治承4(1180)
9月19日
・九州で最初の謀反。この日付け「玉葉」。年末から翌年にかけて内乱状況となる。
「伝聞、筑紫また叛逆の者有り。禅門私に追討使を遣わしをはんぬと。また熊野の事、日を追って熾盛す。」(「玉葉」同19日条)。
この地域は清盛父の忠盛が肥前神崎庄を基盤として日宋貿易を展開、清盛自身も太宰大弐であった関係で伝統的に平氏勢力の強い地盤。
9月20日
・頼朝の使者土屋三郎、甲斐源氏武田信義らに黄瀬川辺りでの頼朝との合流を連絡。
「土屋の三郎宗遠御使いとして甲斐の国に向かう。安房・上総・下総、以上三箇国の軍士兵悉く以て参向す。仍ってまた上野・下野・武蔵等の国々の精兵を相具し、駿河の国に至り、平氏の発向を相待つべし。早く北條殿を以て先達と為し、黄瀬河の辺に来向せらるべきの旨、武田の太郎信義以下源氏等に相触るべきの由と。」(「吾妻鏡」同20日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十日、己巳。土屋三郎宗遠が(頼朝の)使いとして甲斐国に向った。安房・上総・下総の三ヵ国の軍兵はすべて参向した。それに加えて上野・下野・武蔵等の国々の精鋭を率いて駿河国に赴き、平氏の来陣を待ち受けるので、すぐに北条殿(時政)の案内で黄瀬河の辺りに来るようにと武田太郎信義をはじめとする源氏等に伝えたという。」
9月20日
・右近衛大将九条良通が追討使平維盛に餞別として馬を贈る。追討使進発の9月22日には、摂政近衛基通も、維盛に馬を贈る。維盛の高祖父平正盛が対馬守源義親(頼朝の曽祖父)を追討した先例にならった贈り物である。
朝廷は、平将門を討った承平の先例に倣って追討使派遣の儀を行うべきだと考えていた。平貞盛や藤原秀郷が追討使到着以前に将門を討った先例が当てはまると考えた公卿が多かったという(『平家物語』)。維盛率いる追討使の派遣は形式的なものとなる可能性が高く、途中で大庭景親が朝を討ったという報告を聞くことになるだろうという見通しである。
9月21日
・高倉上皇、厳島参詣に進発。東国追討を祈るため。10月6日、福原に戻る。
9月22日
・源頼朝追討使(平維盛(25)・平忠度・平知度・藤原忠清)、5千余で福原出発。官符請印の儀式、福原・六波羅出発吉日選定で遅れる。23日、入京。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十二日、辛未。左近少将(平)惟盛朝臣が源家を襲撃するため東国に出陣しようとしたので、摂政家(近衛基通)が御馬を送った。御厩案主兵衛志清方が御使となり、羽林(平維盛)が御使を出迎え、御馬を受け取ったという。去る嘉承二年十二月十九日、維盛の高祖父(平)正盛朝臣〔その時因幡守であった〕が宣旨を受けて、対馬守源義親を追討するため出陣した日、殿下(藤原忠実)に参って暇乞いをして退出した後、(忠実が)正盛の家に馬を送られた。御使は御厩案主の兵衛志為貞であった。この古例にならい、今このことが行われたのであろう。」。
○維盛(1158保元3~84寿永3)。
平重盛の1男。
○正盛。
平正衡の男。伊勢の所領を白河院に寄進してその信任を得、受領を歴任、平家興隆の基礎を築く。
○義親(?~1108天仁元)。
源義家の次男。左兵衛尉を経て対馬守。その在任中、康和3年に乱行をはたらき解官。翌年捕えられ、隠岐に配流されたが、配所を脱出し、出雲を占拠して乱行を重ねたため、追討使として平正盛が派遣され、誅された。
○忠度(1144~84)
忠盛の子、清盛の弟。正四位下薩摩守。源平内乱では、富士川の戦い、墨俣川の戦い、砺波山の戦いで大将の一人として活躍。一方、藤原俊成に師事し和歌に巧み。平家都落ちに際し、途中京に引き返し、俊成に自分の歌集を託す。一の谷の戦いで戦死。俊成は託された歌集から「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」の歌を「よみ人知らず」として勅撰「千載集」に収める。
「伝聞、東国の事日を追ってその勢数万に及ぶ。当時七八ヶ国掠領しをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。
9月24日
・武田信義の許(逸見山)に、頼朝からの2度目の援軍要請の使者土屋宗遠、到着。
「北條殿並びに甲斐の国の源氏等、逸見山を去り、石禾の御厩に来宿するの処、今日子の刻、宗遠馳せ着き仰せの旨を伝う。仍って武田の太郎信義・一條の二郎忠頼已下群集す。駿河の国に参会すべきの由、各々評議を凝らすと。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十四日、癸酉。北条殿(時政)と甲斐国の源氏等は、逸見山を退き、石和御厨に至って宿営していたところ、今日の子の刻、(土屋)宗遠が到着し、御命令を伝えた。そこで武田太郎信義・一条二郎忠頼をはじめとする者たちが集まり、駿河国で合流しようと皆で評議したという。」。
9月28日
・源頼朝、江戸太郎重長・葛西清重に援軍要請。29日、重長が従わないので、清重に重長を討つように命じる。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十八日、丁丑。御使を送り、江戸太郎重長を召された。「景親の催促を受け、石橋山で合戦したのはやむを得ないことであるが、以仁王の令旨の通りに(頼朝に)従いなさい。(畠山)重能・(小山田)有重が折しも在京しており、武蔵国では、現在汝が棟梁である。もっとも頼りにしているので、近辺の武士たちを率いて参上せよ。」と伝えた。」。
つづく
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