尹東柱の生涯(18)「1943年7月10日 宋夢奎、京都下賀茂警察署に逮捕。7月14日 尹東柱と高熙旭、逮捕。12月6日 3人共、検察送り。1944年1月19日 高熙旭、釈放。」
1944年2月22日
尹東柱・宋夢奎、起訴される。裁判は2人を分離して進められる。宋夢奎は京都地方裁判所第一刑事部(裁判長判事・小西宜治、判事・福島昇、判事・星智孝)に、尹東柱は第二刑事部(裁判長判事・石井平雄、判事・渡邊常造、判事・瓦谷末雄)にまわされた。
伊吹郷氏が1982年に日本でこれらの判事6名と検事1名を訪ねてみたという。そのときまで生きている人は7名中5名(検事1名、判事4名)だった。裁判の判決文の写しを持っていきそれを見せながら質問をしたが、彼らはみな尹東柱や宋夢奎について「覚えがない」と言ったという。
3月31日
尹東柱、京都地方裁判所にて治安維持法違反により懲役2年の刑を言い渡される(検事の求刑は3年)。未決拘留日数120日が算入される(検事局に送られてからの日数を基準とした)。
4月13日
宋夢奎は、京都地方裁判所にて懲役2年の刑を受ける(検事の求刑は3年)。尹東柱のように未決拘留日数120日算入はされなかった。
尹東柱、福岡刑務所に投獄、独房に収容される。宋夢奎も同じく福岡刑務所送りとなる。
2人が福岡刑務所へ移された理由についての伊吹郷氏の推定(京都で捕まり、京都で裁判にかけられた尹東柱・宋夢奎がなぜ福岡に送られたのか。そしてそこに何が待ち受けていたのか。)
『戦時行刑実録』(矯正協会刊、1966年)という正味1600ページをこす分厚い資料の中に、「予防拘禁事件一覧表(1941年5月15日 - 1945年5月末日報告現在)」というものがあり、その備考に「・・・熊本、福岡は朝鮮独立運動関係・・・」とある。
いわゆる朝鮮独立運動関係の受刑者は熊本、福岡へ送るという方針でもあったのだろうか。
(『尹東柱全詩集 空と風と星と詩』伊吹郷訳、記録社発行、影善房発売〔日本〕、1984年、訳者による「解説」)
尹一柱の証言
毎月一枚だけ日本語で許されていた葉書だけでは獄中生活を知るすべがなかったが、『英和対照新約聖書』を送れというので送ってあげたことと、「筆先についてくるコオロギの声にももう秋を感じます」と記したわたしの文章に、「きみのコオロギは一人でいるぼくの監房でも鳴いてくれる。ありがたいことだ」という返事をくれたことが思い出される。手紙を書く日をどれほど待っていたか、毎月初旬になると決まってゴマ粒のように細かい字で書いてくる手紙には、ときどき墨で消されてしまった部分があった。獄中の労働の場面などの箇所が看守によって消されたことが推察されたが、ときには推しはかることもできないほど墨でぬりつぶされていた。
(尹一柱「尹東柱の生涯」『ナラサラン』23集、ウェソル会、1976年、161 - 162頁)
福岡刑務所の服役者は全員が男性であり、治安維持法違反者(思想犯)は皆、北3舎と呼ばれる専用の獄舎に収監された。福岡刑務所には、敷地の北側に扇の骨のかたちに延びる3棟の獄舎棟が敷設されていたが、東側からそれぞれ北1舎、北2舎、北3舎と呼び習わされていた。
獄舎棟はどれも赤レンガづくりの2階だてで北3舎の場合、中央の通路をはさんで両側に独房が並び、他の服役者との接触はいっさい禁じられていた。接触を禁じるがゆえに、基本的には、一般囚のように、服役中に労働は課せられない (ただし、独房内での手仕事が与えられる場合もあり、出所時に受けとる報酬となった)。
日がな1日、鉄の扉で閉ざされた狭い獄房のなか、ひとりで時間をすごすしかなく、独居房を出るのは、1日に1回、わずかに許された運動の時間と、過に1度、風呂場に赴くくらいで、このときも囚人同士が話し合ったりすることのないよう、厳重に監視された。
刑務所内で着る獄衣も独房収監者は朱色(柿色)で一般因が着る青色の服とは明確に区別された。
悪化する食糧事情
刑務所での服役者の食事は、もともと規定によって1等から5等までに分けられ、労働が課せられていない独居房受刑者たちは、その最下等の(つまり量がもっとも少ない)食事に甘んじるしかなかった。
ただでさえ体力維持にぎりぎりの分量しか支給されない食事が、戦況の悪化とともに目に見えて劣化してゆき、与えられるものをひたすら待つしかなかった独房受刑者たちは、すさまじいまでの飢えと闘わなければならなかった。
崔道均チェドギュン氏の証言によれば、食事といえば握りこぶしほどの豆ご飯と、具の入っていない薄い塩水のような味噌汁が1日に3回支給されるばかりで、いつも空腹に悩み、みるみる体重が落ちて、数ヵ月のうちに骨と皮ばかりになったという。歩行時にもふらふらして難儀するほどだった。
釘宮義人氏は1945年1月には出所しているが、それでも、食物摂取量の不足から、大便は週に1度、ウサギの糞のようなものがポロポロと出る程度だったという。
死の待合室
福岡刑務所での死亡者数は、1943年が64名、1944年が131名、1945年が259名とピークに達する。1945年の福岡務所内死亡者数を265名で、1943年に比べてみると、約4倍。1945年の福岡刑務所の全服役者が2436名であるから、約9人に1人の割合で死亡したことになる。
これは一般囚をふくめた数字なので、支給される食糧がもっとも少なかった北3舎の独房受刑者たちだけで考えれば、その数字を記した具体的資料が出てこないとはいえ、死亡率はさらに高い数字になることだろう。尹東柱が最後の日々を暮らした刑務所内の環境がいかに劣悪なものだったか、背筋の寒くなる思いがする。
福岡刑務所で尹東柱を見た男
1988年に大邱で死去した金憲述キムホンスル氏は、生前2度にわたって、福岡刑務所での尹東柱の思い出を発表している(「政経文化」1985年8月、「ピッ(光)」1987年8月)。そこで金氏がつづった尹東柱の記憶を、以下にまとめてみよう。
金憲述氏は京都留学中に独立運動によって逮捕され、1年6ヵ月の懲役刑の判決を受けた後、1943年6月から1944年9月まで福岡刑務所に服役した。治安維持法違反受刑者として、北3舎の「住人」となったのである。
服役中のある日、金氏は通路をはさんだ向かい側、108号の独房に、朝鮮人らしい男が入ってゆくのを、独房の扉の隙間から垣間見た。翌朝、運動をしに外へ出る際に、新入りのその男を廊下で見かけた。看守の目を盗んで朝鮮人かと尋ねると、男は「同志社大学の尹東柱だ」と答えたという。
金氏の記憶に残る尹東柱は口数の少ない男でこちらから話しかけても、微笑みを返すか、目で合図する程度だった。体がかなり衰弱していて、一晩中咳きこむこともあり、ときには日々の運動に出られないこともあった。独房で使う便器を廊下の所定位置に出すことすら、這うようにして、いかにも大儀そうな様子だった。
1944年9月に金氏は満期出獄となったが、別れる前に、体に気をつけるよう語ったところ、尹東柱はただ頷いていたという。いずれも、看守の目を盗んでの短いやりとりでのことである。
金氏が残した文章のなかには、自身が服役中に注射を打たれ、投薬実験に参加させられたという体験談が登場する。注射を打たれた生体実験の経験を語った証言者は、この金憲述氏以外には存在しない。
つづく
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