早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ1)
脚本家・作家早坂暁さんが、「余命二、三年と宣告された私自身の”死のレッスン”」を「支えてくれた」のは正岡子規『仰臥漫録』であったという。
・・・心筋梗塞により心臓の半分以上は壊死し、癌はその後、他の臓器に次々と発生した。まるでモグラ叩きのように手術を繰り返しながら、私はこの四十年を息浅く過ごしている。
何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。
そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。
(メモ開始)
一、根岸夜話
律女看病記
『根岸夜話』という、可憐な本がある。
上野に近い根岸で、江戸時代から将軍家出入りの瓦屋、”瓦亀”に生まれた大熊利夫さんが、昔から文人墨客が住んだ町内のあれこれを書き綴ったものだが、・・・まことに可愛らしい町内のミニコミ本である。
その夜話の八番目に、「律女看病記」と題したものがある。
(中略)
・・・数ある文庫本の中で、最も読まれたものの一つが、正岡子規の『仰臥漫録』であったことを忘れてはならない。
『仰臥漫録』は死の前年、明治三十四年(一九〇一)九月から死の直前までの、世界でも類を見ない”夢と絶叫”の病床日記である。
(中略)
・・・の大熊さんは『根岸夜話』で語る。
「律さんは (・・・) 三つちがいの妹です。結婚もされずに子規先生の看病で一生を終られたような人です」
さらにこうも語っている。
「子規先生がお亡くなりになったんで、(・・・) お母さんの面倒を一切律さんがみなければならなくなりました」
つまり町内の人たちは、律さんという女性の、看護の戦いがずいぶんと長いものであったことを書いてあげてほしいと、言っているのだ。まさに看護は、男とは違う女の”長くて、辛抱の戦場”だった。
脊椎カリエス
(略)
『根岸夜話』 で大熊さんは、子規さんが脊椎カリエスの手術を受けたことを紹介している。
「あれは明治二十九年の三月でした。お母さん (八重さん) は五十歳(編集注:五十七歳と思われる)、妹の律さんは二十七歳位(縞集注:三十二歳と思われる)だったと思います」
話しているのは、律さんから裁縫を習った弟子たちである。
「立ち会ったのは、ほかに河東碧梧桐先生がおられたと聞いております」
そして碧梧桐の『子規の回想』を生々しく引用している。
(中略)
二、死のレッスン ー 私が『仰臥漫録』 に出会うまで
『死ぬ瞬間』
(中略)
私は四十九歳のとき、重篤な心筋梗塞と胆のう癌のはさみ撃ちに遭ってしまった。まさに絶体絶命だ。主治医のK先生は心臓病治療の大家だったが、
「余命は二、三年と覚悟してください」
と静かな声で告知してくださった。まだ告知が臨床医の間で認知されていないころである。
動転した私は、
「死ぬというのは、どういうことなんでしょう」
と、頓馬な質問をしてしまう。
(中略)
そして、一冊の本を私の前に置いた。それは、終末期研究の精神科医、エリザベス・キューブラー・ロスさんが書いた、『死ぬ瞬間』という本だった。・・・
「これは、余命二、三年の告知をうけた癌患者が、こうやって死にたどりつくという臨床報告です。少しはあなたの役に立つと思います」
・・・
・・・チューリッヒ生まれの女医、ロスさんが、死にゆく患者がいかに無神経に、残酷に取り扱われているかを目撃して、怒りをおぼえて書き下ろした”死の臨床報告”である。・・・
余命を告知された患者は、五つのステップを経て、死に至る。
(中略)
⑤死の受容 最終的には、静かに死を受容する。
そうか、このステップをふんで、私も瀞かに死を受蓉することが出来るらしいのだなと、私は納得した。プロセスは納得したが、ロス女医さんが敬虔なカトリックの信徒であることに、私はつまずいた。私は強い信仰心を持っていない。キリスト教的な天国思想を持っていないのた。
私は、静かに本を閉じるしかなかった。
中江兆民の 『一年有半』
(中略)
そして、二冊目の本が、私の前に置かれた。、
明治時代に、癌と闘い、余命一年半と教えられ、五十四歳で死んだ中江兆民の本、『一年有半』である。
(中略:国会議員に当選するが辞職)
兆民のとなえる民約論は明治政府から危険思想と見なされて、東京を追われてしまう。
それでも大阪に活動の拠点をうつし、猛烈に「民約論」を宣布していくのた。
ある日、ノドに痛みをおぼえた中江兆民は、大阪の病院で診察を受けた。ひそかに恐れていたとおり、癌だった。 - 喉頭癌。
「隠さないで教えてほしい。臨終まで、何日、何月ありますか」
医師は、きわめていいにくそうに答えたそうだ。
「一年半、よく養生すれば二年」
兆民の返事はこうである。
「五、六か月かと思っていました。一年半は、私には寿命の豊年です」
兆民は『一年有半』を数か月で書きあげた。死を前に政治について、芸術について、人生について、実に生き生きと書きあげたのだ。明治三十四年、五十四歳のときである。
『一年有半』は、たちまち大ベストセラーになり、福澤諭吉の『学問のすゝめ』以来の記録となった。
- その本が私の前に置かれたのだ。
虚無海上の一虚舟
(中略)
ところが、喉頭癌の手術を受け、臨終まで一年半と告知された中江兆民は、遺言として『一年有半』を数か月で書きあげるのだ。冒頭に、
「一年半。諸君は短いというだろうか、わたしは悠久だと言おう。もし短いと言いたいなら、十年も短いし、五十年も短い。百年でも短い」
と書いてのけたのち、こう宣言している。
「わたしは虚無海上の一虚舟なのだ」
この宣言をどう解釈するのか。
(中略)
「迂闊にまで理想を守ること、これが小生の自慢です」
最愛の弟子・幸徳秋水に送った手紙の一節にあるように、百年早く時代にさきがけた理想をかかげた自分を、”虚無海上の一虚舟”と言ってのけているのである。
つまり、自分の考えはきっと百年後に輝くに違いない。自分の存在をイリュージョンとしてとらえてもらうことで、現実の時間を超越しようとしたのだろう。
- そうか、迂闊にまで理想をかかげて、百年後を問えばいいのだ。
そのために、街頭で声をからして演説し、ついに喉頭癌となり、それでもひるまず、固形物が通らない喉に毎日豆腐を押し込んで走り廻り、庶民に、そのさきの億兆の民衆に向って叫ぶのである。
”われわれこそが、国の主人なのだ!”
”種子をまけ、種子をまけ、百年後の実りを信じて”
”未来を相手に論じて、書け!”
私は、二、三年の余命にこだわっている自分が恥ずかしくなった。
ビバルディの四季に号泣する
私はたしか、二〇〇七年の春の選抜高校野球のとき、すてきな行進曲を聞き、驚いた。その曲は中島みゆきさんの作詞作曲した「宙船(そらふね)」という曲だった。「おまえが消えて喜ぶ者に お前のオールをまかせるな」というくだりがある。まさに、虚無海上をすすむ一虚舟・中江兆民の姿ではないか。
- 私は、中島みゆきさんに会って、あなたは中江兆民さんの 『一年有半』を読んでいますね、と確かめたいとずっと思っているが、まだ確かめないで、余命三年の私は、今も危うく生きのびているのだ。
(中略)
ヒロシマ
(略)
・・・私は原爆投下後のヒロシマへ何回となく入市し被爆しているから、癌を発症するのは、覚悟していたのだ。
さらに運命的なのだが、私に余命告知をしてくれた主治医のK教授も、私と同じ日に調査と治癒のためヒロシマに入市した若き軍医たったのである。だから私への告知は様子がちがっていた。
(中略)
「先生、僕の癌は、アノせいですよね!」
奇妙だが、私の声は弾んでいたのだ。
「・・・だと、私も考えています」
アノとはヒロシマに落とされた原子爆弾のことである。私は海軍兵学校から復員の途中、広島駅で下車。駅前の路上で夜明けを待ったのである。目の前には、何百、何千という青い燐光が燃えていた。八月六日に死んだ十万人の遺体が廃墟に放置されていて、折からの雨で体内の燐が燃えていたのだ。
その光景の前で十五歳だった私は、身体の震えがとまらなかった。ガクガクと震えながら、戦争を呪い、恐ろしい絶滅爆弾を落としたアメリカを激しく憎んだ。
私の怒りは、さらに原爆投下より二週間以内に入市、停留した人間だけをヒバクシャとして認定すると決めた厚生省の役人たちに向けられた。彼らは、原爆のことを何もわからず、放射能についての影響も認識しないまま、とりあえず二週間という線引きをしたのである。ヒバクシャが、その後続々と死んでいくのに、その救済を放棄したといっても、言いすぎではない。
私が広島に入市、一泊したのは八月二十一日だ。投下後二週間をわずかに一日過ぎているのである。
しかし自らを原爆のヒバクシャと認定した私は、癌の発症をヒバクシャの証明と考えたのである。
- みろ! オレはレッキとした被爆者なんだ!
そんな気持ちであったので、変な表現だが告知されても意気盛んな感じたったのである。
広島は戦場ではない。大半は女と子供、そして年寄りという弱者が住んでいた。しかも、その中に私の愛する妹もいたのだ。
必ずアメリカを告発してやる!敗戦国で、無理だとわかっていても、一人になっても必ず、必ず・・・。
”われは虚無海上の一虚舟”と叫ぶ中江兆民の”絶叫遺言”に、強い共鳴を感じていたのである。
そんなときに、ビバルディの 「四季」を聴いたのだ。その時の号泣のわけは、どう説明すればいいのか。
「北風と太陽」 というイソップ寓話がある。
苛烈な北風は、野をゆく旅人の着ているものを剥ぐことはできないが、太陽は旅人の衣を取り去ってくれる。
私はビバルディのやさしい太陽の音楽で、いかつい衣を脱いだのである。裸の私があらたれたといってもいいだろう。
号泣している私は、実は裸の私なんだ。死ぬことなんか恐れるものかと、肩肘張っている私ではなく、死ぬのは恐い、死んで自分はどこへ行くのか、分からない、恐ろしい、と競えている私である。
まこと、死のレッスンは難行苦行であった。
(つづく)
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