2011年8月6日土曜日

野中広務・辛淑玉「差別と日本人」を読む

勧められて、野中広務・辛淑玉「差別と日本人」を読んだ。
刊行当時評判になり書店で平積みされていたのを何度か立ち読みをしたことがあったが、今回はしっかり読ませてもらった。

辛さんが差別の本質、誰が(何が)それを作り、温存してきたかをよく認識されている一方、野中さんのほうは、そういった本質論よりも、政治家として、差別をなくすためには、差別される側が差別を利用して利益を得たりすることを排除していかねばならないという行動論に力点が置かれている。

辛さんは、ところどころで、野中さん、そっち側へ行っちゃダメですよ、と呼びかけている。
多分、野中さんは、それに気づいている。
この方、謙虚な方だと思う。

辛さんがところどころに挿んでいる「解説」がまたよくできていて、大変勉強になる。

以下、目次と私がメモした内容につきご紹介する。

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目次

まえがき  野中広務
第一章 差別は何を生むか 
昭和という時代と差別
部落出身の男とは
自民党という不思議な政党 
日本人とは何なのか 

第二章 差別といかに闘うか
関東大震災における虐殺 
軍隊と差別 
軍隊内差別 
政治家を目指す
部落差別は地域差別ではない 
結婚と部落差別
解放運動と地方政治
差別をめぐる事件
糾弾闘争とはなんだったのか
野中広務と共産党・解放同盟
町長から府議へ

第三章 国政と差別
阪神淡路大震災と差別
オウム真理教事件と破防法
軍用性奴隷と国民基金
国旗国歌法案
部落民にとって、「天皇」とは
新井将敬の死は何を意味するのか?
女性の社会進出
アメリカにとって日本とは

第四章 これからの政治と差別
ハンセン病訴訟で国が控訴を断念
人権擁護法案
重度障がい者の授産施設
石原慎太郎の暴言
麻生太郎の暴言
財閥、天皇制、被差別民
小泉純一郎の政治姿勢
オバマ大統領の存在意義
これからの時代に
最後の使命

あとがき  野中広務
あとがき  辛淑玉

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私の読書メモ

1.野中の京都府議時代、「・・・自由民主党の府議として、蜷川(京都府)知事の戦争責任を真正面から問うたことがある。
自分を平和論者の如く言っていた蜷川さんが、京都大学経済学部教授時代、学徒出陣に際して、京大の学生新聞に次のようなことを書いておられた。
「鬼畜米英を倒して、神国日本の御楯となれ」「ペンを執るより銃を執れ」
その矛盾を質問したのだが・・・。」

2.野中の対中姿勢と南京での残虐行為
「・・・最初に訪中したのは七一年」、南京の雑踏の中で私の後援者の一人が倒れたまま起きあがれなくなってしまった。
聞けば、南京で残虐行為に加担したという。

3.関東大震災後の朝鮮人虐殺はよくしられているが、実は、被差別部落の人々も同じような目にあっていた。

辛の解説
「・・・震災から五日後の九月六日、香川県の被差別部落から売薬行商で千葉を訪れていた女性や幼児、妊婦を含む十人が、自警団に組織されたごく普通の人々によって殺され、利根川に沈められた。
・・・
加害者は、福田村および隣接する田中村(現柏市)の自警団だった。
虐殺に加わった八人が殺人罪に問われて懲役三~十年の刑を受けた。

しかし、彼らの大半は、結局、昭和天皇即位による恩赦で釈放された。
取り調べの検事は「彼らに悪意はない。ごく軽い刑を求めたい」と新聞に語り、村は弁護料を村費で負担。
村民は義援金を集め、被告人たちの家の農作業を手伝うなどして留守家族を助けた。
加害者は村のヒーローのように扱われたのである。

虐殺の中心人物の一人は、出所後、村長になり、合併後も市議として市の要職にとどまり続けた。・・・・」

「・・・村当局も県当局も、殺されたのが被差別民だったからという理由で、あたかも事件そのものが存在しなかったかのように扱ったのである。

そこに私は、部落差別というものがたんに伝統的共同体の因習に起因するものではなく、近代の天皇制統治構造に深く根ざしていることの本質をみる・・・」

3.1982年3月3日、水平社創立60周年記念集会での野中広務京都府副知事のコメント。

「全水創立から六十年ののち、部落解放のための集会をひらかなければならない今日の悲しい現実を、行政の一端をあずかる一人として心からお詫びします。

私ごとですが、私も部落に生まれた一人であります。

私は部落民をダシにして利権あさりをしてみたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。
そういう運動を続けておるかぎり、部落解放は閉ざされ、差別の再生産がくりかえされていくのであります。
六十年後にふたたびここで集会をひらくことがないよう、京都府政は部落解放同盟と力を合わせて、部落解放の道を進むことを厳粛にお誓いします。」(「解放新聞」一九八二年三月二二日付)」

4.国旗国歌法案

辛ははっきりと言う。
「野中さんがおやりになった法案でいちばん印象に残っているのほ、「国旗国歌法案」です。」

「日の丸は、私にとっては、ナチスドイツの国旗ハーケンクロイツと一緒なわけですね。」

辛・野中のやりとりは、はがゆい。

辛の解説
「一九九九年には、そのような混乱にさらに拍車をかけるように国旗国歌法案が可決された。
その法文では、強制ではないとしながらも「第一条国旗は、日章旗とする。第二条国歌は、君が代とする。」と国旗国歌がはじめて明文化された。
その結果、ますます実質的な強制は加速され、反対した教師への制裁、イヤガラセ人事が続発し、今も続いている。

教育現場での混乱の最大の原因は、日の丸君が代を強制しようとする学校や教育委員会の管理者たちが、「お上の通達だから」という理由をまるで方便のように使ったことである。」

「現場では、「君が代」「日の丸」を国歌国旗として認めるかどうかという問題に加えて、国家が個人の思想信条の領域に手を突っ込むことへの不快感と反発がわき上がった。」

「のちに野中氏は、テレビ(TBS「時事放談」〇六年十一月二十六日放送)で、
「自分が小渕政権で官房長官やってる時に、国旗国歌法案を触発的にやったんですよ。
やったけれどもね、そのあと自分振り返ってみたら、その勢いのまま、住民基本台帳とか、周辺事態法とか、もう怖い怖いのかどんどんどんどん出来たのを、自分で非常に反省してます」
と語った。

私は、当時の小渕氏は、″野中がいうならできるかもしれない〞と判断したのだと思えてならない。「日の丸君が代」問題での最大の抵抗勢力は部落解放同盟だ。
そこを、野中氏なら押さえられると踏んだのではないだろうか。

国旗国歌法案は、最大の抵抗勢力、広島の解放同盟を叩く意味でも大きかった。
ターゲットは、部落解放の原理主義者とも呼ばれた、元社会党議員で解放同盟中央本部書記長をつとめたことのある広島県連の重鎮、小森龍邦だったと言われている。」

辛は、野中さん、あなたは私たちの向こう側に加担したんですよ、と言っている、と思う。
そして、かなりの部分で、野中はそれに気がついたとも思っている。

教科書問題も、国旗国歌法案のあとに続いている。
どんどん悪くなる。

5.新井将敬

「辛 ・・・あの時の、新井将敬を取り巻く自民党の中の状況はどうだったのか・・・」
「野中 僕は新井将敬に関わったはうなんですが、いまだに彼は自殺じゃないと思ってる・・・」

「辛 ・・・私は新井将敬を精神的に殺したのは石原慎太郎だと思ってるんですね。最初の選挙の時に……。

野中 ああ、ビラを貼ってということか?

辛 そうそう、新井将敬のポスター三千枚に、真っ黒いシールで「北朝鮮から帰化」と書かれたものを貼った。
同じ選挙区だったので脅威に感じたのでしょう。

すさまじいまでの差別事件でした。
確か、彼の秘書が捕まったけど、その後も石原さんは、日本人の血ではないものが国政に関わっていいのか、と執拗に言い続けていた。・・・」

6.土地使用特別委員会の委員長としての発言


委員会の最後に、昭和37年、園部町長時代に初めて沖縄を訪れた時のことを話す。

辛の解説
「沖縄行きの目的は、沖縄戦で二千五百四人もの京都の人たちが命を落とした宜野湾市に慰霊碑を建てることだった。
空港から現地へ案内してくれたタクシーの運転手がいきなり車を停め、
「あのサトウキビ畑のあぜ道で私の妹は殺された。アメリカ軍にではないです」
と言った。

野中氏はその時の体験を話した上で、次のように述べた。

「この法律が、沖縄を軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないように、古い、苦しい時代を生きてきた人間として、国会の審議が大政翼賛会のような形にならないように、若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」

委員長報告に自分の意見を加えてはならないという規則があるため、その発言は後日、議事録から削除された。」

7.石原慎太郎の暴言

「辛 さきほど名前をあげましたが、石原慎太郎さんだけでなく、政治家からとてもたくさんの差別発言が出ますよね。植民地支配のこともそうですし、黒人に対する発言もそう。

とくに石原さんの「三国人発言」。これは自衛隊を前にした発言でしたが、「もし地震が起きたら外国人が暴れるから、その時は自衛隊、よろしくお願いします」 みたいな発言をしている。

さらに中国人の犯罪に関して、手口が 「民族的DNAを表示するような犯罪」だと発言したり。
・・・
かつて日朝関係が悪化したとき、足もとの在日の子が叩かれていたとき、記者の質問に対して当時の海部首相は「俺が叩いたわけじゃない」とかって言っちゃうし。いったいあの感覚は何なんだろうって思うんですね。」

「野中 いやあ、煩わしい問題から逃げようとしているだけのことですよ。」
(物足りないリアクションである)

(さらに、野中が昨夜石原と飯食ったと言う)


「辛 え?なんで石原さんと御飯食べられるんですか。なんで!? だって石原さんってハンディのある子どもたちを見て、「ああいう人ってのは人格あるのかね」といいはなった。・・・・」

(そして、辛の追求に、野中は、こんな発言を)

「野中 そうかね。あんなのボンボンですよ。」

7.麻生太郎の暴言

辛の解説
「麻生太郎自民党政調会長(当時)は、二〇〇三年五月、東京大学の学園祭で、「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言した。

・・・・・・

麻生氏は、植民地支配で財を築いた麻生財閥の中でぬくぬく育って、首相にまで上り詰めた。


麻生財閥を構成する企業の一つ、麻生鉱業は、強制連行されてきた朝鮮人を強制労働につかせ、消耗品の労働力として、その命を紙くずのように扱った。

一九四五年までに麻生系の炭鉱に連行された朝鮮人は一万人を超える(厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」福岡分統計)。
賠償は今に至るまで行われておらず、遺骨さえまだ遺族の元に戻っていない。

また、麻生炭鉱は部落民を一般の労働者と分け、部落民専用の長屋に入れて奴隷のように酷使した。

〇七年二月、麻生氏は米議会での日本軍性奴隷制に対する決議案に対して、衆議院で「客観的な事実に基づいていない」と批判し、米国の共和党議員でさえ憤慨するお粗末な歴史認識を披露した。

天皇家と親戚関係をもち、いつも上から目線で見る麻生太郎の目には、朝鮮人も部落民も同じく消耗品であり、人の数には入らなかったのだろう。
ソウル大学の学生が公式に麻生氏に公開討論会を申し入れたが、彼は一切応えなかったという。」

(野中・辛ともに怒り炸裂。読者の私も同じく怒り炸裂)

対談
「辛 私は麻生さんの顔を見ると背筋が寒くなるんです。
とくに彼の中にあるひどい差別意識には、ぞっとさせられる。

野中 まだ麻生さんが総理になる前の、二〇〇一年四月の頃だったけれども、ある新聞社の記者が僕に手紙をくれたんです。手紙には、こんな内容のことが書かれていた。

<麻生太郎が、三月十二日の大勇会の会合で
「野中やらAやらBは部落の人間だ。だからあんなのが総理になってどうするんだい。ワッハッハッハ」
と笑っていた。
これは聞き捨てならん話だと思ったので、先生に連絡しました>

彼がそれを言ったとき、その輪の中に数名の政治家がいたらしいのだが、その一人が、今は国民新党にいる亀井久興君だった。私自身が亀井君に確認したら、「残念ながらそのとおりでした」と。
・・・・・・。」


「辛 麻生さんというのは、自民党の中でもそういう発言をする人なんですか。

野中 そうだろうね。
実際そう思っているんでしょ。朝鮮人と部落民を死ぬほどこき使って、金儲けしてきた人間だから。

彼が初めて選挙に出た時、福岡の飯塚の駅前で、「下々の皆さん」って演説した。
これが批判を受けて選挙に落ちたんだ。彼はずうっとそういう感覚なんですよね。

辛 飯塚って在日も部落の人もたくさん住んでいるところですからね。

野中 何の疑問もなしにそう言うんだ。不幸な人だ。一国のトップに立つべき人じゃない。

・・・・・

辛 麻生さんは差別意識が体の中に染み込んでるんだと思う。

野中 そうそう。」

辛の解説
「差別は、古い制度が残っているからあるのではない。
その時代の、今、そのときに差別する必要があるから、存在するのだ。
差別の対象は、歴史性を背負っているから差別されるのではない。

差別とは、害や資源の配分において格差をもうけることがその本質で、その格差を合理化する(自分がおいしい思いをする)ための理由は、実はなんでもいいのだ。
部落だから、外国籍だから、朝鮮人だから、沖縄だから、女だから……。
自分たちの利権を確保するために資源配分の不平等を合理化さえできれば、その理由などなんでもいい。

近代日本における部落差別は、近代化過程における富の配分をにざる藩閥政府の官僚たちと、それに支えられた新興財閥の特権を維持するために、あらたに作り出され、また再生されてきた。
そして、彼らの特権的支配をささえるもうひとつの原理が天皇制イデオロギーだった。
部落差別と天皇制は近代における差別構造の車の両輪、といわれるゆえんがここにある。

その構造の上に乗っかって麻生財閥があるのだ。
「麻生太郎」とは、日本社会が生み出した差別の結晶であり、差別による旨みが骨の髄まで染み付いた人間の典型なのだろう。」

8.小泉純一郎の政治姿勢

「辛 小泉さんの性格がよく表れていたのが、北朝鮮に行った時、向こうでお茶一杯飲まないで帰ってきたことだと思うんですね。

野中 お茶飲まない、食べない、それから泊まらない。全部日本から持っていったものを食べていたようだ。一切向こうから出されたものは食べないということで徹底しておった。
向こうは共産主義国家とはいえ、もともとは儒教の国ですよ。そういう国に行って、おまえが出したものは一切食べんぞと、こんな失礼な言い方があるかと。そこからこの訪朝は間違っている。
・・・・・・・」

9.オバマ大統領の存在意義

「辛 私は、大きな政治的なものはあまりわからない。けれども私は、三つのことが気になったんです。

(中略)


それと三つ目は、多くの白人の人たちは、オバマさんのことを怖がっていないということなんですね。
なぜなら、彼は傷ついてないから。
オバマさんはインドネシアやハワイで育って、アメリカ黒人の歴史的な傷つき方をほとんどしていない。文化的にもない。
ダブルだということもあって白人が投票しやすい。

もっと言うならば、仕返しされる心配をしなくていい。

安心して投票できる人だから大統領になったんだなって気がしたんですね。
・・・・・」

10.野中広務のあとがき

「辛さんとは立場の違いもあるので、どんな対談になるのかと思った。しかし終えてみると、「こういう見方があるんだなあ」ということがわかったことも大きな収穫だった。」

(謙虚だ)

「とくに対談の最後の部分は、初めて話したことがほとんどだ。
これは辛さんがご自分の体験や心情を包み隠さず話してくださったことが大きく影響している。
あえて舞台裏を明かすと、辛さんはこの部分を話すとき、時に鳴咽を堪えながら、また言葉も切れ切れに本心を語ってくださった。
私も差別されてきた体験とそれと闘って来た体験を持つだけに、彼女の気持ちが痛いほどわかり、思わず言葉を詰まらせた。
心と心、魂が触れあうような気がした。」

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蝉(セミ)九景

今日(8月6日土曜日)は朝から晴れ(雲は多い)。
朝9時前、いつもの富士山スポットに出かけたが、案の定、富士山は見えず。
この辺り、せみ時雨というか、やかましいほどのセミの合唱。

ついつい興に乗ってセミの写真を撮ってきました。
最初の一つがなななか見つけ難いけれど、一旦見つけて目が慣れると、どんどん見つかるもんなんですね。

「ひまわり ゆうだち せみのこえ」(吉田拓郎「夏休み」)









2011年8月5日金曜日

昭和16年(1941)8月14日 「此日夕刊新聞に役人平沼某傷けらる。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

永井荷風「断腸亭日乗」を順次少しずつご紹介してます。
今回は昭和16年8月の前半。

実物の日記は、今月から巻が改まり、「断腸亭日記第二十五巻續」となります。
冒頭には「昭和十六年八月   荷風老人」とあります。
この年、満62歳。

この月は、前月に続き体調不良が続いている模様。
暑さと涼しさの調整不良のようです。
・・・が、よく見ると日付けの前に「・」が付いている。
荷風老人?
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昭和16年(1941)
8月2日
八月初二。晴。牛後平井氏来訪。芝口に飰して共に浅草に往く。
地下鐡にて水兵の乱酔して掛員と争ふものあるを見る。
憎むべきなり。
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8月5日
八月初五。晴。暮方谷町電車通のパン屋にジャム買ひに行きしに主人の言ふやう、パンにつけて食ふものは一向に賣れません。
近頃パンを買ひに來る人は日に三百人位ありますがジャムの鑵は日に三ツ四ツ賣れゞばよい方なるべし。
お客は以前とは全く違ふやうになりたり。
これも時勢なるべしと。
此夜月佳し。
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8月7日
八月初七。晴。腹痛下痢。
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8月8日
・八月初八。立秋。晴天。二階の書を曝す。此夜また下痢。
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8月10日
八月十日 日曜日 細雨烟の如し。秋海棠の花満開なり。
東京市教育界疑獄の噂高し。
それ見た事かと言ふやうな心地して愉快禁ずぺからず。
陸軍主計等の収賄沙汰あらばいよいよ痛快なり。
當然あるべき筈なれど秘して新聞にはかゝせぬなるぺし。
燈刻大雨雷鳴。
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8月11日
八月十一日。糠雨朝まだきより降り籠めて晴れず、炭あらば火鉢に火を置きたきばかりの冷気なり。
かくの如き天候猶数日つゞくべしと、ラヂオの言ふをきくに、夏らしき暑さにはならぬとか何とやら。既に立秋を過ぎてより後なれば夏らしからぬは當然なり。天文学者新聞記者と同じく残暑の語を用ひざるは何故にや。
午後丸ノ内銀座其他用事を辧ず。
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8月14日
八月十四日。晡下雨の晴間を窺ひて土州橋に往く。
市中の噂に新橋の妓家にては先頃より衣類家具を市外に持運ぶもの尠からざる由。
新橋の妓は軍人を第一のお客となすものなれば其の行動は軽視すべきにあらずと言ふものもあり。
此日夕刊新聞に役人平沼某傷けらる。下手人其場にて捕はれし由。
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「平沼某傷けらる」:
国務大臣平沼騏一郎が「まことむすび会」会員に狙撃され重傷を負う。
平沼は明治末年、大逆事件のフレームアップを指揮して、幸徳秋水ら12名を死刑に処した人物。
「役人平沼某」の表現がいい。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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2011年8月4日木曜日

東京 北の丸公園 久しぶりの夏景色 入道雲

今日(8月4日)、朝に雨、午前中も雨が降ったり止んだり。
お昼休みの北の丸公園のちょっとした道路の凹地には水たまりができているほど。
ところが、昼ころからどんどん晴天に。
久しぶりの夏景色となりました。

(予報によると明日は一日中雨。どうも、先の台風以来、不安定な天候続きです)

▼池に景色が映り、上下対照になってました。
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▼入道雲も久しぶり
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年8月3日水曜日

明治36年(1903)1月 永井荷風(24歳)と有島武郎(25歳)

日露戦争開戦の前年である明治36年からの年表を始めます。
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この年、「萬朝報」が、開戦世論に抗することが出来ず、開戦論に転向。
このため、戦争反対を主張してきた記者の幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三は退社し、幸徳・堺は「平民新聞」を刊行。
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この年、硯友社の大家尾崎紅葉が胃癌で没しますが、同い年の夏目漱石は、この年、イギリス留学から帰国し教職につきます。
(紅葉と漱石は、慶応3年生まれの同い年。でも、一方は既に大家で、もう一方はまだ文学で身をたてる決心ができず、とりあえず教職につきます。)

同じ慶応3年生まれを7人並べた坪内祐三「慶応三年生まれ七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代」(新潮文庫)という面白い本があります。
対象となる期間が明治27、8年までなのが惜しいですが。
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また、この年、洋行に赴いた人に、かの永井荷風と有島武郎がいます。
同じくぼっちゃん育ちながら、生き方は対照的な二人。
年齢は武郎が1歳上で、この年25歳。
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啄木は17歳、文学で身を立てるべく単身上京し、この年、失意の帰郷。
小林多喜二はこの年誕生。
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そんな年から始めます。
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明治36年(1903)
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この年
・中国、商務印書館、日本の4大教科書出版社金港堂社主原亮三郎と提携。
小学校の国語教科書を出版。
一方で、「繍像小説」(1903)、「東方雑誌」(1904)、「教育雑誌」(1909)、「小説月報」(1910)、「少年雑誌」(1911)と発行。
中国最大の出版社となる。
「天演論」(1905、進化論を紹介)など西洋近代思想翻訳・出版を行う。
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・日本の不就学率(全国平均)。
1897(明治30)年には33.35%(男19、女49)のものが、この年、6.77%(男3、女10)となる。
しかし、この統計は学齢人員中就学義務の生じたものの比率で、これ以外に「就学義務生ゼゲルモノ」が1897年で55万人強(7.73%)、1903年で100万人(15.7%)もいる。
またこの「就学義務生ゼゲルモノ」は、1896~99年は毎年50万人台のものが、1900年には88万人と急増、以後90~100万人台とある。
これは、小学校令施行による貧窮民児童の大量切り棄てを意味すると推測できる。
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1月
・駐日韓国公使高永喜、戦時局外中立を求める韓帝密書を小村外相に手交。
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・日本政府、日露協商基礎条項提示。
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・新俳優伊井蓉峰と小島文衛が、市村座で近松門左衛門「寿門松」、森鴎外「玉匣両浦島」、紅葉(モリエールの翻訳)「夏小袖」を上演。
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森鴎外(41):
前年1月に結婚、3月小倉から上京、6月上田敏と雑誌「芸文」を創刊、9月アンデルセンの小説「即興詩人」の翻訳を春陽堂から出版。12月、弟の三木竹二の主宰する「歌舞伎」号外として詩劇「玉匣両浦島」を発表。
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永井荷風(24):
仲間の畠山古瓶が伊井蓉峰の弟子として初めて舞台に立つことになったため、巌谷小波宅によく集る生田葵山、谷活東、小栗風葉などと市村座に出かける。

このとき、荷風は、隣の桟敷に葉巻をくゆらしている口髭のある人が森鴎外先生だ、君を御紹介しようと、ある男に言われ、鴎外に紹介される。
鴎外は微笑して、君の「地獄の花」は読みました、と言う。
荷風は、これを最上の光栄と感じ、喜びで胸が一杯になり、その晩は、一人で下谷からお茶の水の流れに沿って麹町の自宅まで歩いて帰る。
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鴎外と親しい与謝野鉄幹は「明星」派の人たちと観劇。
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・広津柳浪は、この月に「薬のききめ」を「太陽」に、「何の罪」を「文芸界」に、3月「磯の烟」を「新小説」に、5月「妾」を「文芸倶楽部」に発表。
しかし、問題作というべきものはない。
広津柳浪は、「今戸心中」の後、明治32~33年、「縺れ糸」、「骨ぬすみ」、「目黒小町」の三部作を書く。これは、鴎外が、「作者得意の戯曲的推移にして、読者の心を喜ばすに足るものあり」と評した佳作。
その後の沈滞期のあと、明治35年10月、「新小説」に短篇小説「雨」を発表。これは写実的な作風においての傑作と言われた。
この時柳浪は、数え年42歳。
妻の寿美子が、結婚10年目の明治31年7月に没しており、この年、長男俊夫は数え年15歳、次男の和郎は13歳。
この年柳浪は、5年間の独身生活ののち、高木武雅の長女潔子と再婚。
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・有島武郎(25)、内村鑑三と新渡戸稲造に洋行の相談をする。8月渡米。
この月、有島は、新宿の西郊、柏木に内村鑑三を訪ね留学の相談をする。
内村は欧米の宗教界の腐敗に憤っており、これに反対。
有島は、内村の理窟に納得できず、札幌農学校時代の師、新渡戸稲造を訪ね、改めて留学の相談をする。
新渡戸はこれに賛成し、アメリカへ行くならばペンシルヴァニア州のハーヴァフォード大学がよい、と忠告してくれる。

しかし、翌日、新渡戸から電話があり、後藤新平が皇太子に良友がなく、候補者を求めて来たので、有島を推薦した、洋行もさることながら、国家元首となる人の片腕となる積りはないか、と言う。有島は学習院初等科の11歳の頃、皇太子の遊び相手に選ばれ、毎土曜日に吹上御殿に伺候したことがあり、それが理由で推薦されたものらしい。
有島は数日考えさせて欲しいと新渡戸に伝えるが、その意思は全くない。
父に知れれば拒むことはできなくなるので、父には黙って、2、3日後に新渡戸を訪ねてそれを断る。
有島はその後も新渡戸家をしばしば訪ね、夫人(アメリカ人)について英語会話の教育を改めて受けている。

有島武郎:
明治29年7月、18歳で学習院中等部を卒業、9月に札幌農学校入学。
在学中、内村鑑三の影響を受けてクリスチャンになり札幌の独立教会に入る。
また、農学校教授の新渡戸稲造に親しみその家庭に出入りする。
生徒仲間では森本厚吉(あつよし)、森広、足助素一(あすけそいち)と親交。
同じくクリスチャンの森本とは出版の目当てもなく、敬虔なキリスト教徒で冒険的探検家であったリヴィングストンの伝記を書く。

明治34年7月、23歳で札幌農学校を卒業。卒業論文「鎌倉幕府初代の農政」。8月、「リヴィングストン伝」が新渡戸稲造の紹介により警醒社から出版。警醒社は、小崎弘道らが「六合(りくごう)雑誌」刊行に続いて興した出版社。
同年9月4日、有島の農学校時代の友人で、アメリカにいる森広と結婚する予定で、国木田独歩の妻であった佐々城信子が鎌倉丸で渡米し、有島は、横浜に彼女を見送り面倒を見る。
ところが、佐々城信子は、船中で事務長武井勘三郎と関係し、シアトルに向かえた森を拒否し、その船で帰国。この顛末は、11月、スキャンダルとして新聞に報じられる。
佐々城信子は武井と同棲するが、その後も有島は、信子やその妹たちと交際している。
(小説「或る女」のモデル)

また、同年12月1日から、有島は在学中延期していた兵役につき、麻布の歩兵第三聯隊に1年志願兵として入隊、翌明治35年11月3日に兵営生活を終える。
兵役を終えた後、彼はアメリカ留学の希望を父に申し出て許可を得る。
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慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代 (新潮文庫)


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2011年8月2日火曜日

永井荷風年譜(14) 明治42年(1909)満30歳(3) 漱石の依頼で小説「冷笑」を朝日新聞に連載

永井荷風年譜(14) 明治42年(1909)満30歳(3) 
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夏
この頃、第三高等学校フランス語教師の席を希望し、上田敏に斡旋を依頼。
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9月中旬
京都に遊び島原を見る。
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9月20日
『歓楽』を易風社より刊行。
24日付で発売禁止処分。収録作品『歓楽』『監獄署の裏』のため。
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10月
『帰朝者の日記』(のち『新帰朝者日記』)を「中央公論」に発表
『荷風集』を易風社から出版。
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「自分は今や唯だの一日すらも、日本在来の飲食物には満足する事が出来ぬ身体になったのかと思ふと、寧ろ淋しい悲愁を感ぜずには居られない。
世界に類例のない『茶の湯』といふヱチケットを作った日本人、魚の腸(ハラワタ)の塩漬を称美する日本人とは、自分は如何に思想上のみではなく肉体の組織からしても異って了つたのであらう。
パンと葡萄酒…(中略)…に云ひ難い神秘が生ずる」(『新帰朝者日記』)
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秋
漱石を早稲田南町の邸に訪問
この頃、漱石の依頼で「朝日新聞」に『冷笑』を連載するため、逗子の別荘で執筆

経緯:
泉鏡花『白鷺』連載のあと、新人作家、志賀直哉を起用する話が進んでいたが、本人が、途中までいったが書けなくなったので破約にしてくれ、と言ってくる。

この時、文芸欄担当の漱石が朝日新聞の窓口である山本笑月に宛てた手紙
「志賀の断り方は道徳上不都合で、小生も全く面喰いましたが、芸術上の立場からいうと至極尤もです。
今迄愛した女が急に厭になったのを強いて愛したふりで交際しろ、と傍からいうのは少々残酷にも思われます」

(志賀のこの時の挫折は、後に志賀の代表作『暗夜行路』として結実する。)

その志賀の後釜に選ばれたのが荷風で、漱石の意向を受けた森田草平が、執筆依頼に牛込余丁町の荷風の家に出向く。
勿論、荷風は漱石からの依頼とあって小説執筆を快諾。
原稿料は1回5円。

「冷笑」の後は、漱石「門」が連載される。

後に佐藤春夫は、
「わが荷風先生は新聞や新聞記者は大嫌いな人である。それが朝日新聞のためには、頼まれて先生の唯一の新聞小説『冷笑』の執筆を承諾したばかりか、後年、一家の感興の赴くがままに書いた「濹東綺譚」を発表するに当っても、頼まれもせぬ朝日新聞を択んだのは、いやな事は一切せぬ先生だけに異数の事である」と回想している。
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初冬
自由劇場創立の頃、小山内薫と共に市川左団次を新富町の家に訪ね、親しくなる。
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12月
『すみだ川』(「新小説」)に掲載、
『冷笑』を「東京朝日新聞」(13日から43年2月28日まで78回)に連載。
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荷風の帰国後の作品、『深川の唄』『曇天』『監獄署の裏』『祝盃』『歓楽』『帰朝者の日記』(のち『新帰朝者日記』)は、いずれも明治末の東京が持つ近代国家(近代都市)としての未成熟、西欧文明模倣、猿真似への徹底的な嫌悪、痛烈な蔑視、揶揄と呪詛である。


帰朝した主人公が神戸埠頭に出迎えた弟をみた瞬間、
「あゝ、人間が血族の関係ほど重苦しく、不快極るものは無い。」(『監獄署の裏』)と云う。

「江戸時代はいかに豊富なる色彩と渾然たる秩序の時代であつたらう。
今日欧洲の最強国よりも遙に優る処があって、又史家の嘆賞する路易(ルイ)十四世の御代の偉大に比するも遜色なき感がある」(「冷笑」)

「外国から帰つて来た其当座一二年の間は猶かの国の習慣が抜けないために、毎日の午後といへば必ず愛読の書をふところにして散歩に出掛けるのを常とした。

然しわが生れたる東京の市街は既に詩をよろこぶ遊民の散歩場ではなくて行く処としてこれ戦乱後新興の時代の修羅場たらざるはない。

其中にも猶わづかにわが曲りし杖を留め、疲れたる歩みを休めさせた処は矢張いにしへの唄に残った隅田川の両岸であった。

(略)既に全く廃滅に帰せんとしてゐる昔の名所の名残ほど自分の情緒に対して一致調和を示すものはない。
自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷むる感激の情とを把ってこゝに何物かを創作せんと企てた。
これが小説すみだ川である。

さればこの小説一篇は隅田川といふ荒廃の風景が作者の視覚を動したる象形的幻想を主として構成せられた写実的外面の芸術であると共に又この一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によって其の抒情詩的本能を外発さすべき象徴を捜(モト)めた理想的内面の芸術とも云ひ得やう。

さればこの小説中に現はされた幾多の叙景は篇中の人物と同じく、否時としては人物より以上に重要なる分子として取扱はれてゐる。

それと共に篇中の人物は実在のモデルによって活ける人間を描写したのではなくて、丁度アンリィ、ド、レニヱエがかの「賢き一青年の休暇」に現したる人物と斉(ヒト)しく、隅田川の風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇り来つた遠い過去の人物の正に消え失せんとする其面影を捉へたに過ぎない。」(大正2年3月『すみだ川』第五版の序文)

「私の考へぢや思想よりも文章ですね、思想は文学者でなくツても知識と経験のある人は誰でも相当の思想を持って居るもんです。
苟(イヤシク)も文学者にならうとするものが思想のない筈はない。
然し思想があつても此れを他人に伝へる発表の方法がなければ思想がないのも同様でせう」(『冷笑』)


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「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
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「原発の囲む列島田水沸く」(塩出眞一)  「朝日俳壇」8月1日より

「朝日俳壇」8月1日より


今日もまた避難の日なり夏落葉           (横浜市)荒川 澄

原発の囲む列島田水沸く               (宝塚市)塩出 眞一

(選者、長谷川櫂の評)
「いつも間にかそうなっていた。「田水沸く」とは夏、田水が湯のようになること。不気味な今の日本」
とある。

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「朝日歌壇」8月1日より


父の遺影抱きしめる子を母が抱く埋葬も出来ぬ二十キロ圏      (鹿沼市)石島 佳子

安全靴脱いで寛ぐ原発の声なき男の貌が見えくる            (新潟市)岩田 桂

浜岡の海に小ガメを放流す子らの未来はだれも知らない        (浜松市)松井 恵

「うつくしま」福島の里はいつ還る育てし野菜捨てつつ思う        (福島市)斉藤 栄子


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今日は、私の友人T.K氏の句を無断で(ゴメンナサイ)ご紹介

「原発の 塵降りた田や 仏桑花」


これに触発されてワタクシも駄作を

「われもまた汚染食物摂りつありあはれなるは牛のみにあらず」

「官員がやらせで築く安全神話」     (これは川柳か)

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2011年8月1日月曜日

「民主主義国家でなければ、いかなる国でも原子力エネルギーを使うべきではないと思います。」(ジャック・アタリ)

「朝日新聞」7月28日の「論壇時評」は高橋源一郎さんが「情報公開と対話」をテーマにいくつかの論考をあげています。
そのうちで、フランスのジャック・アタリの論考がいささか反語的に紹介されていますので、下記にご紹介します。
(適宜改行を施します)

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日本と同様、国策として原発を推進するフランス国家を代表してジャック・アタリは「一〇〇%の透明性ですべてを公表せよ」と発言している(ジャック・アタリ「フクシマ問題は”原子力の危機”にあらず」(Voice 8月号))。

「民主主義国家でなければ、いかなる国でも原子力エネルギーを使うべきではないと思います。
私からみれば、民主主義は原子力エネルギーを使う必須条件です。
原子力エネルギーは透明性を意味するからで、透明性がなければ民主主義国家ではありません」

というアタリのことばが正しいなら、日本は民主主義国家ではなく、原子力エネルギーを使う権利も能力ももたないことになる


(いったん事故を起こすと制御不能な原発は、民主主義の下では不可能、という考え方もあるが)。

だとするなら、日下公人の「『町営原発(株)』設立のすゝめ」((Voice 8月号))も、夢想ではなく、情報公開と透明性を拒み続ける政府や電力会社に、もはや原子力を託することはできないという憤りの発露として読むことができる。

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日本の民主主義への反語でもあるし、原発大国フランスへの反語とも読める。



孫正義の脱原発・自然エネルギー推進論 「そんな見通しのきく産業は、ほかにあまりない。」

ソフトバンク社長孫正義氏は、3・11以降、被災地に私財100億円を寄付し、また、脱原発を表明して、太陽光発電など自然エネルギー推進の先頭に立っている。

さらに、菅首相と何回か懇談したり、自然エネルギーによる発電などを会社の定款に加えたり、35道府県と「自然エネルギー協議会」を、17政令指定都市とも同様の協議会を設立するなど、経営者の中でも特に際立った動きを加速している。

毀誉褒貶も多く、彼を尊敬する人も嫌う人も多いようだ。

「朝日新聞」7月30日に、朝日主筆の若宮啓文と脱原発や自然エネルギーに関する考え方などを話し合っている記事があったので、以下にご紹介する。
(適宜改行を施す)

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(前略)

若宮 これまで原発に関心はなかったそうですね。

孫 まったくゼロでした。ゼロ。そもそも自分の本業以外にはあまり興味がなくて。原発は安全なんだと多くの日本人もそう思っていたと思うけれど、専門家が世のため人のために安全に電力を起こしてくれていると思い込んでいましたからね。

若宮 私は立場上、いささか悩むことはありましたが、こんなことになろうとは思いもせず、やはり大きなショックを受け、反省もしました。

そういえば、子どものころ大人気だった鉄腕アトムのエネルギーは原子力で、妹の名はウラン。日本人の大半はそれを変に思わなかった。

孫 そうそう。僕が小学生のころテレビではやり始めたんです。

若宮 今度の事故は津波対策が間違いだったので、原発そのものは維持すべきだとの主張があります。

孫 普通、人間ってミスを犯すと思うんです。考え違いも時々ある。想定できなかった過ちは仕方ないという部分もあるかもしれないが、一度大きな事故を起こして、それをまた懲りずに繰り返したら、今度はもう想定外という言いわけは絶対に通じないと思うんですよ。

では、文明の利器として飛行機に乗らないのか、自動車に乗らないのか、事故は起きるよ、という人がいますが、それらを使うか使わないかは個人の判断に全部選択権がある。

でも、原発はそこに住んでいる母親たちや子どもたちにとって、ほとんど選択権がないですよね。

若宮 それに、原発事故は一過性の悲劇では終わらないから怖い。

そして膨大な放射性廃棄物もどうするのか。
日本の核燃料サイクルはうまくいかず、答えは出ていません。

孫 最終処理の方法をだれも明確に言えない状況で、それをつくり続け、未来の子どもたちに、あんた方が勝手に解決してくれと。

若宮 フィンランド映画「100000年後の安全」を見ましたが、自国の地下に廃棄物の巨大な墓場をつくっている。しかも、放射性物質が出なくなる10万年後まで未来の人類が地下を掘り返さぬよう安全の担保で真剣に悩んでいる。縄文時代から今日まで1万年というから気の遠くなを話ですが、ああいうのを世界中でつくるのか。

孫 もし日本に埋めたとして、地震で破裂して出てくるなんてこともないとは言えない。

完全な安全の想定というのは難しい。
しかも、起きてしまったら取り返しがつかないかもしれないのだから、少なくとも国のリーダーは責任ある配慮をしなければ。

原発擁護の人たちの声って結局、集約してみると、お金の話ですよね。経済論。それだけでしょう。

若宮 大半はそうですね。

孫 電力はほかの方法だっていくらでもつくれるのに、要はお金の問題で、原発に頼らないと安く電力を安定的に供給できないと。一言でいえば、それだけだと思うんです。

最近はCO2(二酸化炭素)の排出量がそれに付加されていたけど、C02を出さずに発電できる再生可能エネルギーが広がっていくのに合わせて、しばらく頼らざるを得ない火力などを徐々に減らしていけば、非常に危険な原発に対する依存から脱却することは時間の問題でできるのではないか。心底、そう思うんですね。

若宮 朝日新聞の社説特集も同様の提言をしました。ただ、太陽光で原発1基分を発電するのに山手線の内側ほどの面積のパネルが必要だといわれます。これは簡単ではない。

孫 いま35道府県が賛同してくれてますが、土地はある。大規模工業団地として造って9割も遊んでいるような用地、産業廃棄物の埋め立て地、かつての塩田などです。耕作放棄地も全国に40万ヘクタールあり、それだけで山手線内の60倍。それに風力、地熱、バイオ、潮流や波力など、いろんな自然エネルギーを適材適所、ベストミックスでいけばいい。

若宮 太陽光をはじめ自然エネルギーはコストも高いのですが。

孫 エネルギー政策は国策として50年単位くらいで考えないと。化石燃料は今後、高騰していく。

一方、例えば太陽光はハイテク技術だからコストダウンする。おそらく10年くらいで発電コストが逆転し、残り40年は自然エネルギーの方が安い時代が来る。電力の資源の9割を国外に頼る現状では自給率も上げねばならず、答えは一つだけ。

そのときに先駆者として世界への輸出国になるのかどうかが大きな分かれ道です。

原発が安いというのも、実は事故の補償コストを入れる前の話です。

若宮 孫さんは安い中国製パネルの輸入を考えているとか。

孫 勝手に誰かが言うだけです。

若宮 いま日本製パネルは高いけど、大量発注すれば大きくコストダウンできて産業も興せる。東北再生にもつなげられませんか。

孫 その通り。全体のコストでパネルなどの部材が6割で、その7、8割が国産になるでしょう。土木部分を含めた人件費が4割で、ほとんど日本人が働く。すると全体の9割近くは日本人が雇用され、日本の技術が使われる。コストはほとんど日本人の雇用という形で払われる。

若宮 自治体が土地提供などで協力しても、発電事業の収益は9割以上をソフトバンクがとるそうで。

孫 それも誤解がある。大変な設備投資や運営費が必要で、利益が出る保証はまだないし、仮に利益が出ても、すべて再生可能エネルギーに投資します。ソフトバンクの株主に配当したり、本業に流用したりは一切しません。

若宮 なるほど。もっとも、他の企業が参入してくるためには、ビジネスとして成り立たないと。

孫 そもそも電力会社は上場会社で収益を上げる目標でやっている。

今度の再生可能エネルギー特別措置法案も、自然エネルギー産業に企業が参入し、永続し拡大していける法案でないといけない。

買い取り価格や年限もそうならないと、慈善事業家だけが無理して入ってきて産業として広がらない。

我々は呼び水としてリスクを取ってきっかけづくりをやるけど、本業はあくまでも情報革命。早く本業に戻って専念したい。

再生可能エネルギーでもうけるつもりはさらさらないのです。

若宮 自民党の谷垣禎一線裁に会ったら、金融再生委員長だったとき、日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)を買収した孫さんに持続的な経営を約束してもらったのに、売り抜けられたと不信を語ってました。

孫 あのときは3社で一緒に日債銀を救済することになり、一応それができたのですが、こちらがブロードバンド革命のための資金が必要になりへ泣く泣く手放した。売り抜けたのではなく、オファーのあった三井住友フィナンシャルグループにお任せする方が銀行の発展にもよいと判断したのです。

若宮 今度もうまくいかなかったら、さっさと引き揚げちゃうんじゃないかと悪口を言う人もいます。

孫 最初から「きっかけづくりしかしません」と言っているのです。悪口を言う人は、何をしても言うんでしょうが。

若宮 デンマークは70年代の石油危機から風力発電に力を入れてエネルギーの自給を果たし、風力発電の製造輸出で経済を興しました。日本は石油危機で原発に拍車をかけまし。

たが、今回の危機は日本も五十年、百年の計を考えるチャンスですね。

孫 この百年くらい人間の歴史はエネルギーを求めて国家が戦争してきた。次の百年もエネルギーを求める戦争がないとも限らないほど、国家にとって重要な原動力です。

その中で化石燃料の資源が徐々に枯渇していく。原子力にも大きな問題がある。

すると、自然エネルギーを活用した新エネルギーに切り替わっていく。風力とソーラーはこの20~30年、世界で毎年20~30%ほど伸び続け、ますます加速するでしょう。

そんな見通しのきく産業は、ほかにあまりない。
日本が何に成長の活路を求めるか。
なぜ、国を挙げてそこに真っ先に参入しないのでしょう。

国を挙げて原発1基をベトナムに売っていくら売り上げが立つんですか。何社がそれでもうかるんですか。

若宮 だから、孫さんは経団連から嫌がられるんでしょうね。

孫 経団連は、原発を輸出しないと国の経済が成り立たないみたいな話をするけれど、もっと大きなそろばんをはじいてほしい。

日本国民の将来の食の安全とか、土地の安全とか、空気の安全とか、将来もっと大きな産業になる芽を摘んでしまわないように。

若宮 内村鑑三は著書「後世への最大遺物」の中でお金持ちになる才もたたえ、問題はお金を社会のためにどう残すか、どう使うかだと説きました。大いに期待しています。

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過去の利権の安逸をむさぼり続けるのか、新産業創出を目指すのか?
国と企業家の在り方の真髄が試されている、と思う。
孫氏は、これはチャンスだ、と言っている。

孫氏はスマートグリッドをやりたいんでしょう。

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「ウラン換算で広島原爆20個分が拡散している。子供を守れ。国会の完全な怠慢だ。」(衆議院厚労委参考人、児玉龍彦東大教授)

いろいろな人から教えられた7月27日の衆議院厚労委参考人、児玉龍彦東大教授の痛恨の叫び。
多分、ご存知の方も多いはず。
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下記です
http://www.youtube.com/watch?v=DcDs4woeplI&sns=tw
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どうしてこれを、マスコミ、新聞は報道しないのか?
哀しい真実である。
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これを見たあと、ふとこんなのも(↓)も見つけました。
斑目氏(デタラメ氏と読む人もいるらしい)の発言。
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「最終処分地(の決着)は、金でしょ・・・・・」
「原発は儲かるらしい・・・・・」
・・・・・
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http://www.youtube.com/watch?v=j9QPCOLLTeU
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