し、1909(明治42)年に閉校するまで、僅か8年の歴史しかない。だがその間に入学した中国人留学生の総数は7,192人、約半数の3,810人が卒業・修業している。弘文学院は、清末から民国初期にかけての中国近代史の中で、多くの指導的人材を養成した日本の教育機関であり、革命思想を醸成するためのいわば「揺りかご」のような存在だった。
(つづく)
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