2020年10月28日水曜日

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ2) 「しかし『一年有半』の目的は、たんに死生観を展開することにあったのではない。本書は、一種の文明批評の書であり、兆民の、とくに晩年の思想が集大成されて提示され、それはまた明治の社会に対する根本的批判でもあった。」

 松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ1) 本書の目次、中江兆民略年譜

より続く

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ2)

第八章 ”一年有半”の世界

1

国民同盟会の活動や『毎夕新聞』への執筆を続けながらも、兆民は実業の仕事を罷めたわけではなかった。一九〇〇(明治三三)年秋に大阪に赴いているが、これは実業関係の用事のためであったろう。しかしこの頃から兆民の健康に異変を生じていた。一一月頃より声がかすれるようになった。別に痛みは感じなかったので放置していたが、その後左首筋に硬いしこりがあり、押えると痛みを感じるので、咽喉専門医の診察を受けたところ、喉頭カタルと診断された。兆民はびとまず安心したが、これが実はガンであり、症状はしだいに悪化していくのである。兆民はさほど気に止めず、従前どおりの活動を続けた。

三月の長野遊説時には首筋のしこりは大きくなり痛みも感じるようになった。三月二二日、商用で大阪へ赴こうとして仕度を整えた際、突然ノド部分から多量の出血があったが、しばらくして止まったので、兆民は予定どおり出発した。四月、紀州和歌の浦に数日遊んだが、ノドの狭窄がびどくなり呼吸困難を覚え、痛みも治まらなかった。兆民はガンではないかとの疑いを抱き、直ちに大阪へ帰り、耳鼻咽喉専門の堀内医師の診断を請うたところ、堀内医師は詳細に検視して、切開が必要と告げた。兆民はガンと察知し、一旦は切開手術を承諾した。しかしその報を聞いた妻弥が直ちに大阪に来て、ガン切開の危険を説き、維持策を取るよう説得し、切開手術は思い止まった。

兆民は堀内医師に、死期の告知を請うた。兆民と医師の問答は次のようであった。

「余一日堀内を問ひ、予め諱むこと無く明言し呉れんことを請ひ、因て是より愈々臨終に至る迄猶は幾何日月有る可きを問ふ、即ち此間に為す可き事と又楽む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて今後の心得を為さんと思へり、堀内医は極めて無害の長者なり、沈思二三分にして極めて言ひ悪くそふに曰く、一年半、善く養生すれば二年を保す可しと、余曰く余は高々五六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余の為めには寿命の豊年なりと、」(『一年有半』⑩144)

その後ノドの腫物が大きくなり呼吸が苦しく安眠できなくなったので、堀内医師や従弟の医師浅川範彦の意見で、気管切開をすることになった。手術はのどに穴を開け、カニュール(挿入管)を外から挿入して気管と通じさせるもので、五月二六日に堀内医院で実施した。これによって呼吸は容易となり、食事もやわらかいものは支障なく飲みこむことができるようになった。しかし音声を発することは困難で、筆談で意思を伝えることになった。手術後、堀内医院前の浅尾氏の一室を借りて療養していたが、六月一八日退院し、中の島の中塚旅館に帰った。・・・・・

・・・・・兆民はもともと義太夫が好きであったが、東京のものより大阪のものを好んだ。・・・・・妻弥が来阪すると、弥と一緒に文楽座に二回行き、忠臣蔵を聴いている。そして気管切開し退院後の一日、また弥を伴い、明楽座で大隅太夫の壷坂寺の段を聴いている。兆民は芝居や寄席を好み、東京にあるときも、家族と一緒に足を運んでいたようだ。

七月四日、兆民は中塚旅館を去り、堺市市の町の大上宅に移った。・・・・・

この堺で、兆民は、二カ月余の療養生活を送ることになる。この間、井上甚太郎、頭山満らが兆民を見舞っている。

(略)

2

『一年有半』は八月三日脱稿した。翌四日、幸徳秋水が兆民を訪ねたが、これに合せたのであろう。・・・・・兆民は秋水に原稿を示し、「是れが学者の本分として、社会と友人への告別、又は置土産だ、死だら公けにしろ」(「夏草」)と言って手渡した。秋水が生前出版を打診すると、兆民はそれは自由だと答えた。兆民は、秋水が記者をしている『万朝報』 に掲載されることを望んでいたようだ。秋水は直ちに東京へ帰り、小山久之助に生前出版の件を相談したところ、小山も大賛成、そこで博文館の大橋新太郎に依頼し、出版することになった。『万朝報』掲載の場合には当然長期連載となるから、それより一冊の単行書として刊行する方がまとまりがあってよいと判断したのであろう。なお秋水の妻(師岡千代子)は、『一年有半』の原稿を清書したと述べているから(『風々両々』)、秋水は、千代子の協力も得て出版を急いだのである。兆民は千代子の協力に謝意を表している(秋水宛書簡⑯)。

『一年有半』は、『百零一』『毎夕新聞』に発表した文章二三篇を附録とし、九月二日初版が刊行された。・・・・・

『一年有半』は、別名「生前の遺稿」である。療養の合い間に、思いつくままに筆を走らせた一種のエッセイである。その内容は、身辺雑事や自分の趣味、文学・演劇・人物論から、政治・経済・政党論、さらに当代社会批判や日本人論にまで広範多岐に及び、兆民の教養と関心の多様さ、一深さをよく示している。

”一年有半”の題名が、医師から不治の病気で余命一年半と告知されたことに由来するように、本書は、兆民が死を間近かに自覚しての著述であるから、その死生観が基調音となっている。

「〇一年半、諸君は短促なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ、若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに比す短には非ざる也、始より無き也、若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕(わがせい)は是れ、虚無海上一虚舟」(⑩145)

そして、越路太夫や大隅太夫の名調子を弥とともに楽しんで感嘆し、郷里土佐の松魚(かつお)や楊梅(やまもも)の美味を想い、夏休みで堺に来ていた息子の丑吉が浜辺で取ってきたはまぐり・あさりの吸物を食べながら、パリのカフェーアングレーのスープも及ばないと記すなど、一日一日の生命、家族との生活をいとおしんでいる。ここには”奇人”兆民の姿は消え、普通の人間、夫があり、父がある。「浜寺の風景」の項は、兆民の心情が吐霹されている。

(略)

しかし『一年有半』の目的は、たんに死生観を展開することにあったのではない。本書は、一種の文明批評の書であり、兆民の、とくに晩年の思想が集大成されて提示され、それはまた明治の社会に対する根本的批判でもあった。『一年有半』の中の政治・経済論や文人論は、『毎夕新聞』論説や晩年の文章の内容とかなり重複する部分がある。同時に、兆民が生涯を通じて保持し続けた精神が、本書の骨格となっている。

・・・・・

『一年有半』における兆民の政治批判は、大別して政党批判・政治家批判・政策論に分けられるが、これらは相互に関連するものとして位置づけられる。つまり確固たる政策を推進する政治家の不在と政党の腐敗を追及しているのである

(略)


つづく




つづく






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