2021年5月2日日曜日

尹東柱の生涯(20)「1945年2月16日 尹東柱は福岡刑務所で死去。27歳2ヵ月余。2月18日 北間島・龍井の家族のもとに福岡刑務所から電報が届く。父・尹永錫と叔父・尹永春が家族を代表し福岡に向かう。」  

尹東柱の生涯(19)「1944年2月22日 尹東柱・宋夢奎、起訴される。3月31日 尹東柱、懲役2年の刑を言い渡される(未決拘留日数120日が算入される) 4月13日 宋夢奎、懲役2年の刑を受ける(未決拘留日数算入はなし) 尹東柱・宋夢奎共に福岡刑務所送りとなる」

1945年2月16日

尹東柱、午前3時36分、福岡刑務所で死去。27歳2ヵ月余。

2月18日

北間島・龍井の家族のもとに福岡刑務所から1通の電報が届く。

「16ニチ トウチュウシボウ シタイ トリニコラレタシ」

悲しみに暮れる間もなく、父・尹永錫と、叔父・尹永春のふたりが、家族を代表し福岡に向かう。

ふたりが出立した後に、別途、郵便通知が配送された。

「東柱危篤ニツキ、保釈シ得ル。モシ死亡シタ際ニハ、遺体ハ引キ取リニ来ルカ、サモナクバ九州帝大医学部デ解剖用ニ提供サレル。即答ヲ望ム」。


尹一柱の証言

毎月遅くとも五日までには必ず来ていたはがきが一九四五年二月には中旬になっても来なかった。死亡通知の電報が来た日は日曜日だった。家族たちはみな教会に出かけて、わたしと弟が留守番をしていた静かな午前、舞い込んできた電報は「二月一六日東柱死亡、死体ひき取りに来られたし」だった。わたしはあわてて教会に駆けていき家人に知らせ家までお連れした。ほどなくして礼拝を終えた人たちが集まってきて、家の中はたちまち棺のない喪中の家になった。しばらく村に行っておられた母を、人を出してお連れし、全家族が悲しみに浸った。悲しみの中でも心配は一、二にとどまらなかった。北間島から日本の福岡まではほんとうに遠い道のりだったばかりでなく、玄海灘は米軍の爆撃が激しくて航海はとても危険だったし、日本本土への爆撃もひどくなっているときだった。また旅行手続きと渡航証明を出させることも並大抵のむつかしさではなかった。周囲では安全を心配して、別の人を送る方法を探ってみるようすすめたが、父はむしろ断固として出かけられた。悲しみに浸された父を危険な道へ送り出して、わたしたちは悲しみと心配、その二重の苦しさを味わわねばならなかった。父は新京〔現・瀋陽〕に行き、そこにおられた永春堂叔を連れ、安東をへて福岡に行かれた。

父が発たれたあと、家には刑務所から一枚の通知書が郵便で送られてきた。あらかじめ印刷されてある様式の中に必要事項だけ記入するようになっているその通知文の内容は、「東柱危篤。望むなら保釈することができる。万一死亡時には死体を引き取ること。あるいは九州帝国大学に解剖用に提供すること。即答ねがう」というものだった。そしてそこに書かれた病名は脳溢血だった。いくら日本から満州まで郵便が四日程度かかるといっても、死ぬ前に送ったという手紙が一〇日も過ぎたのちに来るわけがあるか。なぜ先に送って人を死なさずに生かす道を探ってくれなかったのか! われわれはあらたな憤りに地を叩いて慟哭した。


尹永春の証言

東柱が獄死したという訃報をわたしは新京で受け取った。永錫兄とわたしが二人で福岡刑務所を訪ねたのは、東柱が死亡してから一〇日後だった。夢奎も東柱と同じ刑務所にいるのだ。死んだ東柱のことはあとで尋ねることにして、生きている者から先に確かめてみなければと思って、夢奎のことをまず尋ねた。

面会手続きをしながら、しきりに書類をかき回している看守たちの手もとを見ると、「独立運動」という文字が漢字で印刷されてあった。獄門を開けて入ると、看守はわれわれに夢奎と話すときは日本語ですること、あまり興奮した様子を本人に見せてはならないという注意をした。時局に関する話はいっさい禁止という注意を受けて廊下に入ると、青い囚人服を着た二十代の朝鮮青年五十余名が注射を打つために施薬室の前にずらりと並んでいるのか見えた。

夢室が半分こわれた眼鏡をかけて走りよってくる。骨と皮ばかりではじめは顔がわからなかった。どうしてこんなところまでやってきたのかとたずねる挨拶の声さえあの世から聞こえてくる夢みたいな声だった。口の中で何かつぶやいていたがよく聞き取れず、「どうしたんだ、その様子は」と問うてみると「あいつらが注射を受けろというので受けたら、こんな姿になって、東柱もおなじように・・・」という声がかすれていた。もちろんこのときは朝鮮語で話をかわしたのだ。もう一度わたしの手首をつかんだ夢奎の手は熱かった。手を握り合って東京でいっしょに上野公園を歩いた若者がこんな場所でこんなになったかと思うと、ただ涙が出てくるばかりで、あまりに切なくてどうにも言葉にならなかった。時間になったから出ろという言葉に押し出されて出てきてしまったが、これが夢奎とのこの世での最後の別れとなった(夢奎は一週間後に死亡)。

その足で遺体室をたずねて東柱を探した。棺のふたをあけると「世の中にこんなこともあるんですか?」と東柱はわたしに訴えているようだった。死亡して一〇日たっていたが、九州帝大で防腐剤をほどこしていて身体にはなにごともなかった。日本の若い看守が一人ついてきて、われわれに「東柱が亡くなりました。ほんとうにおとなしい人が・・・息をひきとるとき、何の意味かわからないですが、ひとこと声を高くあげて絶命しました」といいながら同情する表情を見せた。

(尹永春「明東村から福岡まで」『ナラサラン』 23集、ウェソル会、1976年、113 - 114頁)


恵媛の証言

父と堂叔は監獄で兄さんの死体をひき取り、福岡の火葬場に行って火葬したんです。灰は玄海灘のどこか静かな海に撒いて祈祷をささげたそうです。そして東柱兄さんの象徴になるように磁器の壷に納めた兄さんの骨粉を小さな木の箱に入れて胸に抱き、北間島に帰ってこられたんです。死んだ兄さんの顔はまるで眠っているようにきれいだったそうです。

つづく


《典拠資料》

多胡吉郎『生命の詩人・尹東柱 『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』(影書房)

宋友恵著・会沢革訳『空と風と星の詩人 尹東柱評伝』(藤原書店)





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