治承4(1180)
9月
・藤原定家(19)「紅旗征戎、非吾事」(「明月記」)。
「九月。世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾事ニ非ズ。陳勝・呉広・大沢ヨリ起り、公子扶蘇項燕卜称スルノミ。最勝親王ノ命卜称シ、郡県ニ徇(アマネ)シト云々。或ハ国司ニ任ズル由、説々憑ムべカラズ。右近少将維盛朝臣、追討使トナリ、東国ニ下向スべキノ由、其ノ聞エアリ。」(「明月記」)。
「之ヲ注セズ」と定家は言うが、耳目を開いて情報をよく集めている。やはり、重大な〈吾事〉であった。
「定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されをかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させたものであった。
・・・・・、「紅旗」とは朝廷において勢威を示すための、鳳凰や竜などの図柄のある赤い旗のことをいい、「征戎」とは、中国における西方の蛮族、すなわち西戎にかけて、関東における源氏追討を意としていること、つまりは自らが二流貴族として仕えている筈の朝廷自体も、またその朝廷が発起した軍事行動をも、両者ともに決然として否定し、それを、世の中に起っている乱逆追討の風聞は耳にうるさいほどであるが、いちいちこまかく書かない、と書き切っていることは、戦局の推移と、頻々として伝えられて来る小学校や中学校での同窓生の戦死の報が耳に満ちて、おのが生命の火をさえ目前に見るかと思っていた日日に、家業とはいえ彼の少年詩人の教養の深さとその応用能力などとともに、それは、もう一度繰りかえすとして、絶望的なまでに当方にある覚悟を要求して来るほどのものであった。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)
〈この年の定家(19歳)〉
1月5日
・従五位上叙任
2月5日
・『明月記』起筆
2月11日
・関白藤原基通の弟忠良の元服。ついで、有職服飾の事を記す。
「二月十一日。晴天。夜、雨下ル。関白ノ御弟元服ト云々。其ノ年十七。名、忠良(正五位下)。六角ニ向ヒ武衛ニ謁シ申ス。布衣騎馬ノ時、薄色ノ指貫ヲ着セバ、随身ヲ具スベン。浅黄ヲ着セバ、随身無カルベキ由、先達ノ説有ル由、語り給フ」
2月14日
・明月片雲なき夜、梅花の香流るる中、定家は寝もやらず徘徊しているうちに火事があった。俊成とともに、北小路成実朝臣の家に避難する。やがて、刑部卿が見舞に来る。俊成が逢う。俊成の家は全焼した。定家は、父俊成に対し、終始敬称をもって記述している。
「二月十四日。晴天。明月片雲無シ。庭梅盛ンニ咲開ク。芬芳四散ス。家中人無ク、一身徘徊ス。夜深ク寝所ニ帰ル。灯髣髴トシテ猶寝ニ付クノ心無シ。更ニ南ノ方ニ出デ、梅花ヲ見ルノ間、忽チ炎上ノ由ヲ聞ク。乾ノ方卜云々。太ダ近シ。須臾ノ間、風忽チ起り、火北ノ少将ノ家ニ付ク。即チ車ニ乗りテ出ヅ。其ノ所無キニ依り、北小路成実朝臣ノ宅ニ渡り給フ。倉町等、方時煙ニ化ス。風太ダ利シト云々。文書等多ク焼ケ了ンヌ。刑部卿直衣ヲ着シ来臨サル。入道殿謁セシメ給フ。狭小ナル板屋、毎度堪へ難シ。」
2月16日
・高倉天皇の行幸に、火事で衣裳を焼失したためか供奉しなかったが、大路に出てはるかにこれを見、供奉の人々を聞書きする。
「十六日。晴天。今夜閑院ニ行幸。衣裳等違乱ニ依り出仕セズ。東ノ大路ニ出デ、此ノ方ヲ望ム。只炬火ノ光ヲ見ル。後ニ聞ク。供奉ノ公卿、大納言四人(大将・宗房・実国・宗国)、中納言四人(兼雅・大将・成範・実家)、参議(家通・実守・実宗)、三位(修範・実清・頼実)ト。武衛注セラルル所ナリ。」
2月21日
・高倉天皇、幼帝安徳に譲位。
2月22日
・中宮建礼門院平徳子の行啓。定家は、〈徒然ニ依リヒソカニ〉見物し聞書する
2月23日
・〈咳病不快ニ依り籠居〉。3月になっても咳病により出仕不能
3月27日
・八条院の御所堂磐殿に参じる。八条院には、姉八条院坊門局が仕えている。
3月30日
・法性寺で藤の花を観る
4月27日
・定家、高倉院の七瀬の御祓の使となる。賀茂川一条末が祓の場所。
「四月二十七日。晴天。未ノ時許リニ、院ニ参ズ。七瀬御祓ノ使ナリ(此ノ儀内裏ノ如シ)。台盤所ノ北面ニ於テ、御撫物ヲ取ルノ儀、禁裏ノ如シ。一条末ニ向フ。御祓了リ、帰参シ、退出ス。今日御牛ヲ御覧ズ。蔵人引クナリ。内々ノ儀カ。」
4月29日
・雹が降り、颱風。四条殿に在った前斎宮亮子内親王家の被害が甚だしい。
「二十九日。晴天。未ノ時許り雹降ル。雷鳴先ヅ両三声ノ後、霹靂猛烈。北方ニ煙立チ揚ル。人焼亡ヲ称フ。是レ颷ナリ。京中騒動スト云々。木ヲ抜キ沙石ヲ揚ゲ、人家門戸幷ニ車等皆吹キ上グト云々。古老云フ。未ダ此ノ如キ事ヲ聞カズト。前斎宮四条殿、殊ニ以テ其ノ最トナス。北壷ノ梅樹、根ヲ露ハシ仆ル。件ノ樹、簷ニ懸リテ破壊ス。権右中弁二条京極ノ家、又此ノ如シト云々。」
5月1日
・前斎宮亮子内親王を見舞う。同母姉の健御前が、後白河院の第一皇子以仁王の姫宮を抱いて出て来て、生きた心地がしないという。
「五月一日。晴天。斎宮ニ参ジ、健御前ヲ訪ネ申ス。姫宮ヲ抱キ奉ル。心中又存命スベキノ儀ヲ存ゼズト云々。檜皮庭上ニ分散。破損口ノ宣ブベキニアラズ。」
5月10日
・大破した四条殿から、栄全法眼坊の手配で、六条高倉に避難していた亮子を見舞う。
5月11日
・高倉院に参じる。暑気の候、単衣ばかりでもよいと藤原隆房が示す。右近馬場の競馬があり、女車から縹色の薄様にしたためた歌を送られる。恋文かと思いきや、俊成に送る詠草だったのでがっかりする。
「五月十一日。晴天。院ニ参ズ(二藍ノ狩衣。猶張衣ヲ着ス)。隆房中将単衣許リヲ着ス。今ニ於テハ暑気已ニ催ス。単衣許リ宜シキ由、相示サル。右近ノ馬場真手結ヒノ日、女車ヨリ歌ヲ送ル(花田ノ薄様ニ書ク)。返歌等態(ワザ)々注ヲ付ケ、授ケラル。家君ニ覧ゼシメンガタメナリ。退出シ、八条院ニ参ズ。」
5月16日
・「以仁王挙兵」のことを知る。以仁王流罪、頼盛の八条院御所の探索を記す。
「五月十六日。丁卯。九坎。今朝伝へ聞ク。三条宮配流ノ事、日来(ヒゴロ)云々。夜前検非違使、軍兵ヲ相具シ、彼ノ第ヲ囲ム<源氏ノ姓ヲ賜ハル。其ノ名以光(モチミツ)卜云々>。是ヨリ先、主人逃ゲ去ル<其ノ所ヲ知ラズ>。同宿ノ前斎宮<亮子内親王>又逃ゲ出デ給フ。漢王出ヅルニ、成皐縢公卜車ヲ共ニスルガ如キカ。巷説ニ云フ。源氏園城寺ニ人ル。衆徒等鐘ヲ槌キ公ヲ催スト云々。平中納言、八条院ニ参ジ、御所ノ中ヲ捜検、彼ノ孫王ヲ申シ請フ。遅々タルニ依り、捜求ニ及ブト云々。良々(ヤヤ)久シクシテ、孫王遂ニ出デ給フ。重実(越中大夫卜称フ)、一人相随フ。但シ納言相具シ白川ニ向ヒ、宮出家卜云々。一昨日、法皇鳥羽ヨリ八条坊内鳥丸ニ渡リオハシマス。」
5月23日
・父俊成と共に外祖母藤原親忠妻の法性寺邸に移る。
5月30日
・高倉院に出仕したところ、「上下奔走、周章、女房或いは悲泣の気色有り」という有様。
「五月三十日。天晴ル。早旦、布衣ヲ着シテ院ニ参ズ。帥参侯ス。上下奔走周章シ、女房悲泣ノ気色アリ。密カニ右馬允盛弘ヲ招キ、子細ヲ問フ。答へテ云フ、俄ニ遷都ノ聞エアリ。両院・主上忽チ臨幸アルべキ由、入道殿(清盛)申サシメ給フト。前途又安否ヲ知ラズ。悲泣ノ外、他事無シト云々。退出シテ法性寺ニ帰ル。」
6月1日
・「遷幸必然」となり、遷都後は、「夜に入りて、明月蒼然、故郷寂として草馬の声を聞かず」。(「明月記」)
6月17日
・藤原定家(19)、父俊成と共に前斎宮亮子のもとに参向。
「六月十七日。晴天。入道殿ノ御供ニテ、前斎宮ニ参ズ。又右少将ノ許ニ渡ラシメ給フ。七条坊門ニ留マリ了ンヌ」(「明月記」)。
6月27日
・新都福原から、高倉の七瀬の御祓の撫物が閑院に届き、定家も奉仕する。
「六月二十七日。晴天。昨日催シニ依り、束帯シ閑院ニ参ズ。七瀬ノ御祓(院)。御撫物長橋一合ニ取り入レ、新都ヨリ之ヲ渡ス。此ノ御所ニ於テ、奉行蔵人(経泰)之ヲ取り分ケ、使々ニ授ク。侍従成家・中務李信・侍従伊輔・下官・判官代信政五人ナリ。近衛ノ末ニ向フ。閑院ニ帰参シ、蔵人ニ付ケテ退出ス。七条坊門ニ宿ス。」(「明月記」)。成家は、定家の兄。
7月7日
・藤原定家(19)、法勝寺御八講に参仕。
7月8日
・最勝光院御八講に参仕。
7月15日
・法勝寺盂蘭盆会に参るも、仏事既に終了。この日、外祖母藤原親忠妻、この日より瘧(オコリ、マラリア)病を病む。
7月16日
・法勝寺如説仁王会に参仕。
7月17日
・俊成マラリヤ発病。家中の人々、青侍・女房に至るまで並び臥す。
7月19日
・俊成は、仏厳房を招き受戒。不動尊造立供養をする。
7月23日
・定家は、八条院の鳥羽院での美福門院(八条院母、藤原徳子)月忌仏事に参仕。同日、俊成は大般若を行い、僧30人を招く。なお癒えず。俊成は定家に、この家を避けよというので北小路(成実邸)に宿る。
7月24日
・母加賀も罹病
7月25日
・俊成夫妻、七条坊門に移る。夫妻、瘧病・痢病を患い、8月まで病む。
「七月十五日。晴天。亭主、礼仏ノタメ御堂ニ参ゼラル。行歩叶ハザルニ依り、輿乍ラ参ゼラル。堂中、女房四五人、扶持シテ歩行。皆単衣重ヲ着ス。高倉卿・少納言・肥前・越中(袖)。法勝寺孟蘭盆ニ参ズ。事訖りテ人々退出スル間ナリ。七条坊門ニ宿ス。今夜月蝕卜云々。暑気ニ依り格子ヲ上ゲ、只明月ヲ望ム。終夜片雲無シ。蝕見エズ。如何。」(「明月記」)。
(俊成は、歩行困難のため輿にて法勝寺に赴く。扶持の女房たちの衣裳を書きとめる。月蝕というので期待して待ったが、蝕はなかった。天文方の予測が当らなかったのか。)
〈この年の定家(19歳)〉ここまで
つづく
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