2020年10月30日金曜日

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ4)「兆民は、すでに次の著述の構想を抱いていたようだが、死期の近いことを察知し、起稿をあきらめていた。岡田は、四、五ヵ月あれば脱稿まで十分である、痛み、不眠、せきなどの障害は薬物で除くようにするから、腹案のできている著述を始めるよう、勧めた。兆民は、岡田の勧告と医療処置を受け入れ、九月一三日より筆を執り、わずか十日間で脱稿した。『統一年有半』である。」  

 松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ3)「『一年有半』は、初版刊行以後一年にして二三版、二十余万部を発行したといわれる。兆民の声名と本書の内容もさ、ることながら、その兆民が、ガンという不治の病に倒れ、迫り来る死との時間的格闘の中で執筆されたという異常性が、読書界に衝撃と興奮を走らせ、爆発的な売れ行きとなったと思われる。書評は、同情も加わって、おおむね好評であった。」

より続く

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ4)

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兆民は、九月七日堺を発ち、一〇日東京小石川の自宅に帰った。小島竜太郎らの勧めで最後の治療を東京で受けるためであった。・・・・・帰京直後に診察した岡田和一郎に対し、兆民は、腫瘍が増大し劇痛のため眠ることができず、嚥下も困難で、死期の近いことが察せられるとし、死期を明言すること、死因は悪疫質性衰弱なのか、腫瘍破裂に続く出血なのか、食道閉塞による飢餓なのか、あらかじめ知らせてほしいと訴えている。岡田は、綿密に検診した後、死因は、徐々に起こってくる悪疫質性衰弱によるだろうと思われるから、本年中はもちろん来年二、三月頃までは生命は保ちうると答えた。これを聞くと、兆民は、失望した顔色を示して、「余近日ニ到り病大ニ増悪セルヲ以テ、我事当ニ一週ヲ出デズシテ終告(ママ)ヲ告グルナルべシト大ニ喜ビシガ、今又先生ノ言ヲ聞ケバ尚四五月ノ病苦ヲ忍バゲルヲ得ザルガ、是余ノ望ム所ニアラズ、請フ一刀患部ヲ截テ死ヲ早カラシメヨ」と告げた(「一二珍奇ナル食道癌ニ就テ」)。兆民の意思は、石筆と石盤による筆談によって伝えられているが、安楽死を望むほどの苦痛に襲われていたのである。

ノドの内外の腫瘍の脹れがびどいため、兆民は横になることも、あおむけになることもできず、枕の上に両手を並べ額を支えてうつ伏せにしているという姿勢が、ずっと続いていた。この姿勢も苦しかったに違いない。

兆民は、すでに次の著述の構想を抱いていたようだが、死期の近いことを察知し、起稿をあきらめていた。岡田は、四、五ヵ月あれば脱稿まで十分である、痛み、不眠、せきなどの障害は薬物で除くようにするから、腹案のできている著述を始めるよう、勧めた。兆民は、岡田の勧告と医療処置を受け入れ、九月一三日より筆を執り、わずか十日間で脱稿した。『統一年有半』である。秋水はこう伝えている。

「令閏始め一同が、そんなにお書きなさると一倍病気に触りましやう、お苦しいでしやうと言ても、書なくても苦しさは同じだ、病気の療治は、身体を割出しでなくて、著述を割出しである、書ねば此世に用はない、直ぐに死でも善いのだと答へて、セツセと書く、疲れゝば休む、眠る、目が覚めれば書くといふ風であった」(同書「引」⑩)と。

(略)

『続一年有半』は、『理学鉤玄』を附録として、一〇月一五日、同じく博文館から出版された。哲学書であり、兆民も売れ行きを心配していたが、『一年有半』の評判が先導役を果たしたこともあって、初版発行からわずか一ヵ月で一二版、二万七千部が印刷された。三年半後の一九〇五(明治三七)年三月には第二〇版が発行されている。『一年有半』ほどではないにしても、やはり異例の売れ行きであった。

『続一年有半』は、兆民の著作中、唯一の口語体風文章である。・・・・・幸徳秋水の筆である原稿一綴が日本近代文学館社会文庫に架蔵されているが、その原稿の数カ所に、兆民自身の手による加筆があり、それ以外に処々に訂正が入っている。おそらくうつ伏せの状態で書いた兆民の草稿を次々に秋水が清書し、それに兆民が目を通して、朱を入れたのであろう。・・・・

(略)

『続一年有半』は、別名「無神無霊魂」とあるように、その中心テーマは無神論・無霊魂論であり、「理学に於て、極めて冷々然として、極めて剝出しで、極めて殺風景に有るのが、理学者の義務否な根本的資格で有る」との立場に立ち、「無仏、無神、無精魂へ即ち単純なる物質的学説を主張」したものである。第一章総論では、神・霊魂の不存在、精神の消滅、物質としての軀殻の不滅を論じている。

・・・・・兆民は、宇宙のすべての事物が物質で成り立っていることを根拠に、人間と他の生物との間にみられる差異は構造の疎密でしかなく、生命の維持発展といった生物の本質の面では差異はないと考えた。まして同一元素から成り立ち同一構造である人間は、人間としてすべて同等であり、人間の問に貴賎上下のごとき差別は認められるはずがないということになる。にもかかわらず、明治政府が、天皇を頂点として皇族・華族というような新しい身分秩序をつくり出し、他方で人民を貶めて「臣民」とし、さらにこの天皇=国家権力の支配の正当性を主張するため、『古事記』『日本書紀』の神々を持ち出してきたことは、兆民に言わすれば、「笑止の極」であった。

兆民は、『続一年有半』の冒頭で、こうした「人と云ふ動物のみ」に「都合の能い論説を並べ立てゝ、非論理極まる、非哲学極まる囈語を発すること」を、次のように激しく批判する。

(略)

人間自身の尺度で、世界を手前勝手に解釈するのは間違いであり、そのような解釈を保持するかぎり、人間は、神とか霊魂とかの虚偽イデオロギーに支配され自由な精神を失っている現在の人間から自己解放を遂げることはできぬ、とする兆民の考え方は、人間中心=独善主義から脱却することが真の人間解放に通ずるという反「文明」主義的思想ともいえる。兆民がキリスト教を批判するのも、神を媒介とするその人間至上主義に反発したのだと考えられる。この兆民の考え方は、おそらく、西欧思想から学んだのではなく、東洋の仏教ないし老荘思想から受けたと思われる。兆民は、イエスを、「一無害の長老、一多情多血の狂信者」と評する一方で、釈迦や老子の「最後の考は、遂に万物と我れと、共に是が世界大経済中の具と為したる如くに見ゆる」と、積極的に評価しているのである。兆民からみれば、釈迦は「博学の哲学者」で、老子も同様哲学者と映っていたが、イエスはそうではなかったのである。

他方兆民は、本書で、神の存在と霊魂の不滅を否認することによって、現実の人間世界の進歩発展を重視し、人間の思想と行為の可能性を信頼している。

(略)

人類中のことは人類中で処理する、人間はただ人間のみに依拠するとの思想は、すぐれて人間主義的(ヒューマニズム)であるといえよう。しかしその人間主義は、人間を自然の一存在ととらえ、人間至上主義・人間独善主義に走らないところに特徴があった。


つづく



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