2020年10月27日火曜日

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ1) 本書の目次、中江兆民略年譜

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」

より続く

早坂さんが取り上げていた中江兆民『一年有半』『続一年有半』について、松永昌三『中江兆民評伝』によって見てゆく。

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ)


第八章に行く前に、全体像を把握するために本書の目次と本書所収の中江兆民略年譜を下記する。

《目次》

まえがき

第一章 土佐・長崎・江戸

第二章 フランス留学をめぐって

◇         ◇

パリ・リヨン・ゴール

◇ ◇

第三章 在官時代

第四章 自由民権期の兆民

第一節 漢学修業

第二節 東洋自由新聞

第三節 『改選叢談』と『民約訳解』

第四節 仏学塾

◇        ◇

訳語「理学」について

第五節 自由新聞

第六節 日本出版会社

第七節 結 婚

◇        ◇、

訳語「恋愛」について

◇ ◇

第五章 翻訳・著述活動

-民権運動の理論 -

◇        ◇

兆民の文学観

◇ ◇

第六章 明治憲法体制と兆民

第一節 三大事件建白運動と兆民

第二節 東雲新聞時代の兆民

第三節 明治憲法発布と東京復帰

第四節 自由党の再興と憲法点閲論

第五節 総選挙と立憲自由党の成立

第六節 第一議会と兆民

第七節 北門新報

◇         ◇

兆民の奇行について

◇ ◇

第七章 実業活動期の兆民

第一節 紙問屋から鉄道事業へ

第二節 国民党結成と『百零一』

第三節 遊郭設置問題、兆民の女性論

第四節 国民同盟会参加と『毎夕新聞』

第八章 ”一年有半”の世界

◇        ◇

兆民の人物・芸能観

◇        ◇

第九章 兆民と現代

参考文献

中江兆民略年譜

あとがき

索  引


《中江兆民略年譜》

明治五(一八七二)年までは陰暦に従った。年齢は数え年を用いた。関連事項はゴチックで示した。

一八四七(弘化四)年    一歳

一一月一日(陽暦二一月八日)、土佐国高知城下に生まれる。

一一月二七日説もある。


一八六一(文久元)年    一五歳

二月二一日、父元助病死。

五月八日、家督を相続する。


一八六二(文久二)年    一六歳

四月、藩校文武館開校、兆民入校する。


一八六五(慶応元)年   一九歳

九月、英学修業のため長崎派遣を命ぜられる。長崎では平井義十部に就きフランス学を学ぶ。坂本龍馬を知る。


一八六六(慶応二)年    二〇歳

この年、江戸遊学、村上英俊の塾達堂に学ぶ。


一八六七(慶応三)年    二一歳

この頃、慶応義塾在学の馬場辰猪を知る。横浜のカトリック神父にフランス語を学ぶ。

一二月の兵庫開港時にフランス公使レオン・ロッシュ、領事レッグの通訳として兵庫・大坂・京都に赴く。

一二月九日、王政復古の宣言。

(この年、漱石、子規誕生。引用者)


一八六八(明治元)年    二二歳

一月三日、鳥羽・伏見の戦。

二月、土佐藩兵、フランス兵を殺傷(堺事件)。

七月、苗字を正式に許され中江と名のる。


一八六九(明治二)年    二三歳

この頃、福地源一郎の塾日新社の塾頭となりフランス学を教える。


一八七〇(明治三)年    二四歳

神田南神保町の箕作麟祥の塾に学ぶ。

五月、大学南校の大得業生となる。


一八七一(明治四)年    二五歳

七月、廃藩置県

外国留学を志し大久保利通に訴える。大久保・板垣退助・後藤象二郎の斡旋で司法省出仕となり、一〇月一五日、フランス留学(法律修業)を命ぜられる。

一一月一二日、岩倉具視全権大使一行とともに横浜を出帆。


一八七二(明治五)年    二六歳

一月二日、フランス着、リヨンのバレーに就き普通学を学ぶ。


一八七三(明治六)年    二七歳

夏、留学生召還方針に反対し、ロンドンに馬場を訪ねる。


一八七四(明治七)年    二八歳

一月、板垣ら民選議院設立建白書を左院に提出。

四月、マルセイユを出航し、六月、横浜着。

八月、フランス学の家塾開学願書を東京府知事に提出。

一〇月、東京麹町中六番町四番地に仏蘭西学舎開塾(のち仏学塾)。この頃民約論巻之二の訳稿成立。

一二月、文部省報告課御雇。


一八七五(明治八年)     二九歳

二月、東京外国語学校長御雇。

五月、元老院権少書記官。

八月頃、勝海舟の紹介で海江田信義を介し島津久光に会い策論一篇を献す。


一八七七(明治一〇)年   三一歳

一月、元老院権少書記官を辞す。

二月、西南戦争おこる。同月、仏学塾、麹町五番町二番地へ移転し塾則を改正。


一八七八(明治一一)年   三二歳

四月、松田庄五郎の長女鹿と婚姻、入籍する(翌年九月離別)。

この年、高谷龍洲の済実黌に学ぶ。


一八八〇(明治一三)年    三四歳

六月頃、三島中洲の二松学舎に学ぶ。またこの年、岡松甕谷の紹成書院に学ぶ。


一八八一(明治一四)年    三五歳

三月一八日、『東洋自由新聞』創刊、主筆となる(四月三〇日、第三四号で廃刊)。

一〇月一二日、明治一四年政変、同月、自由党結成。


一八八二(明治一五)年    三六歳

二月二〇日、『政理叢談』(のち『欧米政理叢談』と改題)を仏学塾から発刊、第二号から『民約訳解』を連載。

四月、立憲改進党結党。

六月二五日、自由党の機関紙『自由新聞』創刊、その社説掛に属す。

九月、自由新聞社の内紛に際し、板垣と馬場の対立を調停。

一〇月、出版社設立を企図し、同志募集のため四国・九州巡遊へ出発(翌年四月帰京)、自由新聞社から離れる。


一八八三(明治一六)年    三七歳

六月、日本出版会社を設立しその社長となる。

八月、『非開化論』上節を日本出版会社から出版。

一一月、『維氏美学』上冊刊行(翌年三月、下冊を刊行)。


一八八四(明治一七)年    三八歳

九月、加波山事件

一〇月、自由党解党、秩父事件。

一二月、『理学沿革史』の翻訳を始める。


一八八五(明治一八)年    三九歳

この年頃までに松沢ちの(弥子)と結ばれる。

一二月、内閣制度発足。


一八八六(明治一九)年    四〇歳

二月、『理学沿革史』上冊刊行(四月、下冊を刊行)。

六月、『理学鉤玄』出版。

八月、『仏和辞林』第一冊(Aの部)を仏学塾から刊行(全五冊完結は翌年一一月)。

一〇月二四日、浅草井生村榛で開かれた全国有志懇親会の発起人となり同会に出席。

一二月、『革命前法朗西二世紀事』出版。


一八八七(明治二〇)年    四一歳

二月一五日、『国民之友』創刊、その特別寄書家となり、第三号に「酔人之奇論」(『三酔人経綸問答』の冒頭部分)を発表。

三月四日、長女千美が生まれる。

五月、『三酔人経綸問答』出版。

八月、『平民の目さまし』出版。

一一月、長野・小諸の有志懇親会に出席。

一二月二六日、保安条例公布、二年間の退去処分を受け、三〇日、新橋から大阪へ向かう。


一八八八(明治二一)年    四二歳

一月七日、大阪に着く。同月一五日、『東雲新聞』創刊、その主筆となる。

一一月、『国会論』出版。

同月、幸徳秋水、中江家の学僕となる。

この年、仏学塾廃校。


一八八九(明治二二)年    四三歳

二月一一日 大日本帝国憲法発布、保安条例による退去処分解除。

三月二四日 戸籍を高知から大阪西成郡曾根崎村二七六七番地に移す。

四月、上京。以後、東京と大阪を往復。

七月一〇日、『政論』(日刊)発刊、その主筆となる。

八月一四日、長男丑吉が生まれる(戸籍では九月一三日、松沢ちの入籍、九月一四日、丑吉誕生)。

一〇月、家族、大阪から東京へ居を移す。

一二月、旧自由党の再結集に際し、自由党再興派に与す。


一八九〇(明治二三)年    四四歳

二月、自由党(再興)結党、主義・綱領・党議等を起草。憲法点閲を主張。

四月、『選挙人目ざまし』出版。

七月一日、第一回総選挙。大阪第四区から当選。

八月、自由党系諸派と改進党との合同に尽力。

九月一五日、立憲自由党結党式。

一〇月二〇日、『自由新聞』(第二次)発刊。

二月二九日、帝国議会開院式。


一八九一(明治二四)年    四五歳

一月一日、『立憲自由新聞』発刊、その主筆となる。

二月二一日、予算案に対する衆議院の妥協に怒り、「無血虫の陳列場」を発表、衆議院議員を辞職する。

三月一日、『自由平等経綸』創刊、その主筆となる。

四月二〇日、『北門新報』創刊、その主筆を引き受ける。

六月一日、『立憲自由新聞』を『民権新聞』と改題、引き続き主筆となる。

七月下旬、北海道へ渡る。


一八九二(明治二五)年    四六歳

一月一七日、母柳死去。

二月、第二回総選挙に立候補した小山久之助を応援するため小諸へ赴く。

八月、北門新報社を退社。札幌に紙問屋高知屋を開く。


一八九三(明治二六)年    四七歳

この年、北海道山林組を設立する。商用で、北海道、東京、大阪を往復。


一八九四(明治二七)年    四八歳

三月、『倫理学参考書道徳学大原論』前編刊行(後篇は九月に刊行)。

七月、日清戦争おこる。

この年以降、鉄道事業に携わるようになる。


一八九七(明治三〇)年    五一歳

八月、中央清潔株式会社を設立し、その社長となる。

一二月、国民党結成。


一八九八(明治三一)年    五二歳

一月一五日、国民党の機関誌『百零一』創刊。

六月、大隈重信(憲政党)内閣成立。

秋、群馬県の公娼設置のため運動する。


一九〇〇(明治三三)年    五四歳

八月、立憲政友会成立。

九月、近衛篤麿ら国民同盟会を結成。これに参加する。

一〇月、『千代田毎夕』(のち『毎夕新聞』)の主筆となる。


一九〇一(明治三四)年    五五歳

四月、大阪で喉頭ガンと診断され余命一年半と告げられる。

五月、喉頭部の切開手術を受ける。大阪、ついで堺で療養。

九月二日、『一年有半』出版。

九月一〇日、東京小石川の自宅へ帰る。

一〇月一五日、『続一年有半』出版。

一二月一三日、死去(無葬式・解剖を遺言)。同一四日、解剖の結果食道ガンと判明。同一七日、青山会葬場で無宗教の告別式。遺骨は青山墓地の母柳の墓の隣りに埋葬。

(この年9月2日、子規、『仰臥漫録』を書き始める。引用者)


つづく



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