2010年11月8日月曜日

東京 北の丸公園 秋色深まる 木々は鮮やかに色付く サザンカ咲き フユザクラも咲き始める

今月になって初めての北の丸公園
もみじの紅葉、銀杏の黄葉は、まだこれからですが、いよいよ「あき色」深まる北の丸公園です。
写真は全て本日(11月8日)のお昼休みのものです。



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千鳥が淵の高速が見える側(九段の反対側)です。
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サザンカ
千鳥が淵に面してあります
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千鳥が淵の九段側
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下は、もみじの現況です
今月末には真赤に紅葉する筈です
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中央の広場の牛が淵側(千鳥が淵の反対側)
この雑木林の木々の色付きが見事です
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フユザクラを見付けました(所謂「ジュウガツザクラ」とは違うものです)
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「★東京インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」をご参照下さい。
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鎌倉 秋の妙本寺

何度か妙本寺を訪れて記事にしてきています(コチラ)。
妙本寺は、北条得宗家に滅ぼされた比企氏の屋敷跡で、場所は比企谷と呼ばれる山あいにあります。
鎌倉駅から徒歩10分程度でしょうか。
意外に山は深く、夏でもひんやりとした林が続き、ほっと一息つけるお寺です。




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二天門ともみじの組み合わせを期待していたのですが、残念、修復工事中。
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しかたがないので、その場所で振り返った時の風景を代りに。
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祖師堂
春には左側に海棠がさきます。
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サザンカが咲き始めています。
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まだ紅葉まえですが
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明治6年(1873)9月26日~30日 三条・岩倉・黒田・伊藤の説得にもかかわらず大久保は参議就任を固辞  司法大輔福岡孝弟ら司法省幹部、進退を賭けて三条太政大臣に上申  [一葉1歳]

明治6年(1873)9月26日
・三条実美・岩倉具視、大久保利通に参議就任を懇請。
大久保は使節団の失敗の責任を理由に固辞(久光からの心理的重圧も)。
但し、不在中の太政官職制改正は新参参議のクーデタと憤慨。
また、三条は、岩倉に閣議に出てこない木戸説得を懇請。
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9月26日付け大久保の三条、岩倉宛て書簡。
「小臣の心緒かねて御了察もあらせられ侯あいだ、何卒御垂憐、断然御止め下され侯」
(「心緒」を察して就任交渉を中止して欲しいと訴える)。
大久保が「御了察」を求める「心緒」は、島津久光との関係と推測できる。
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29日付け三条の岩倉宛て書簡。
三条は、
「大久保のところ偏に奉命を相祈り申し侯、反覆相考え候ても、同人奉命これなくては千万困難と存じ候、
同人も今日の際一身を国難に投じ候決心に侯わば、内情を忍び、軽重大小を弁じ、縦令旧県云々(久光からの心理的圧迫)の事は如何相成り候とも、廟堂に相立ち申さずては、全国の維持如何と苦慮仕り候、
同人の進退大関係ある事と存知作じ候えば、只管同人の拝命を祈念仕り侯」
と、切羽つまった心境を吐露。
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9月26日
・木村源蔵、谷口起孝が木戸を訪問。
27日、井上馨が、前夜に奥羽旅行から戻ったと挨拶に訪れ、そこに児玉淳一郎も来合わせる。
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9月27日
・木戸、説得に来た伊藤博文に大久保の参議就任が先決と主張。
同日、伊藤は岩倉に2度手紙を送り、大久保の参議就任の必要性説く。
伊藤は大久保の参議起用により、木戸・西郷の3人組みによる政権掌握を狙う。
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木戸は、説得にあたる伊藤博文に、
「大久保拝命の儀第一着」(岩倉宛伊藤博文書翰、9月27日付)、といって動かず
(「昨日御帰事後、早速木戸へ罷越し、なおまた熟議仕り候処、同人においても大久保拝命の儀第一着と相心得おり候趣」)。
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これをうけて伊藤も、岩倉宛て書簡で、
「大久保も参議拝命仕らざる時は、即今重大切迫の事件数々これ有り候なかに、何人と併力与謀して夫々御処分相成るべき哉、ひっきょう両公(三条、岩倉)及び両氏(木戸、大久保)合一、意衷一轍に出で候様と申す事」であり、
「両公及び両氏の合力ならでは何事も前途方向は予め定め難」いであろうが、そのためには「是非大久保拝命これなくては更に其の詮なく」と力説。
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同日付の二通目の岩倉宛書簡でも、
大久保説得は「今一応くらいにては成就覚束ない」ので「百応も御説諭」くださいと岩倉の奮励努力を促す。
「朝鮮一条等もこれ有り、大久保ならでは迚も目的ござ無く候」、「大難目前に迫り居候故、旁もって大久保ならでは終に成就仕り難く」と同調する意見を具申
(伊藤の手紙に初めて「朝鮮・・・」が現れる。伊藤にとって三条・岩倉を督励する絶好の口実ができた)。
三条は、「大久保の処、偏に奉命を相祈り申候、反覆相考え候ても同人奉命これ無くては、千万困難と存じ候」(岩倉宛書翰、9月29日付)と大久保を頼むしかない。
大久保の入閣こそが「陰雲冥濛の形勢」(岩倉宛伊藤博文書簡、9月29日付)を克服する頼みの綱とされるが、大久保は容易に首を縦にふらない。
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この日、大久保は、三条・岩倉に書簡を送り、「小臣の心緒(シンショ)かねて御了察もあらせられ候あいだ、何卒御垂憐、断然御止め下され候」と、就任交渉中止を訴える。
大久保が「御了察」を求めた「心緒」は、島津久光との関係であると推察できる。
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29日付の三条の岩倉宛て書簡。
「大久保のところ偏(ヒトエ)に奉命を相祈り申し候、反覆相考え候ても、同人奉命これなくては千万困難と存じ候、
同人も今日の際一身を国難に投じ侯決心に候わば、内情を忍び、軽重大小を弁じ、
縦令(タトエ)旧県云々の事は如何相成り候とも、廟堂に相立ち申さずては、全国の維持如何と苦慮仕り候、
同人の進退大関係ある事と存じ候えば、只管(タダスラ)同人の拝命を祈念仕り候」
と、切羽つまった心情を吐露。
「縦令(タトエ)旧県云々の事は・・・」とあるように、大久保が固辞している主な理由は、久光からの心理的圧力と推察できる。
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久光は、西郷ら旧家臣が政府高官に成り上がり、廃藩を実行したのに憤慨し、久光と旧士族団の大挙上京騒ぎとなった。
大久保は「憂とせざること能わず」と困惑。
久光は、政府の近代化政策を弾劾し、人事刷新を迫って、天皇以下を右往左往させる。こうした状況で参議を引き受けるのは、火中の栗を拾う愚行と、大久保は考えた。
ただでさえ使節団の失敗で意気消沈の大久保にとって、この上、旧主の怒りに直面するのは堪え難いことであった。
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大久保の固い壁を崩すべく活動したのは伊藤博文。
伊藤は、ばらばら三条・岩倉・木戸・大久保の間を奔走し、相互の意志疎通と説得にあたる。また、西郷・大久保両方にうけのよい開拓次官黒田清隆を説得し、黒田を動かして大久保拝命への突破口を開くこともこころみる。
伊藤のオルガナイザーとしての能力は十分に発揮され、工部大輔の伊藤が明治政権の中枢にのし上る素地がこのとき作られる。
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9月27日
・西郷、三条を訪問、朝鮮使節派遣最終決定の遅れ責める。
28日、三条、岩倉に手紙。岩倉は初めて西郷派遣問題に直面する。
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三条の28日付岩倉宛て書簡。
「朝鮮事件、西郷頗る切迫、昨日御談(ハナシ)申し上げ候通りにつき甚だ痛心」と、伝える。
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9月28日
・司法大輔福岡孝弟・三等出仕島本仲道・同樺山資紀、連署して進退を賭けた上申を太政大臣三条に提出。
29日、福岡は、三条に対し陪審規則を作るため京都府知事・参事の捕縛が遅れるのなら、陪審設置の件は返上するとの上申。
10月2日、太政大臣三条、槇村捕縛は奏聞中なので追って沙汰すると司法大輔福岡に回答。
3日、正院、陪審返上を却下。参坐と名付ける。
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(経緯)
9月22日、太政官正院は、京都府の知事・参事を糾問する臨時裁判所では陪審を設けることとし、規則などが定まるまでは、開廷を見合わせる、と司法省に指令。
既に、司法省からの召喚状により、京都府知事長谷信篤、参事槇村正直は、公務出張のように、アメリカ四番館(太平洋郵船)の外輪汽船で、神戸から横浜へ向かったという。
召喚状の出ているもう一人京都府大属(庶務課長・典事(八等官)から降格)の関谷生三は、7月13日に京都裁判所において、小野組転籍に関して「転籍拒否」についての証拠隠滅したと見做され、「取り調べの都合もある」として裁判所留めにされたままである
(関谷は、提出された転籍願を紛失したのを、願いが出ていないと報告したため、結果的に京都府が転籍を邪魔したという誤解を招く結果となった、と主張)。
その後、関谷は、罪人として唐丸籠に入れられ、中山道を護送、東京到着後は、小伝馬町の監獄署に預けられることになる。
そこで司法省は、長谷信篤・槇村正直についても、東京到着後は、直ちに捕縛することを、太政官正院に請うが、正院は法廷成立までは拘引を見合わせるよう指令。
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9月28日
・ボアソナアド、名村泰蔵と共にマルセイユ発。
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9月30日
・岩倉、西郷を訪問。切迫の実情を知る。
ここにきて、朝鮮派遣問題処理のためにも大久保参議就任が必要となってくる。
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9月30日
・この日付け大久保利通の岩倉具視宛て書簡。
三条・岩倉の執拗な懇請、伊藤の精力的な説得工作、黒田の熱心な説得も、大久保の固い辞退の意志を動かすことができない。
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「明日木戸氏え条公御同道御出向成され候筋御決定の旨拝承、此の上なき御都合と存じ奉り候。就ては同氏見込是非御聞取相成り侯て、過日来再三申上候通り、夫を根軸として速に諸事御運相成り候様希望する処に侯。申上げ候も恐入り奉り候えども、あく迄も同氏え厚く御頼談、是非赤心吐露仕り侯迄は至誠御貫徹相成り候様、御配慮専要と存じ奉候。」
「子臣の存慮は再応閣下方へも申し上げ置き候通りにて甚だ当惑」と、参議を受ける気持ちはないと伝え、「兎角木戸先生を根本にして御一定これあり侯外、見込これ無き旨」という。
木戸を核に政府がまとまることが肝要というのが大久保の戦略。
「木戸先生」と、木戸への冷ややかな感情を見せる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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2010年11月6日土曜日

鎌倉 滑川に架かる東勝寺橋

鎌倉のベスト・スポットは何処かと尋ねられたら、私は迷わず「東勝寺橋」と答える。
とりわけ、大正13年に竣工したアーチ型のこの東勝寺橋は、滑川の一つ上流にある宝戒寺橋からの眺めが一番である。
四季折々に美しい。
下の写真の一番目がそれである。
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まず、鎌倉駅前から徒歩10分程度の地点で、この渓谷美を見せることに驚く。
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更に、この辺りは、鎌倉幕府終焉の舞台であったこと、
即ち、何百人という鎌倉武士が、この宝戒寺(もとの北条氏の屋敷)と東勝寺(北条氏の最後の地、所謂「はらきりやぐら」が隣接してある)の辺りで果てた、その歴史の重さ、悲愴さ、無残さに、惹かれる。
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宝戒寺橋から眺めた東勝寺橋

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青砥藤綱にゆかりの場所でもあります。
碑文の説明はコチラのサイトで
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今度は、東勝寺橋から宝戒寺橋を見たところ
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東勝寺橋から下流を見たところ
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東勝寺橋を山側(東勝寺側)に見たところ
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「★鎌倉インデックス」をご参照下さい
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天文24年(1555)6月~9月 信長一族の不慮の事故が続く 信玄の木曽侵攻(信濃のほぼ全域を掌握) 大友宗麟のイエズス会保護 アウグスブルクの宗教和議  [信長22歳]

天文24年(1555)6月
・朝倉教景を大将とする越前軍、加賀江沼郡へ大規模侵攻(堺真宗寺本「私心記」6月7日条)。
7月23日江沼郡一帯で、8月13日(証如1周忌)同郡菅生口・敷地口で激戦。
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6月8日
・毛利元就、自ら厳島に渡る途中、陶晴賢方の偵察船3艘を撃破。
11日、・毛利氏、厳島宮之城に己斐豊後守を入れる。
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6月26日
'・織田信長・信行の弟秀孝が、馬で守山城主織田信次の側を一騎駆け中、織田信次の家臣洲賀才蔵が秀孝と知らずに矢を放ち、落命。
信次は報復を恐れて出奔。
末盛の信行は守山に攻め寄せ城下に放火するが、信長は秀孝の方にも非があることを認める。(「信長公記」)
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信長は、佐久間信盛の進言を入れ、守山城を弟の安房守秀俊(信時)に与え、信次の宿老角田新五郎・坂井喜左衛門はそまま秀俊に付属させる。
その後、翌弘治2年6月、秀俊が家臣角田新五郎にしき弑逆される。
坂井喜左衛門の息子孫平次の出世を妬んだ角田が岩崎城の丹羽氏勝を味方にして、城中に攻め入って秀俊を殺害したという。

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この前年~翌年、信長一族の不慮の事故・死亡が相次ぐ。
全くの偶然とは思われず、尾張統一を目指す信長が陰で糸を引いた可能性がありうる。
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6月28日
'・周防山口の教会大道寺で初のミサ。
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7月10日
・フロリダを根拠地とするフランス人海賊ジャック・ソワール、第3回目のハバナ襲撃、ハバナを一時占領し略奪。
スペインはハバナの城壁を強化する一方、フロリダをキューバ総督の管轄としフランス人海賊の駆逐に乗り出す。
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7月16日
・後奈良天皇、比叡山延暦寺から東寺の素絹衣(天台僧の着衣)が寺法に背くという訴訟に応え、真言宗に停止の旨と天台宗を支持する綸旨を常陸国江戸崎不動院へ下す。
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7月18日
・津島で踊り興行。信長自ら天女の出で立ちで舞う。
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7月19日
・第2次川中島の戦い。
武田晴信、川中島大塚に進出。犀川はさみ対峙。
対陣は4ヶ月に及ぶ。
閏10月15日、謙信は、駿河・今川義元の調停により晴信と和睦して越後に帰還。
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7月23日
・越前守護朝倉義景、部将朝倉教景(宗滴)に加賀の一向一揆を攻撃させる。
朝倉教景、大聖寺などに立て籠もる加賀一向一揆を撃破。
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8月
・信長、尾張熱田神宮座主坊(天台宗如法院)へ直務する社領秋武町の畠・屋敷を安堵(「熱田神宮文書」)。
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8月2日
・三好長慶、亀井佐介と法金剛院珠栄との下地相論を裁許し、法金剛院珠栄に安堵(「法金剛院文書」)。
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8月13日
・加賀一向一揆、朝倉教景と浜手で戦いこれを破る。
朝倉教景(宗滴)、加賀一向一揆を鷹尾山におびき出しこれを撃破、大勝。
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8月14日
・三条西公条、大覚寺義俊、宗養、里村紹巴らは、源氏講釈竟宴として近江国石山寺において「石山千句」を始める。
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8月21日
・信玄の木曽侵攻。
武田信玄、木曾福島に侵入、木曾義康・義昌父子の木曽郡・福島城を包囲。
義康は降伏・開城。父子は武田家に臣従、11月末、甲府に出仕。
義康は娘を質として甲府に送り、晴信3女を義康の嫡男義昌に嫁がせる。
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この年頃までに、信濃は善光寺平以北を除きほぼ全域が武田氏領となる。
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8月27日
・石見津和野城を包囲した陶晴賢、長門へ軍を返す。城主吉見正頼は長門徳佐まで追撃。陶軍の殿・益田藤兼は命からがら益田へ逃げ帰る。
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9月
・大友宗麟のイエズス会保護政策。
ルイス・デ・アルメイダ、府内に小児科医院を設立。
この年、大友宗麟、豊後府内にイエスズ会育児院建築許可。また、イエズス会に地所・会堂を寄進。
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・三好長慶、播磨東2郡と北摂津の北側を固めるため、篠原長逸に摂津軍をさずけ、八上城(波多野晴通)攻略を命令。
長逸は生瀬口(宝塚市)から武庫川を溯り、有馬郡を通過し多紀郡に入る。
八上城包囲は長引き、波多野氏のゲリラ戦、桑田郡宇津の三好政勝らの背後の脅威により長逸は総退却。
この退却時、波多野氏は徹底的なゲリラ攻撃をかけ長逸は八上城に使者を派して和議を結ぶ。
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9月8日
・朝倉教景(宗滴、79)、越前一乗谷で病歿。貞景・孝景・義景3代を補佐し朝倉氏の領国支配を支える。
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9月21日
'・陶晴賢、岩国から厳島に渡り、塔の岡(豊国神社=千畳閣付近)に本陣。毛利方の宮の城を攻撃。
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9月23日
'・毛利軍先鋒が安芸地御前(じのごぜ)に、本隊は草津に、集結。
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9月25日
・アウグスブルクの宗教和議
アウグスブルク帝国議会。フェルナンドの調整。
ルター派の存在を認める宗教和議の取り決め成立。
メランヒトンの「アウグスブルク信条」をほぼそのまま採択。
「臣下はその支配者の宗教に従う」原則。
領邦、都市が、新(ルター派)旧教を自由裁量で採択。
新旧両教徒の同権を承認(ツヴィングリ派、カルヴァン派、その他分離宗派は排除)。
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9月26日
'・毛利元就、小早川隆景に伊予水軍招致を督促。
27日、伊予水軍の参加をあきらめた毛利元就、全水軍120艘を集結。
一方、陶晴賢方の三浦房清、厳島宮の城の堀を埋め立て、落城寸前に追い込む。
28日、毛利軍、火立岩に本陣を移す。
同28日、伊予水軍200艘、毛利軍救援のため安芸廿日市沖に現れる。
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9月29日
'・安芸地御前火立(ホタテ)岩に全軍を集めた毛利元就、合い言葉「勝つ」・「勝つ」を定め隠密渡海と奇襲攻撃の命を下す。
30日、毛利軍、暴風雨の中、厳島鼓ヶ浦に上陸。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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萩原朔太郎の「祝賀」の詩「南京陥落の日に」創作の背景

以前に、萩原朔太郎の南京陥落「祝賀」の詩「南京陥落の日に」をご紹介しました(コチラ)。
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11月6日付け「朝日新聞」朝刊にこの詩の創作時の背景について、少し触れた記事がありましたのでメモしておきます。

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(記事の概要:引用文には段落を施す)

今月16日で101歳になる詩人まど・みちおさんの「戦争詩」が新たに見付かった。
まどさんは、かつて詩集で自分の戦争(協力)詩を公表し謝罪している。
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戦時下に戦意高揚のための作品を書いた詩人の大半は、何も語らず世をさっている。
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「戦時中は三好達治や高村光太郎ら大半の詩人が戦争詩を書いた。

メディアの責任もある。
萩原朔太郎は「南京陥落の日に」を、朝日新聞の記者から<強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず>(円山薫あて書簡>一晩で書いた。
<こんな無良心の仕事をしたのは、僕としては生まれて初めての事>だったという。
戦争詩を書いた詩人のほとんどは戦後、作品を闇に葬り、口を閉ざした。
書いた経緯を明らかにした詩人は高村光太郎や小野十三郎、伊藤信吉らわずかで、まどさんほど強く自己批判した詩人はいない。」
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意気のあがらぬ戦争詩の背景がこれで分かった。

あの侵略戦争の結末を知っている我々からすれば、朔太郎の意気の上がらぬこの戦争詩は、まるで厭戦詩のように見える。
少なくとも、それは厭作詩ではあったわけだ。
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「★南京戦インデックス」をご参照下さい。
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東京 一葉記念館 たけくらべ記念碑 樋口一葉旧居跡 吉原大門の見返り柳 吉原神社 吉原弁財天

東京、台東区立一葉記念館
(樋口一葉の龍泉寺町の旧居跡近く)
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前の小公園には、記念碑がたくさんあります。
展示物は豊富だし、販売されている「資料目録」はよくできています。

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たけくらべ記念碑
「たけくらべ」は、龍泉寺町時代の生活の中から生まれた作品
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樋口一葉旧居跡
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一葉がこの地に移転したのは、「糊口的文学からの脱却」のため。
(「一葉日記」から)
「人つねの産なければ常のこゝろなし。
手をふところにして月花にあくがれぬとも、塩噌(エンソ)なくして天寿を終らるべきものならず。
かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝこゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。
いでや是より糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(ソロバン)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。」(「日記」明治26年7月1日)
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そして、明治26年(1893)7月20日(一葉21歳)、
下谷区下谷龍泉寺町368番地(大音寺通り、現茶屋通り)に転居。
ここで雑貨や駄菓子の商いをする。
人力俥宿と隣り合う2軒長屋の左側。近くには酒屋伊勢屋、魚屋魚金、西澤道具建具屋など。
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下谷龍泉寺町とは・・・:
幕末には、茶屋22軒が吉原に遊ぶ客達を迎え妓楼に導いていた。
維新後、廓の水道尻や非常門の出入りが、酉の市の日だけに制限されると、茶屋は姿を消して、廓の中に仕事を持つ兼業者が多く住む商家の町に変わる。
人口は増加し、明治20年代には維新直後の4倍に近い約2千人がこの界隈に居住している。
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一葉一家の移転先は、新吉原遊廓の西側、揚屋門(非常門)に突き当たる大音寺通りに面するところ。
上野方面から吉原に通うには、この大音寺通りから揚屋門の手前でお歯黒溝に添うように北へ曲がり、日本堤へ出てから見返り柳を目印に大門へ入るという道順となる。
大音寺通り(現・茶屋町通り)周辺には10軒長屋、20軒長屋、30軒長屋が建ち並び、貧しい人々が暮らしていた。
一葉宅前の2間(3.6m)幅の狭い道路を、廓通いの客を乗せた人力車が駆け抜ける。
夕方に廓内の仕事に出かける「廓者」や廓相手の商売や内職をする者が多い。

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商売は、初めの内は順調であったが、翌年1月になると近くにライバル店が開業し、しだいに売り上げは減少してゆき、商売は行き詰まる。
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日記や仕入帳などによると、開店当初は、主として雑貨類の1日の売上げが40銭~60銭、月に15円ぐらい、それに要した仕入れ金額は、9月が11円、10月が売上げも伸びて15円ぐらい。11月には増えて17円となる。
売上げ規模は、この仕入れ額に3割程度のマージンを上乗せした程度と想定される。
9月~10月頃は雑貨頬が主に売れていたが、11月以降は子供相手の駄菓子、小間物に変っている。
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文学活動としては、転居前からの「文学界」との関係も深まり、平田禿木(のちには馬場孤蝶も)との交流が続いている。
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そして遂に、明治27年年5月1日、10ヶ月間に龍泉寺町での商売を切り上げ、
一葉の終焉の地となる本郷区丸山福山町4番地(文京区西片1丁目17番)に転居。
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この3月頃の、行き詰った一葉の心の内。
「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。
人になさけなければ黄金なくして世にふるたづきなし。
すめる家は追はれなんとす。
食とぼしければこゝろつかれて、筆はもてども夢にいる日のみなり。
かくていかさまにならんとすらん。
死せるかばねは犬のゑじきに成りて、あがらぬ名をば野外にさらしつ。
千年の後万年の春秋、何をしるしに此世にとゞむべき。
岡辺のまつの風にうらむは同じたぐひの人の末か」
(感想「いはでもの記」明27・3)
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吉原大門にある見返り柳
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吉原神社
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吉原弁財天
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2010年11月5日金曜日

鎌倉 秋の鶴岡八幡宮 

鎌倉 鶴岡八幡宮
過去の記事はコチラ(もう既に7回になります)。
下は、11月3日の状況です。
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この混雑ぶり
七五三参りの家族連れが目立ちました。


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大銀杏
たくさんの芽が枝に成長してきている
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もみじは勿論、まだ紅葉してませんが、燃えているような黄色です
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「★鎌倉インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」  「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい。