2019年11月1日金曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その10)「夜がしらじらと明けはじめた。この時になっても、彼等のいわゆる300人の朝鮮人の一隊はどこにも見えなかった。避難者たちはやっと少し落ち着いた。すると、今までいきり立っていた若者たちは、ぞろぞろ、さわさわ、何かさざめき合っていたが、やがてそのうちの一人の最後に言った言葉は、私にとって永久に忘れない謎である。 「君この辺は駄目だ。あっちへ行こう、あっちへ」 こうして彼等の一群は、音羽の方へ向って去った。」  

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その9)「3日目、日比谷公園で夜明かしした時、メガホンをもって「ただいま朝鮮人が品川沖から襲撃の情報がありました」といっていました。この放送は警察がやっていました。 私は日比谷公園から近くの今の都立一中の海城中学の方に移って、その校庭にいたときにも「鮮人が大森方面を通過してこれから東京に襲撃のおそれがあります」という報道なんです。だから「男子の方はある程度覚悟して用意していて下さい」ということなんです。それで海城中学では銃剣をもたされ、「不逞鮮人とたたかう覚悟でいてくれ」と自警団長からいわれました。それで私は自警団に入り自動車なんか勝手にストップさせたんです。私なんか、そん時は内務大臣の後藤新平の車でも止めたですよ。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;豊島区〉
風見章〔政治家。当時『信濃毎日新聞』主筆〕
〔3日夜、西巣鴨梨本徳之助宅で〕一同無事ではあったが、もはや外へ出るわけにも行かないのでそこに一泊した。朝鮮人が井戸に毒を投げこんであるいているらしい、そしてそれを投げ込もうとする井戸の近所には、白墨で符牒を響いて置くそうだとの流言がさかんに行われていることを梨本宅で聞いた。
〔略〕その頃社会主義者として名を知られていた石黒某?なるものが9月未に私をたずねての話に、彼は巣鴨警察署かに拘留されだが、そこに拘置された人達の面前で1日に1、2度ずつ地響きたてて警官から投げ倒され、見せしめだといって苦しめられたそうだ。また彼の家庭では自警団の連中が来て、妻子を国賊の片われだと公然罵言讒謗し、その上竹槍で縁の下まで突き回し、生きている心地もなきほどの目にああされたそうである。
(河北賢三・望月雅士・鬼嶋敦編『風見章日記・関係資料』みすず書房、2008年)

比奈地忠平〔当時府立第三中学校生徒〕
〔3日、巣鴨宮下町の〕伯父の家におちついてからの騒ぎは「不逞鮮人」問題であった。どこから出たかはわからないが、朝鮮人が不穏な行動に出たとの流言が立って世の中を不安にした。水道が使用できないので井戸に毒を入れられる恐れがあるからと井戸の蓋を丈夫な物にして急に鍵を付けたり、夜を守るための自警団が作られたりの大騒ぎであった。中には間違えられて不幸な目に遭った人もいたと聞かされた。
(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)

〈1100の証言;文京区/小石川〉
江馬修〔作家〕
〔3日〕自分はいつものように本郷へ出るために〔水道橋の〕壱岐坂を登ろうとしたが、すぐにはその登り口が分らなかった。
〔略〕焼け跡に立って路を探している時、不意に自分は側近くで人々の罵り騒ぐ声をきいた。「朝鮮人だ、朝鮮人だ!」「そうだ、朝鮮人に違いない!」「やっつけろ!」「ぶっ殺してしまえ。」 見ると、10人ばかりの群集が、3、4人の若い学生を取り囲むようにして、口々にそう罵り喚いているのであった。学生達はまさしく朝鮮人であった。
〔略〕職人体の男が太い棒でいきなり一人の頭をぽかりとやった。叫び声が起こった。「生意気な、抵抗しやがったな。」興奮した群衆は一層殺気立った、そして乱闘が始まった。
自分はさっきから息づまるような気持ちで、その成りゆきを見守っていた。何とかして彼等を助けてやりたい、しかし正気を失った群衆に対して無力な自分に何が出来よう。もし彼等を弁護しようとすれば、群衆の憤怒は自分におっ冠さってくるだけである・・・〔略〕自分は目をそらして、あわてて壱岐坂を登って行った。心で自分をこう罵りながら。「卑怯者!」
(江馬修『羊の怒る時』聚芳閣、1925年→影書房、1989年。実体験をもとにした小説)
木村守江〔政治家。当時慶応大学医学部学生〕
〔3日〕小石川には、陸軍の砲兵工廠の火薬庫があった。気づいてみると、いつの間にかその近くに来ていた。リヤカーを探してうろうろしていたので挙動不審にうつったのだろう。大震災で朝鮮人暴動のデマが飛んでいた矢先だった。汚れた学生服のわたしは、驚戒中の町内警防団貝に怪しく映ったのもムリはない。
「朝鮮人だ、朝鮮人がいるぞう!」
突然そういう叫び声が起った。わたしは、故郷四倉の仁井田川で幼いころから泳ぎ回わり、それが後々まで続いて、まっ黒に日焼けし”仁井田のカラス”と言われていた。それに焼けだされて3日間も放浪していたのですっかりやつれ、目ばかりギョロギョロしていたので日本人ばなれした容ぼうに見られたらしい。
「おれば日本人だ。朝鮮人なんかでないぞ!」
と怒鳴りかえしたが、それを合図のようにドヤドヤと人がとり囲み、怪しい奴だ、と小突き、否応なしに交番につれてゆかれた。竹早町の交番で、巡査が尋問した。陳弁これつとめたが、周わりの警防団員が興奮し、なかには殺気立っているものもいるため、警官もそのふん囲気にまきこまれて、とうとう朝鮮人扱い。よってたかって小石川警察署へ連れて行かれてしまった。
ハラが立って仕方がなかったが、こうなった以上、ちゃんとした責任者に会い、日本人木村守江を証明してみせるほかなかった。
まず巡査部長が来て、ほんとうに日本人かと尋問した。交番でもいったように、本籍氏名を述べ、慶応大学医学部の学生だといったが、なかなか信じてくれない。そこで、「ウソかホントか慶応大学に電話でたしかめてみたらいいじゃないか」と怒気をふくんでやりかえした。
すると、しばらくして、今度は署長が出てきて、慶応大学の在学証明書を見て、
「いや、すまなかった。わかったからキミはこのまま引きとっていい」と、自分たちのゆき過ぎをタナにあげてイヤに尊大だ。
(木村守江『突進半生記』彩光社、1981年)

島中雄三〔社会運動家。小田向台町で被災〕
〔2日〕久世山の高見から、下町一帯の猛火を見おろしながら不思議にも無事であり得た自分たちの幸運を喜ぶ心と、想像だに及ばぬ幾十万の悲惨な死を傷む心とに、交々自分をひたらせた。ちょうどその頃である。下町の方からワーツワーツと喊の声が起り、ついで「朝鮮人が朝鮮人が」という声が人々の口から聞えた。夕方であった。18、19の青年が真青な顔をして死物狂いで駈け抜けたと思うと、竹槍棍棒をもった若者十数人が、ドヤドヤとそれを追っかけた。久世山一帯の避難者は、何事とも分らず騒ぎ立った。
青年はやがて捕まった。と見るや3つ4つ続けざまに打たれて、その場に倒れた。群衆はその周囲に集まった。
が、多くの人々の期待に反して、獲物をもった若者たちは、すごすごと青年の周りを離れた。人々は物足らぬ顔を見合せた。
「朝鮮人じゃないんだって。日本人だって」
「馬鹿な奴だなァ。日本人なら日本人って言えばいいのに」
「震えてばかりいてまるで口がきけないのさ。かわいそうに」
口々に人々は言い合った。
私は、何故とも知れぬ恐れにふるえ上っている子供たちをすかしたり慰めたりしながら、遠くからそれを眺めていた。憤りが胸を突いてくる。けれども、どうしようもない。
「朝鮮人が何か悪いことをしたのでしょうか」
「さァ、何ですか。何でも頻りに火をつけてまわっている朝鮮人があるッて言いますが」
近所のK氏はそういって、解せぬ顔つきをしていた。
「朝鮮人ってトテモ悪い奴なんだね。あの火事は皆朝鮮人が火をつけたんだってね」
「朝鮮人って世界中で一番悪い奴なんだって」
「朝鮮人をみんな叩き殺してしまうといいんだね」
子供たちはかわいい顔をしてそんな恐ろしいことを口にしあった。
これは大変なことを言いふらすものだと私は思った。けれども思っただけでどうしようもなかった。
夜に入ると朝鮮人の噂はますます烈しくなってきた。朝鮮人を追いかける群衆の喊の声は、ものすごくあっちこっちで起った。
「皆さん、朝鮮人がいたるところに放火して歩いています。各自に警戒してください。男の方は一人ずつ自宅に帰っていてください。竹槍でも棍棒でも何でも用意して、朝鮮人と見たら叩きのめしてください」
こう言って大声にふれ回る若者の一隊があった。
「この上火をつけられちやたまらないな」
私は苦笑した。
「ほんとでしょうか」妻はウロウロし出した。
「嘘だよ、嘘だよ。そんな馬鹿なことがあるものか」
「でも・・・」
そのうち石油の臭いがすると言い出すものがあった。
「臭い、臭い」
「石油だ、石油だ」
人々はいよいよ騒ぎ出した。
「まったくですわ。ほら、石油の臭いがしますわ」
「そうかね」
「ほら、するじゃありませんか」
そう言われてみればそんな臭いがせぬでもない。
「石油の臭いかしら」
「石油ですよ。石油の臭いですよ。あなたは鼻が悪いから」
私は言おるるままに自宅へ帰った。真暗な中から提灯を探し出して蝋燭を点じ手に手ごろの竹の棒をもって、ともかくお付合いに家の付近を見張りした。
この頃までは、まだ自警団というようなものはなかった。しかし金盥を叩いたり拍子木を打ったりして、様々の流言を伝えて歩く若者の一群はあった。それは私たちの住む小田向台町付近の人ではなくして、皆他区の人のようであった。
〔略〕2日の夜、というよりも3日の明方である。20〜30人のどこから来たともなき若者の一群が、手に手に武器をもって叫んだ。
「朝鮮人300人の一隊が、今この久世山を目がけて押し寄せて来ようとしています。女の人や子供は逃げてください。男は皆武器をもってここで防いでください」
これを聞いた避難者の群れは、にわかに上を下へと騒ぎ出した。女たちは顔色をかえて逃げ支度に取りかかった。寝ていた子供たちは泣き出した。「さァ大変だ」というので、男たちは手に手に竹槍棍棒をもって起ち上がった。
「敵はどこだ。どの方面だ」
ここに至って私の全身は怒りに震えた。何という不埒な、そして愚昧な民衆!
私はしかし静かに言った。「君たちは何かここで朝鮮人を相手に戦争をおッぱじめようというのか?」
若者の一人は私の顔を見て黙っていた。
「朝鮮人朝鮮人というが、何を証拠に朝鮮人が火をつけたと君はいうのか。朝鮮人のうちにも、悪い人間はあるかも知れない。しかし朝鮮人の悉くが放火犯人だとどうして断定するのだ。日本人のうちには朝鮮人よりももっと悪い人間が沢山あるだろう。君等、朝鮮人を悉く叩き殺してしまうつもりなのか」
私の声は次第に激した。なるべく落ち着いて物を言おうとはするが、その声は我ながら驚くばかりに高かった。
「朝鮮人であろうが九州人であろうが、同じ日本の同胞じゃないか。同じ震災に遭って身の置きどころもない気の毒な罹災民じゃないか。君たちはそれを助けようとしないで、叩き殺そうとするのは一体どういう積りなのだ。もしそういう事をした時に、将来日本にとってどういう禍を起るかということを考えてみたのか」
「何だ、何だ。馬鹿なことをいう奴があるな。どこの奴だ」
「日本の人民でありながら怪しからんことをいう奴だ」
「殴れ、殴れ」
「叩き殺せ」
群衆は私を取り巻いた。私は自分の危険を感じないではなかったが、しかし騎虎の勢いもう止むを得ない。手にした握り太の竹の棒をふり回しながら、私は一団の首脳者とも見える年嵩の男に肉薄した。
「300人の鮮人というが、果して悉く悪人だと君は認めますか」
「あなたは少しも下町方面の事情を知らないからそんな事をいっているのです。認めるも認めんもない。皆奴等が火をつけて回ってるのだ」
「よし。確かにそうであるなら僕もここで君等と一緒に戦おう。内地人であろうが朝鮮人であろうが、そういう不埒な奴に対して容赦はしない。だが、君、もしそうでなかったらどうするのだ。僕は警察へ行って聞いてくる。警察ではそれを何と認めているか確かめてくる。それまで待っていたまえ」
「警察なんかあてになるかい」
「警察のいうことが信用できないで君等のいうことが信用できると思うか」
そこへ一人の若者が口を出した。
「私は警察へも行ってきたんです。警察では避難民だろうというのですが、警察のいうことは全く信用ができません」
「警察で避難民だろうといっているものを君等が勝手に放火隊にきめてしまっているのだね。そうだね」
「勝手にきめているンじゃない。朝鮮人と見れば、片っ端から殺しちまえという命令が来ているんだ。いつまで訳の分らんことをいってると叩っ殺してしまうぞ」
少し離れて大声でそう怒鳴ったものがある。
「そうだ、そうだ。やれ、やれ。やッつけろ」
「諸君、馬鹿なことを言わないでも少し気を落ちつけたまえ。いいか。君等の心持は僕にも分る。僕等も同じ日本人だ。しかし、そういう乱暴なことをした結果がどんな重大なものだかを考えてみたまえ。もし君等が、朝鮮人であるが故に彼等を征伐しようというんなら、もっての外のことだ。僕はここで朝鮮人の味方して君等と戦う」
そう言って私は彼等を睥睨した。首脳者らしい年長の男は、周囲の者に何事か私語いた。私が二言三言いう間、彼等は黙っていた。私はもう言うべきことを言いつくしたので静かに彼等のそばを離れた。
夜がしらじらと明けはじめた。この時になっても、彼等のいわゆる300人の朝鮮人の一隊はどこにも見えなかった。避難者たちはやっと少し落ち着いた。すると、今までいきり立っていた若者たちは、ぞろぞろ、さわさわ、何かさざめき合っていたが、やがてそのうちの一人の最後に言った言葉は、私にとって永久に忘れない謎である。
「君この辺は駄目だ。あっちへ行こう、あっちへ」 こうして彼等の一群は、音羽の方へ向って去った。
その翌日から、自警団というものが私の町内にも組織された。それが組織される前に、今いったような若者の一団が、各区各所に出没して盛んに活動したことは事実である。何者の命令によってであるかそれは知らぬ。とにもかくにもそれがいわゆる自警団なるものの正体であることは、大正震災史を編むものの逸すべからざる重要事であると思う。
(「自警団・震災当時の思い出」『文化運動』1924年9月号→琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1』緑陰書房、1996年)

堀田八二朗
〔3日夜、小石川植物園で〕さて夜になって、今夜はここで寝ようとしだときである。「朝鮮人がきたぞ、気をつけろ」と叫び声があがった。驚いて私たちはひとかたまりになっていたが、事実朝鮮人が捕えられたり、訊問されたりするのを目のあたりに見て慄えた。井戸へ毒を放りこんだからというので、水一滴も口にできず、不安ないち夜であった。
(堀田八二朗『風流時圭男 - 堀田八二朗自伝』堀田時計店、1979年)

つづく



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