2019年10月30日水曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その9)「3日目、日比谷公園で夜明かしした時、メガホンをもって「ただいま朝鮮人が品川沖から襲撃の情報がありました」といっていました。この放送は警察がやっていました。 私は日比谷公園から近くの今の都立一中の海城中学の方に移って、その校庭にいたときにも「鮮人が大森方面を通過してこれから東京に襲撃のおそれがあります」という報道なんです。だから「男子の方はある程度覚悟して用意していて下さい」ということなんです。それで海城中学では銃剣をもたされ、「不逞鮮人とたたかう覚悟でいてくれ」と自警団長からいわれました。それで私は自警団に入り自動車なんか勝手にストップさせたんです。私なんか、そん時は内務大臣の後藤新平の車でも止めたですよ。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その8)「3日の晩、田舎へ立退こうと上野方面へ出かけた。昨夜からの不逞の徒の横行騒ぎで途中検問で警戒の厳重なこと、2、3間も行くと突然自警団の猛者連中が抜刀で詰めよせて検問する。「鉢巻をせよ」と命ぜられる。5、6間行くと「止れ」とくる。「向鉢巻をして通れ」という。〔略〕やっとの思いで上野の下鶯谷まで行くと、先方は軍隊の大警戒で一歩も通さない。兵士からいわれるままに省線電車の空車の中に逃げこんでびくびくもので夜を明かすことにした。彼方此方では軍隊の伝令がとぶ。山川の合言葉などといっている声も聞える。「戦闘準備」と将校の号令が聞える。実に恐ろしい光景であった。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;台東区/橋場・山谷〉
杉村利一郎
3日程して朝鮮人が暴れ出したとの流言が伝わり、橋場の焼け残った家の人々は、自警団をつくり、在郷軍人の軍服を着たり、洋服に刀を差して警戒に当っていた。夜は真っ暗で提灯が頼りで、焼け残った家では、何でも出して提供した。そのとき人々は、山といえば川と答える相言葉を定めていた。
4、5日してからメリケン粉の配給が、焼け跡であり長蛇の列が出来た。見ていると、列の中から自警団の人が一人の老婆を連れ出して、白鬚橋の方へ連れて行った。着衣で日本人でないことは子供でも判った。白鬚橋の袂に自警団の検問所が出来ていて、通行人を調べている。
堀切の方で朝鮮人が井戸に、毒を入れたとの話が広まっていたから、噂に噂が広まっていったのを子供でも聞いて心配した。
(杉村利一郎『下町の思い出』私家版、1988年)

隅田元造〔福島県技師〕
「各所に発弾の音」
〔3日朝入京したが、警備隊・不逞鮮人のため1時間で去る〕私が山谷を去る時約2、3町の彼方に銃声数発聞えた。これは不逞鮮人を撃退するために軍隊が射殺したのであったが、流れ弾にでもあたってはならぬと思って、急いで逃、5日の夕刻川口から乗車したのだ。
(『山形新聞』1923年9月7日)

〈1100の証言;中央区〉
荒井淳吉〔当時京橋高等小学校1年生〕
3日目の夕方、糧秣倉庫の所で朝鮮人が憲兵につかまっていた。その所へ船頭さんたちが鉄棒で朝鮮人たちの背中をぶったりして糧秣倉庫が燃えているなかに入れられてしまった。夜7時頃、砂糖倉庫が倒れた時、僕らは舟の底にいたから、舟の中で大さわざ。「ほら鮮人が爆弾を投げた」かと思ったら、砂糖倉庫が崩れたのであった。
(「震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)

京橋月島警察署
流言蜚語の始めて管内に伝われるは9月3日午前10時30分頃にして、「鮮人等爆弾を携帯して放火・破壊・殺害・掠奪等を行い、又毒薬を井戸に投ずるものあり」「軍隊約30名、鮮人逮捕の為に武装して管内に来れり」等と称し、更にその携えたる爆弾を収拾せりとて当署に持参せるものあり。即ち警戒を厳にすると共に、これを警視庁に報告せんとするも便船を得ず、隅田川を泳ぎて漸くその目的を達せしが、この時民衆の提供せる爆弾と称するものをも送りて鑑定を求めしに、唐辛子の粉末なりき。
ついで午後1時50分頃歩兵第一連隊より特派せられたる小澤見習士官の一隊鮮人検索の為に来るあり、住民は兢々としてその堵に安んせず、遂に鮮人迫害の惨事を生ずるに至る、これに於て当署は鮮人の検束を行い、これを警視庁に護送せり。しかるに同5日午前9時に至りて「外国駆逐艦隊東京湾に入港せり」「不審なる多数帆船一・二号地の沿岸に繋留せるあり」「外人1名発動機艇に乗じて二号地沿岸に来りしがその行動怪しむべし」など云える流言また行われし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉
大佐木勝〔編集者〕
〔3日〕夜、朝鮮人襲来の噂あり、不安のうちに一夜を明かす。〔略〕
夜、家へ帰ってからろうそくの燈の下で、わびしい夕食をたべることにもなれた。しかし夜警に引っ張り出されるのは辛かった。〔略〕夜警は誰かに代わってもらって一晩ぐっすり眠りたいと思う。(当時の日記)
(木佐木勝『木佐木日記 第一巻」現代史出版会、1976年)

大佐木勝〔編集者〕
〔九段坂付近で〕私の小学生時代の同級生だった男で、後に米屋の若主人になっていた某が、自警団の仲間といっしょに捕えた朝鮮人を惨虐きわまる方法で殺害した事実を知ったのは、警察の手でその男が仲間の自警団員とともに検挙されたことが新聞記事になったからであった。彼は親の代から同じ土地に住みついていて、信用のある商人であったと同時にきわめて平凡な市民であった。彼が仲間とともに捕えた朝鮮人を荷車に縛りつけ、こん棒を振るってなぐり殺したという新聞記事を見ても、私はなおあり得ないことだと疑った。(昭和初期に執筆と推定)
(「関東大震災体験記」『中央公論』1998年10月号、中央公論社)

妹尾義郎〔仏教運動家〕
〔3日〕九段坂上の避難地で避難鮮人4名が、内地人にとりかこまれて、おどおどしていた。あんまり憐然に思えたから、色々慰めて、小使に十円分ったら、声をかぎりに泣き出した。自分も、おのずから、彼等の悲現に同情されて袖をしぼった、みんなも涙した、人情に国境も民族もない、仏様は一切法空とお仰った。(当時の日記)
(妹尾義郎著・妹尾鉄太郎・稲垣真美編『妹尾義郎日記・第2巻』国書刊行会、1974年)
〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
桑原虎蔵
3日目、日比谷公園で夜明かしした時、メガホンをもって「ただいま朝鮮人が品川沖から襲撃の情報がありました」といっていました。この放送は警察がやっていました。
私は日比谷公園から近くの今の都立一中の海城中学の方に移って、その校庭にいたときにも「鮮人が大森方面を通過してこれから東京に襲撃のおそれがあります」という報道なんです。だから「男子の方はある程度覚悟して用意していて下さい」ということなんです。それで海城中学では銃剣をもたされ、「不逞鮮人とたたかう覚悟でいてくれ」と自警団長からいわれました。それで私は自警団に入り自動車なんか勝手にストップさせたんです。私なんか、そん時は内務大臣の後藤新平の車でも止めたですよ。
(「自警団にはいっての活躍談」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

染川藍泉〔当時十五銀行本店庶務課長〕
〔3日、十五銀行丸の内支店で〕鮮人問題と、不穏な団体が焼残った所を襲うというような噂とはいよいよ盛んに伝わった。初の程はこの機会にありそうな事だと思って、疲れ切った頭にてっきりそうと思い込んだのであった。〔略〕どこでは鮮人が井戸に毒薬を投ぜんとした所を見つけられて叩き殺された、ここでは鮮人の潜伏してある所を見つけて叩き切った、などという話は頻々として伝わって来た。それは相当知識階級の人が信じて話しておった。甚だしいのになると、鮮人は9月2日を期して事を挙るの計画があった。それが9月1日たまたま地震が起こったので、東西相呼応して立ったのだそうな、などと見て来たようなことを言う人さえあった。或は又道路の石塀や門柱などに白墨で印がつけてある。井桁を記したのは井戸に毒物を入れよという印で、丸いのは爆弾を投ぜよという印だなどとも言い伝えられた。(1924年記)
(染川藍泉『震災日誌』日本評論社、1981年)

〈1100の証言;千代田区/神田・秋葉原〉
小畑惟清〔医学者〕
〔3日夜〕豪壮な福島邸は固く門を閉ざして、これを借りる由もなかった。駿河台にも朝鮮人が徘徊しているとの噂が、どこからとなく拡がって来た。この家も襲撃、爆裂弾を投ぜられるとの噂が拡がった。この家の留守居が極度の恐怖を抱き、遂に門を開いてその玄関を吾々の宿に貸し、その代りに夜警を頼むとの交換条件を申し出でられ、実に憤慨せざるを得なかったが、空は雨模様になったし、堪忍の緒をしめて約諾し、看護婦や家族達をその中に入れ、吾々男子は野宿と決めた。夜警は隣家の前田家の人々と協同し、一方は鈴木町を見張り、一方は袋町入口の道をかため、絶えず巡察した。
(小畑惟清『一生の回顧 - 喜寿』私家版、1959年)

麹町警察署
9月3日、管内自衛警戒中の一青年は、不逞鮮人と誤認して連行の同胞を殺害せして、犯人は直にこれを逮捕せり。この後自警団に対する取締は、特に厳重を加え、かつ流言蜚語の信ずるに足らざる所以を力説して、その誤解を一掃せん事を期せしも、民衆は容易に耳を傾けず、依然戎・兇器を携えて横行せる。〔略〕時に、鮮人の、管内所在の朝鮮督学部に避難せる者百余名に達せしが、これが警戒保護の為、特に当署より制私服員数名を派遣したり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

つづく




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