より続く
尹東柱の死因について
鴻農映二の推理
1980年になって、尹東柱らが受けた「生体実験」の内容について最初の具体的な推理を試みた日本人があらわれた。日本の中央大学を卒えた後に韓国に留学し、東国大学大学院で韓国文学を専攻していた鴻農映二氏である。
彼は尹東柱が受けた「名前のわからない注射」は「当時、九州帝大で実験していた血漿代用生理食塩水の注射だったという可能性が大きい」と推定し、大きな反響を呼んだ(鴻農映二「尹東柱、その死の謎」『現代文学』1980年10月号)。
『戦時行刑実録』(矯正協会刊)には、「刑務所別の死亡者数調査」(1943年 - 1946年1月)という項目がある。それで福岡刑務所の場合を見ると、
1943年 64名
1944年 131名
1945年 259名
(『尹東柱全詩集 空と風と星と詩』伊吹郷訳、記録社発行、影書房発売、1984、訳者による「解説」)
という統計が出ている。1945年の死亡者に尹東柱と宋夢奎が含まれている。このように死亡人数が年ごとに2倍ずつ増加し、1945年には259名も獄死した。これはとうてい平凡な数値ではなく、福岡刑務所で在所者たちを相手に大規模な生体実験をおこなったのではないか、という心証を強く持たせる、というもの。
多胡吉郎さんによる検討
刑務所内の「秩序」と抜け穴となった九大医学部
(多胡吉郎『生命の詩人・尹東柱『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』(影書房)による)
人体実験疑惑の真相解明
福岡刑務所は、戦後米軍が進駐して管理にあたった時期があり、しかも当時は戦犯さがしに躍起になっていたので刑務所での不祥事、戦争犯罪につながる行為があったのなら、何がしかが露見するであろうに、いつまでたっても宋夢奎の「証言」だけがひとり歩きして、他の証言や資料とつながってもつれた糸がほどけて行く感じをつかめなかった。
当時の看守たちは、一様にそのような事実を否定した。末端で働いていた看守は、自分の見聞きした限りにおいて、そのようなことは知らないと断言した。刑務所の全体像を把握する総務の仕事についていた者は、そのような可能性自体を認めなかった。
戦争末期で食糧難などさまざまな困難をかかえでいたとはいえ、刑務所はしかるべき一定の秩序のもとに運営されていたとし、その秩序を乱す事件が発生すれば看守も責任を問われ(服役者の自殺などのケース)、医務室での治療に関しても、投薬ひとつ、すべては記録され管理されるので おかしなことは起こりえないと述べた。
彼らが、元看守という立場上、何かを守っている、守秘している可能性はある。しかし、彼らの多くが、終戦後も同じ刑務所での仕事を継続し、または応召によって休職したものの戦後に復職していることは、「悪事」「凶事」に関わっていた意識がなかったことを示している。
もし、刑務所でおぞましいことが行なあれ、自身が関わっていたなら、敗戦により体制が転覆した以上、もとの鞘におさまって仕事を続けることなどなかろう。地下に潜伏するなり、偽名で生きるなど、世を忍ぶ身に転落せざるをえないからだ。ユダヤ人絶滅に関わったナチス関係者が、戦後、過去を隠して南米に逃れたようにである。
私(著者、多胡吉郎さん)がじかに会った福岡刑務所の北3舎の元住人たちのうち、ただひとり、梁麟鉉氏だけが、服役中に「投薬実験」の範疇にふくまれると思しき摩詞不思議な体験をしている。
氏の証言によれば、ある日、他の朝鮮人独房服役者2名とともに呼び出され、看守の案内で所内の一室(医務室ではなかったという)に集められた。そこに九州帝国大学医学部の助教授と名乗る男が現れ、特攻隊が突撃する前に使うカフェインの薬効を確かめたいので協力を請うと語った。
命にかかわる話ではなさそうだし、連日、独房のなかばかりにいるのに退席していたこともあって、協力を申し出たところ、薬を飲まされ、紙が配られて計算問題が与えられた。たし算の問題で7と8とあれば、たして15になる、その末桁の数字の5だけを筆記するという、そのようなスタイルの問題が続いた。
薬がきいでやがて朦朧としてきたが、計算問題に集中するように努めた。実験は1時間半ほどで終わり、その後、2カ月ほどの閲、毎日続いたという。体に後避症や副作用を感じることはなかったそうである。
不思議な体験であるが、この件を見るポイントは2点にしぼられる。ひとつは、福岡刑務所に所属し、服役者の病気治療に責任をもつ担当医ではなく、九州帝国大学医学部の助教授が所内に立ち現れて、医学実験を行なっている点である。何故、外部の医療関係者が、刑務所内に立ち入ることができたのだろうか?
もうひとつは、朝鮮人の独房服役者のみを対象としている点である。一般囚を対象としなかったのは、おそらくは実験の性格上、一定以上の知識や知能を有する者を対象にしたかったからであろうが、朝鮮人受刑者ばかりが選択された点は、医学部助教授の惹向なのか、担当者等(ないしは雑役夫)の判断なのか、謎である。
九大医学部と福岡刑務所との接点は、以下の3つのケースにおいて、恒常化していたことが判明した。
第1は、刑務所内の医務室は内科診療が主なので、外科治療や刑務所内の医師では手に負えないような病気の患者が出た場合、九大に往診を依頼した。この場合、診療は刑務所の医務室で行なわれ、診療補助は刑務所の看護夫がつきそい、医務室で保有するカルテに診療結果が記され、そのカルテにもとづいて刑務所の薬局から薬が与えられるので、記録はすべて刑務所に残り、あくまで刑務所の管理のもとに診療治療が行なわれた。
第2のケースは、刑務所内で死亡者が出て、遺族による遺体の引き取りがない場合で遺体は九大医学部に渡され、解剖に付される。北間島の尹東柱の家族に届いた危篤の報せにも、この趣旨が記されていた。なお、当時は名籍係であった元看守の榊朝之氏によれば、九州大学だけでなく、ときには久留米大学の医学部にも、遺体を引き取ってもらうことがあったという。
そして第3のケースとしては、研究目的のために九大医学部から福岡刑務所を訪ね、服役者を対象に、調査研究を行なうことがあったという。元看守からは、これは例えば、精神科の医師が、拘禁状態に長く人を置くとどうなるのか、刑務所の服役者を実例に「拘禁性反応」を調べるといった目的であったと教えられた。
先にあげた梁麟鉉氏の経験はこの第3のケースに相当すると思われる。特攻隊の突撃に使う薬のテストか、精神科の研究のためであったとはとても思えないが、肝心な点は、一応はしかるべき「秩序」のもとに運営されていた福岡刑務所で九大医学部の医師が、刑務所の服役者を直接の対象として、実験調査を行なうことが可能だったという事実である。
もちろん、実験がただちに被験者たちの体に異常をきたすようなら、刑務所内の「秩序」を乱し、問題化したであろうが、そうでない限りは、特にその行為の是非が闘われることはなかった。
現に、刑務所全体に目配りのきく総務の仕事をしていた古田稔氏をふくめ、元看守たちは、梁麟鉉氏が経験した、特攻隊用に準備されたという刑務所内での投薬実験について、全くその事実を知らなかった。
梁麟鉉氏が受けたこの投薬実験を自分も受けたと主張した人物がいた。獄中での尹東柱を見かけたという唯一の証言を残した金憲述氏である。1994年の取材時にはすでに亡くなっていたため、夫人にしか会うことができなかったが、氏が残した文章によれば、梁麟鉉氏らとともに、同じ投薬実験に参加したという。
ただ、梁氏は飲み薬であったと記憶するのに対し、金憲述氏は注射を打たれたと記述している。しかも金氏はその場に同席した朝鮮人服役者の名前を記憶し、梁麟鉉氏をふくめて記述しているが、梁氏の側は、金憲述氏が同席していたことを記憶していなかった。
そのような若干の記憶の差異はあるものの、梁麟鉉氏や金憲述氏らが、九大医学部の助教授が福岡刑務所で行なった投薬実験に参加したことは間違いない。
・・・
梁氏も金氏も1943年の春に福岡刑務所に収監され、1944年の秋には刑期を終え出獄しているので、実験はその間の出来事だったことになる。
尹東柱の獄死から少なくとも半年以上は前になるが、福岡刑務所では、看守たちをふくめ、刑務所全体がそのディテールも知らぬままに、そうした実験がひそかに進行していたのだった。
つづく
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