2022年8月26日金曜日

〈藤原定家の時代099〉治承4(1180)10月6日~12日 頼朝、鎌倉入り 鶴岡八幡宮(現在の元八幡宮)遥拝。故父義朝の亀谷の旧跡(現在の寿福寺)に臨む 政子、鎌倉入り 

 


〈藤原定家の時代098〉治承4(1180)10月2日~5日 隅田川渡河後、豊島清元・葛西清重・足立遠元帰順 寒河尼が末子(のちの結城朝光)を連れて参陣 畠山重忠・梶原景時・江戸重長・川越重頼らが参陣 より続く

治承4(1180)

10月6日

・高倉上皇、厳島参詣より還御。これと入れ替わりに、清盛は厳島・宇佐社参詣に出立、11月2日未刻(午後2時頃)、福原に戻る。

10月6日

・熊野の湛増追討の宣旨が下る。

10月6日

・頼朝、畠山重忠を先陣、千葉常胤を御後(おんのち)として鎌倉入り、民家に宿泊。頼朝、鶴岡八幡宮(現在の元八幡宮)遥拝。故父義朝の亀谷の旧跡(現在の寿福寺)に臨む。ここから、大庭景能(景親の兄)を奉行として開府に向けての諸事を指示。

千葉常胤が鎌倉進出を頼朝に勧めたが、その根拠となった清和源氏と鎌倉との結びつきは11世紀前半に始まる。このころ頼朝の先祖に当たる源頼信・頼義父子が平忠常の乱の鎮圧に成功したが、当時鎌倉に邸を持っていた平直方は頼義の武勇に感心して自分の娘を与え、鎌倉の邸もともに譲ったという。以後、鎌倉は代々源氏に伝えられ、頼朝の父義朝はここを本拠に伊勢神宮領の大庭御厨に侵入するなどの事件を起こしている。こうして頼義から義朝に至る源氏歴代が培った東国武士たちとの親密な関係の上に、頼朝の挙兵が成った

「相模の国に着御す。畠山の次郎重忠先陣たり。千葉の介常胤御後に候す。凡そ扈従の軍士幾千万を知らず。楚忽の間、未だ営作の沙汰に及ばず。民屋を以て御宿館に定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

「先ず鶴岡八幡宮を遙拝し奉り給う。次いで故左典厩の亀谷の御旧跡を監臨し給う。即ち当所を点じ、御亭を建てらるべきの由、その沙汰有りと雖も、地形広きに非ず。また岡崎平四郎義實、彼の没後を訪い奉らんが為、一梵宇を建つ。」(「吾妻鏡」7同日条)。

「大庭の平太景義の奉行として、御亭の作事を始めらる。但し合期の沙汰を致し難きに依って、暫く知家事(兼道)が山内の宅を点じ、これを移し建立せらる。」(「吾妻鏡」9日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「六日、乙酉。相模国にご到着になった。畠山次郎重忠が先陣を務め、千葉介常胤が頼朝の御後ろに従っており、その他従った軍士は幾千万とも知れないほどであった。突然のこと故に、頼朝の御所は建てていなかったので、民家を御宿館に定めたという。」

「七日、丙成。まず鶴岡八幡宮を遥拝された。その後左典厩(サテンキュウ、義朝)の御旧跡である亀谷に行かれた。その場所を定めて邸宅をお建てになろうとしたものの、土地の形が広くなく、そのうえ岡崎四郎義実が義朝の没後を弔うために寺院を建てていたため、お止めになったという。」

「八日、丁亥。足立右馬允遠元は日頃色々と功労を重ねている上に、召しに応じて真っ先に参上している。そのため治めている郡郷を安堵すると仰ったという。」

「九日、戊子。大庭平太景義が担当して、御邸宅の工事が始められた。ただし期日に間に合わせるのは難しいので、とりあえず知家事(チケジ)兼道の山内の家を点じて、その建物を移築される事にした。この建物は正暦年間に建てて以来、火災にあった事がない。(安倍)暗明朝臣が鎮宅の符を押したからである。」。

「夜に入り伝聞。高倉宮必定現存し、去る七月伊豆の国に下着すと。当時甲斐の国に御坐し、仲綱已下相具祇候すと。但し信を取るに能わず。凡そ権勢の人、遷都の事に依って、人望を失うの間、此の如きの浮説流言す。」(「玉葉」8同日条)。

[鎌倉が源氏の旧跡とされる経緯] 

源家が東国との繋がりを持つのは、源経基の頃といわれる。経基は武蔵介として赴任、「いまだ兵の道に練れず」(「将門記」)と批判され。子の満仲も武蔵権守、その弟満正も武蔵守に任じられる。満正は武蔵国大里郡村岡を本拠としたので村岡大夫とも称される。満仲の3男頼信も上野・常陸介などの東国の受領を歴任、甲斐守の時の平忠常の乱の追討使としてこれを平定するなど東国における源氏の基盤を強固なものにする。「陸奥話記」によれば、鎌倉に所領を持つ平直方が平忠常の乱平定に参じた頼信の子の頼義の武芸を見込み、娘婿とした事により鎌倉の地を相伝したという。頼義は石清水八幡を勧請し、八幡神を源氏の氏神化してゆく。頼朝は、鎌倉に残された源氏の因縁を利用し、八幡宮を絡めて「武都」に仕上げて行く。

10月7日

・この日、「大流星」があり、この流星を合図にでもしたかのように、「是夜、群盗京師諸臣ノ旧宅ヲ襲フ」。(「山槐記」、「百練抄」)。

10月8日

・定家(19)の母の兄、藤原親弘、没

10月10日

・「去んぬる十六日より唐船、輪田泊に着す。今日、侍男を遣わして薬種を交易せしむ」(「山槐記」同日条)。

10月11日

・北条政子、伊豆より鎌倉入り。正妻となる。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十一日、庚寅。卯の刻に御台所(政子)が鎌倉に入られ、景義がお迎え申した。昨夜伊豆国阿岐戸郷からすでに到着されていたものの、日柄が悪かったため、稲瀬川辺の民家にお泊まりになっていたのだという。」。

石橋山の合戦後、政子は、伊豆国走湯山(そうとうざん、伊豆山神社。熱海市)の文陽房覚淵のもとに遮れ、その後、同国秋戸郷(現在地は不明)に隠れていた。

10月12日

・頼朝、元八幡を小林(小山)郷北山に移築(鶴岡若宮となる)。専光坊を別当とする。

「寅の刻、祖宗を崇めんが為、小林郷の北山を点じ宮廟を構え、鶴岡宮をこの所に遷し奉らる。専光坊を以て暫く別当職と為す。景義をして宮寺の事を執行せしむ。・・・本社は、後冷泉院の御宇、伊豫の守源の朝臣頼義勅定を奉り、安倍の貞任を征伐するの時、丹祈の旨有り。康平六年秋八月、潛かに石清水を勧請し、瑞籬を当国由比郷に建つ(今下若宮と号す)。永保元年二月、陸奥の守同朝臣義家修復を加う。今また小林郷に遷し奉り、頻繁の礼奠を致すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十二日、辛卯。快晴。(頼朝は)寅の刻に先祖を崇めるために、小林郷の北山に宮廟を構え、鶴岡八幡宮をこの場所に移し奉られた。専光坊をしばらく八幡宮寺の別当とし、(大庭)景義がその他の諸事を執り行う事にした。八幡宮の鎮座する場所を新旧のどちらにするか、その判断についてお考えがなお定まらなかったので、武衛は潔斎され、神前で自ら䦰(クジ)を探り取られ、場所を小林郷に定めた。しかしまだ立派な造りにする事ができないため、まず簡素な社を建てた。もとの社は後冷泉院の御代、伊与守源朝臣頼義が勅を承って安倍貞任を征伐した際に、懇ろの祈願を行うため康平六(1063)年秋八月に密かに石清水八幡宮を勧請し、瑞籬(ミジカキ)を相模国由比郷に建立したものである〔今、下若宮と呼ばれている〕。永保元(1081)年二月には陸奥守源朝臣義家が修復を加え、そして今回また小林郷に移し奉って、簡素な供物を供えるようになったという」。

○貞任(?~1062康平5)。

平安中期の東北地方の豪族。源頼義・義家父子と戦い(前九年の役)、敗死。



つづく

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