2011年10月24日月曜日

「生き物は生きねばならぬ物なれば餌を求めて走る豚の子」(鎌ヶ谷市 正治伸子) 「朝日歌壇」10月24日より

東京、北の丸公園、池の畔のススキ(2011-10-24)
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「朝日歌壇」10月24日より


生き物は生きねばならぬ物なれば餌を求めて走る豚の子(*) (鎌ヶ谷市)正治 伸子

フクシマの車で県外走るとき人目はばかる我情けなし     (福島市) 伊藤 緑

海釣りも畑仕事もジョギングもみな奪われて福島にいる    (福島市) 武藤 恒雄

福島から鳥が消えたと友の文ウグイス・カッコウ・カラスにスズメ (名古屋市)諏訪 兼位

ドイツ語で我等ゲンパツやめると言う原発と言う日本語をつかう (福岡市)鬼塚 夏子


(*)選者(永田和宏)の評
「正治さん、原発立入禁止区域の映像である。どんな状況でも餌だけは取らねばならない生き物の本質を豚の子に見る哀れ。」

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延暦10年(791)1月~6月 坂上田村麻呂、桓武の配慮で百済王俊哲と出会う 

京都北白川から市街を望む(2011-09)
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延暦10年(791)
1月18日
・第2次征夷のため、東海道・東山道に閲兵のための使者を派遣。
「正五位上百済王俊哲・従五位下坂上大宿禰田村麻呂を東海道に、従五位下藤原朝臣真鷲を東山道に遺して、軍士を簡閲し、兼ねて戎具を検ぜしむ。蝦夷を征するがためなり。」(『続日本紀』延暦十年正月己卯条)
延暦5年5月の時と同様、征夷に先立って東海道・東山道諸国の軍士を簡閲し、武器・武具を点検させる。

注目すべき点。
①延暦6年閏5月に日向権介に左遷され、同9年3月に許されて日向から帰京した百済王俊哲が派遣されている。
百済王俊哲は、宝亀5年(774)の38年戦争開始以来、鎮守副将軍・鎮守将軍などを歴任し、左遷中に行われた延暦8年の征夷以外の全ての征夷に参加している。
征夷に関する実戦経験の豊富さでは、当代随一の人物。

②後に征夷大将軍として活躍する坂上田村麻呂(34歳)が、初めて東北政策に関わり、百済王俊哲と共に東海道に派遣されている。
田村麻呂は、実戦経験の豊富な百済王俊哲から、征夷に関わる戦術や、蝦夷や彼らの住む東北について多くを学ぶ。
2人は半年後に征東副使に任命され、延暦13年の征夷で行動を共にする。
田村麻呂と征夷との関わりが、桓武の配慮で百済王俊哲との出会いから始まる。
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3月
・国忌の対象が天智以降の歴代天皇(大友皇子〈弘文〉と大炊王〈淳仁〉は除く)ら16名になり、この月、太政官が国忌の整理を奏上。

「謹んで『礼記』を案ずるに曰く「天子七廟、三昭・三穆(さんぼく)と太祖の廟とともに七なり」と。また曰く「故きを舎(す)てて新しきを諱(い)む」と。注に曰く「親冬の祖を舎てて、新死の者を諱む」と。今国忌稍(やや)多く、親世もまた尽く。一日万機、行事多く滞る。請うらくは、親冬の忌、一に省除に従わん。」
宗廟(「おたまや」)で祀る対象を示す中国の古典『礼記』を参照している(一族(宗族)の初代とされる者を恒久的に残し、祀る本人の父系直系の先祖のうち近い方から、父・祖父・曾祖父と6人まで祀る方式)。

この時に残された国忌は、天智、施基とその妻(光仁の母)紀橡姫、聖武、光仁とその妻(桓武の母)高野新笠、現天皇たる桓武の妻藤原乙牟漏であろうと推測されている。
但し、聖武の国忌は、平城天皇の大同2年(807)には除かれる。
これにより、王朝の始祖は天智とされたことが確認される。

「国忌」は、過去の特定の天皇・皇后の命日のことで、この日は国家的な忌日(きじつ)とされ、政務を休み、追善の行事を行うことが、儀制令に規定されていた。

国忌の初見は『日本書紀』持統天皇元年(687)9月9日条の天武天皇一周忌だが、『続日本紀』大宝2年(702)12月2日条によれば、天武ばかりでなく、12月3日の天智の命日も国忌とされている。
山陵の取り扱いや不改常典(ふかいのじようてん)に関して同じく、天武系の皇統は、天智をその初代と認識していた。
天武系の皇統のもとで編纂された『日本書紀』には、天智がいったん大海人皇子(後の天武)に譲位しようとしたという挿話を載せている(天智10年〈671〉10月17日条)。これを載せることで、大海人皇子には天皇として即位する資格が備わっていると天智が認定していた、という論理を組み立てようとした。
天智が初代、その正統な後継者としての天武が二代目、というのが奈良時代の公認歴史観であった。

その後、国忌とされた命日は、次第に増えてゆく。

慶雲4年(707)4月には、天皇になっていない草壁皇子の命日、天平宝字4年(760)12月には、文武夫人で聖武の母の藤原宮子(みやこ)と、聖武皇后の藤原光明子の命日、宝亀2年(771)5月には光仁の父の施基(しき)親王の命日、同年12月には、施基親王の妻で光仁の母に当たる紀橡姫(きのとちひめ)の命日が、それぞれ国忌に入れられる(以上『続日本紀』)。

この外、延暦8年(789)12月に死去した高野新笠(光仁の妻で桓武の母)、延暦9年(790)閏3月に死去した桓武皇后の藤原乙牟漏(平城・嵯峨の母)の命日も、国忌に入れられる。
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3月17日
・右大臣以下、五位以上の貴族を対象に甲(革甲)を造らせ、五位の富裕者には特にその数を増して、20領を造らせると定める。
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6月10日
・諸国に対し、鉄甲3千領を新様式で修理することを命じる。
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2011年10月23日日曜日

永禄9年(1566)4月1日~8月31日 三好三人衆に担がれた足利義栄が摂津上陸 義昭は若狭武田氏を頼る [信長33歳]

東京、江戸城東御苑本丸跡付近(2011-10)
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永禄9年(1566)
4月
・本多平八郎忠勝、騎士52騎を付けられ3万6千石の旗本・青年騎馬隊隊長となる。
岡崎城黒御門内・平馬屋敷に侍屋敷を拝領。母と乙女が転入、結婚。
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上旬
・信長、美濃国各務野へ侵入。
斎藤龍興も井口を出て新加納に布陣。地勢が悪く軍の進退が難しいため信長は交戦断念、その日のうちに帰陣。
この年は木曽川を越えて一進一退が続く。(「信長公記」)
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・ヴイレラ、トルレスの命により豊後に戻る。
日本人修道士ロレンソも一時九州に下り、アルメイダに従い五島へ伝道行脚。
フロイスのみが堺で京畿の信者達の面倒を見る。
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4月2日
・ブリュッセル、オラニエ公ウィレム1世(33)やエグモント伯(44)を中心とする同盟貴族400人、宮廷に押しかけ執政パルマ公妃マルガレータ(44)に請願書提出。
フェリペへの忠誠を誓いながらも、宗教裁判廃止と全国議会開催を求める。
翌日、「乞食」貴族たちの勢いに恐れをなしたマルガレータは、請願書のフェリペへの取り次ぎを約束、その場を取り繕う。
マルガレータのあいまいな対処に、カルヴァン派信徒達は事実上迫害停止と考え、公然と集会を開く。
亡命貴族も次々に帰国、カルヴァン派組織は急激に進展。
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4月3日
・今川氏真、富士大宮の市を楽市とする。  
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4月3日
・信玄、白井城を攻める
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4月10日
・三好三人衆2万、大和侵攻。筒井順慶も合流。
翌日、奈良付近の五本松まで迫る。
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4月11日
・信長、朝廷に物を献上。
「尾張から御うま、御たち、三千疋」(「御湯殿上日記」)。
21日、足利義秋(後の義昭)に物を献上。
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4月12日
・北條氏政、蔭山新四郎に下総臼井城での籠城を賞する
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4月18日
・足利義秋(後の義昭)、細川藤孝・和田惟政に宛てて、信長の参洛承知を喜び、信長誓紙を調へ帰るのを待つと書簡。
実際には、信長は未だ逡巡。
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4月21日
・足利義秋(後の義昭)、「従五位下」・「左馬頭」に叙任。
「吉田兼右が伝奏を通さずに隠密に取りはからう」(関白近衛前久・万里小路惟房が協力)、元服前でもあり納得できないと述べる(「言継卿記」)。
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4月21日
・松永久秀、和議にて美野庄城を筒井氏に明け渡す。 
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4月22日
・三好長逸、京都余部図子中へ買得地を安堵(「余部文書」)。
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4月26日
・三好三人衆、大安寺の陣を払い、筒井城攻略へ向かう。
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5月
・毛利軍、富田城内七曲口で交戦。
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5月13日
・フィレンツェ、コジモ大公の愛人エレオノーラ、男児出産。
この頃、コジモの関心は新しい愛人カーミラ・デ・マルテッリに移る。
エレオノーラ(18)はコジモ末子ピエロ(12)と不倫関係に。  
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5月9日
・足利義秋(後の義昭)、相国寺万松軒で足利義晴17回忌法会。
19日、相国寺光源院で義輝1周忌法要。
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5月19日
・上杉輝虎(謙信)、武田信玄を討伐し北条氏政と和睦した後に上洛し三好氏・松永氏を滅ぼし、京都と鎌倉の公方を復興することを祈願
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5月15日
・大友宗麟、島井宗叱に博多織20端、織立を依頼。
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5月19日
・松永久秀5千、多聞山城脱出、摂津欠郡野へ移動。
24日、松永久秀(軍勢6千となる)、三好義継らを高屋城に攻める。
敗れ、29日、堺へ退く。
30日、三好義継ら三好三人衆1万5千、堺に松永久秀を攻める。久秀、逃走。
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6月
・神保長職、永禄5年に家臣水越勝重が寄進した本覚寺の寺領を安堵。
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・ブリュッセル、スパの協議。ル・クレルク、ルードヴィヒ、ド・ハメス、マルニクス兄弟。
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6月1日
・松永久秀・三好勢、堺外での決戦約定。
堺会合衆の要請。久秀、軍を解散し逃亡。
この日、大安寺南大門前で郡山衆(筒井方)と多聞山衆による合戦。両軍数名の戦死者が出る。
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6月5日
・パミエ(ピレネー地方)のユグノー、修道院を襲い修道士・神父を殺害。
カトリーヌ、ラングドック総督アンリ・ド・モンモランシー(ダンヴィル伯、モンモランシー大元帥次男)にユグノーに対する報復を指示。
1年後、牧師タシャール(虐殺の扇動者)及び24名を処刑。
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6月8日
・筒井順慶、大和・筒井城を奪還。
後、順慶は攻撃に転じて久秀の諸城を落としていく。
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6月11日
・阿波勝瑞城篠原長房、将軍跡目として義秋の従兄弟足利義栄を淡路筑紫に移し、1万5千余で兵庫上陸。
義栄が富田に前進した時、フロイスはバテレンに好意を持つ篠原長房に義栄への謁見取成しを求めるが実現せず。
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6月11日
・足利義秋(後の義昭)、和田惟政へ、尾張にいる細川藤孝からの報告を伝達。
藤孝は信長の要請を受けて早急に和田惟政を尾張へ派遣するよう要請あり、改めて和田惟政へ尾張下向を命令。
また、信長に義秋参洛のため馳走するよう通達すること、信長の出勢を急ぎ実現させることなど通達・命令。
尚、信長が尾張守任官にこだわるなら、自分は許すつもりであると伝える(「和田家文書」)。
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6月17日
・仏、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、遺言状を作成。
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6月19日
・スコットランド、女王メアリー・スチュワート、エディンバラ城にて王子(後、スコットランド王ジェームズ6世・イングランド王ジェイムズ1世)出産。
3日後にグリニッジ宮殿にいたエリザベス1世のもとに知らせ。
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7月
・足利義秋(後の義昭)、畠山義綱(能登国七尾城主)へ出陣命令(「本多文書」)。
11日、十市遠勝(大和国人)へも出陣命令。
来月22日、信長が出陣し義秋動座に供奉すると通達(「多聞院日記」)。
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・アントウェルペン、ガン、トゥルネー、ヴァランシェンヌ、カルヴァン派の野外説教開始。
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7月2日
・仏、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス、62)、サロン(プロヴァンス)で没(1503~1566)。現金だけで3,444エキュの大金。
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7月5日
・木下藤吉郎、墨俣に城を築き始める。信頼できる史料にはない。
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7月13日
・三好三人衆、摂津淀城を攻略。
14日、摂津より入洛、庶政を裁決(「言継卿記」)。  
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7月13日
・松永久秀方小泉城(京都郊外西院、元三好長慶被官小泉氏)、三好三人衆に攻められ陥落。
「今暁西院の小泉、城を渡し大津へ落ち行くと云々。二百計りこれ有り」(「言継卿記」7月13日条)。
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7月13日
・細川昭元、松室重清に神領を惣安堵(「松尾月読神社文書」)。
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7月17日
・「多門院日記」に、8月、信長(33)は足利義昭を奉じて上洛予定と伝えられる。
この頃、上総介から尾張守を自称。
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8月
・上杉謙信、関東出陣、離反した金山城(群馬県太田市)の由良成繁を攻める。
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8月2日
・津田宗達、没。
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8月3日
・三好勢3千、足利義秋が身を寄せる矢島攻めのため近江坂本に迫る(義秋を匿う六角氏に内応者あり)。
義秋は甲賀和田惟政の館から野州郡矢島少林寺に移動していた。
義秋、信長・島津・相良(肥後)・大友(豊後)・毛利(安芸)に御内書送る。
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8月5日
・オスマン朝軍、ハンガリー、シゲト・ヴァール包囲。
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8月9日
・三好三人衆1千余、片岡まで出陣。
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8月10日
・ベルギー、アントウェルペンの暴動(フランドルの反乱)、 各地(ヘントやフランドル各地)に14週間に渡り飛び火。
カルヴァン派による「聖像破壊運動」。カトリック教会の破壊や略奪。カトリック僧侶は教会から追い出され,礼拝も中止される。      
エグモント伯爵が、新教徒指導者オラニエ伯爵、その弟ヴィレム・フォン・ナッサウと手を組む。
ネーデルランド北部7州によるブレダ協約。
フェリペ2世、アルバ公をネーデルランデンに派遣。
スペイン軍、フランス領内近くを通過、フランス新教徒は危機感を高める。
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8月23日
・ブリュッセル政府マルゲリータの譲歩。「盟約」解体。中央派ウィレム、ホールネ、エフモント。  
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8月23日
・足利義栄、摂津越水城入城。
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8月24日
・三好長逸(三人衆)、松永久秀の京都居宅を没収(「言継卿記」)。
禁裏六町における検封事件。
この時、広橋家雑掌速水武益と松永久秀内者楠正虎が松永党であるとの理由で、持ち家5間を三好長逸が検封(住屋の検封)。町衆は抵抗せず(「言継卿記」8月24日条)。
40年前の大永7(1527)年、堺公方府の住宅破却に対し町衆は果敢に抵抗。
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8月25日
・北條氏照、正木時忠に宇都宮・由良・成田諸氏の帰属を伝える。
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8月25日
・北条氏政、細川藤孝へ、足利義秋(後の義昭)が提示した上杉輝虎(謙信)・武田信玄・北条氏政の同盟督促に関して、武田信玄に下知することが先決であると通知。
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8月29日
・足利義秋、近江六角氏・矢島同名衆の謀叛が顕然としたため、夜陰にまぎれて、近江矢島を発ち、細川藤孝・一色藤長・三淵藤英ら10騎ばかり従え、琵琶湖を渡り若狭守護武田義統(義秋の妹婿)を頼る。
父子が不仲のため、9月8日、越前(敦賀金ヶ崎)朝倉義景を頼る。
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8月29日
・信長、大軍率い美濃攻め、木曽川河野島(羽島郡)上陸。
30日、織田信長・斎藤龍興、両軍対峙。      
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8月29日
・京都御霊通で大火。知恩寺などが炎上。(「言継卿記」)    
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昭和16年(1941)10月21日 「男は勲章まがひの徽章其他を胸につけ、女は模造の蜀紅錦ならでは帯にせず。是軍人執政の世の風俗なり。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

昭和16年(1941)10月19日
十月十九日。青空隈なく晴渡りて風もなし。

晝飯食ひし皿小鉢も洗はずその儘にして家を出づ。足の向くまゝまたもや小石川の故里を歩む。牛天神より傳通院の境内に少憩し電車にて同心町竹早町の通を大塚仲町に至る。

法華寺善心寺に栗本鋤雲の墓あることを思出し寺の門を入る。
この寺の僧盆栽を好むとおぼしく数年前来りし時には本堂の前に植木棚をつくり皐月躑躅花の鉢を数知れず並べたるを見しが、この度は菊の鉢を置きつらねたり。既に花の咲きたるもあり。庫裏入口のほとりに見事なるドウダンの圓く刈り込みたるが美しく霜に染みたり。黄楊の古木を刈り込みて屋根の形になしたるもあり。其後に盆栽多く並べたるさま植木屋の庭を見るが如し。住職の風流思ふべきなり。寺男に樒線香を運ばせ本堂の後なる鋤雲の墓を拝す。勒する所の文字左の如し。

 (略)

善心寺墓地のはづれは険しき崖にて大塚坂下町の陋巷を隔て護国寺の丘陵を望む。老樹茂(お)ひしげりて甚幽寂なり。

寺を出で仲町の四辻に佇立みて電車を待つ。音羽目白台の眺望あり。

淺草に至りオペラ館楽屋に休憩す。踊子等と共に汁粉屋つくしに至りて汁粉を食す。いつも汁粉は品切なれどこの日珍らしく注文に応じたり。
去年冬頃より市中到處汁粉羊羹の如き甘き物なくなり。たまたま之を味ひ得る時は人々歓喜してその幸運を祝するなり。
燈刻芝ロの金兵衛に夕飯を喫す。偶然歌川氏に遇ふ。
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10月20日
 十月二十日。晴。

晝頃隣のかみさん來り隣組にて昨日合議の末先生のところは女中も誰も居ない家政今度の防空演習には義務も何もないものとして除外致しました。
ヘルマンさんのところは女中だけで御主人は外国人故これも先生と同じく防火團には入れない事に致しましたと言ふ。
何分よろしくと荅へ過日人より貰ひたる栗を箱のまゝ贈りたり。
明後二十二日より世の中暗闇になる由。
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10月21日
十月廿一日。今日も晴渡りてよき日なり。庭の野菊石蕗花と共に吹き出で蟲の聲晝の中より静なり。

正午銀座に徃きて食料品を買ふ。明日より三四日の間外出し難き形勢なればなり。
正午の頃の銀座通は男女店員の休憩時間とおぼしく事務服のまゝ散歩するもの多く、飲食店はいづこも店員にて雑沓せり。

亀屋相模屋など食料品賣る店には山の手の奥様令嬢らしき女の出入頻繁なり。其服装を見るに帯は皆金欄に金銀の縫箔をなしたり。赤地に金銀の孔雀の尾を縫ひ取りになし衣服は一面に赤き蔦の葉を染めたるが如きを平気で着てゐるもあり。されど通行の人さして珍しとも滑稽とも思はぬと見え振返り見るものも無し。
数年前カフェーの女給の華美姿(はですがた)に比すれば更に一層毒々しくきらびやかになりたり。
淺草興行場の女藝人の舞台衣裳といヘども尚三舎を避くべきもの遂に良家の婦人が外出の衣服とはなれるなり。
金銀にてぴかぴかひかるものを好むこと現代の日本人ほど甚しきはなかるぺし。


男は勲章まがひの徽章其他を胸につけ、女は模造の蜀紅錦ならでは帯にせず。是軍人執政の世の風俗なり。
外形既に斯くの如し。其性情趣味に至つては推して知るべきのみ。
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10月22日
十月廿二日。今日は世間騒しく夜は暗闇になると思ひの外日の丸の旗あちこちに飜り夜も暗くはならぬ由。どこやらに御嫁入の御祝事あるが故なりとぞ。

正午士州橋に行き歸途日本橋に出で八木長にて鰹節を買ふ。
鰹節も近き中に米同様切符制になるべき噂盛なれば萬一の事に備へむとするなり。
余は今日まで鰹節の事など念頭に置きしこともなく洋風の肉汁あらば事足れりとなせしが、今年春頃より食料品何に限らず不足品切となり、こゝに始めて昔の人の饑饉の用意に米と鰹節と梅干あらば命はつなぎ得ぺしと言ひたることの真實らしきを知りたるなり。
暖き粥に鰹節醤油梅干を副食物となせば一時の空腹をいやし得べし。
陶靖節の集をよみて眠る。
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*善心寺はこの辺りにあったようだ

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延暦9年(790) 桓武天皇、第2次征夷の実施を表明 相次ぐ身内の不幸(生母と后妃3人を相次いで没す) 坂東の疲弊

江戸城二の丸池(2011-09)
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延暦9年(790)
2月
・延暦8年の征夷で征東副使であった入間広成、従五位下に叙される。
3月には常陸介に任じられる。
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3月
・延暦8年の征夷で征東副使であった多治比浜成、陸奥按察使兼陸奥守に任じられる(延暦九年三月丙午条)。浜成は延暦8年の征夷では1人だけ戦功を賞されていた。
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閏3月4日
・桓武天皇、第2次征夷の実施を表明。

「勅して、蝦夷を征するために、諸国に仰せ下して、革の甲二千領を造らしむ。東海道は駿河以東、東山道は信濃以東、国別に数あり。三箇年を限りて、並びに造り訖らしむ。」(『続日本紀』延暦九年閏三月庚午条)。
蝦夷を征するために、駿河以東の東海道諸国と、信濃以東の東山道諸国に命じて、革の甲(よろい)2千領を3年間で造らせるという勅。当時は年数を足かけで数えるので、「三箇年を限りて」は、納品期限は延暦11年となる。

従って、桓武朝第2次征討は延暦11年か12年に行われる予定であり、この勅はそれを表明したもの。

既に、宝亀11年(780)8月、諸国で製作する年料の甲冑を鉄製から革製に変更することが指示されている。理由は、革製の甲は鉄製の甲に比べて丈夫で錆びず、身に付ければ軽く、矢に当たっても貫通し難いことである(『続日本紀』)。これを征夷でも積極的に使用すべく、東国にその製造を命じる。
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閏3月10日
・桓武の皇后の藤原乙牟漏(31)、没。
乙牟漏は百川の兄・良継の娘で、皇太子安殿親王(後の平城天皇)、神野(かみの)親王(後の嵯峨天皇)の母。
母を失って3ヶ月後のこと。

相次ぐ身内の不幸に、桓武天皇は恐れを懐き始めたらしく、閏3月16日、「国の哀(かなしみ)相尋(つ)ぎて、災変未だ息(や)まず」との理由で天下に大赦を行う(『続日本紀』)。

旅子・乙牟漏の死去は、種継の暗殺と相まって、藤原式家の没落をもたらし、代わって藤原氏本来の嫡流である南家が継縄(つぐただ、豊成の子)を代表として勢力を伸ばす。
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閏3月29日
・桓武天皇は、蝦夷を征するため、相模以東の東海道諸国と、上野以東の乗山道諸国に、軍粮の糒14万斛を準備することを命じる。
翌年11月3日にも坂東諸国に対して軍粮の糒12万余斛の準備を指示する。

これを合計すると、坂東諸国は26万余斛の糒を作って陸奥国に運ぶことになる。前回の征夷で東海・東山・北陸道諸国に用意させた糒が2万3千余斛であるから、桁違いの量である。
第1次征討において、軍粮の補給が大きな問題であったことを踏まえた措置であろう。
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7月21日
・乙牟漏と同じく皇太子時代から桓武に連れ添っていた坂上又子、没。
又子は坂上苅田麻呂の娘、田村麻呂の姉か妹。年齢不明(田村麻呂は33歳なので、30歳代であろう。)
桓武天皇は、2年間に生母と后妃3人を相次いで失う。

この頃、延暦9年秋~冬、長岡京と畿内を中心に天然痘(裳瘡もがき)・豌豆瘡(えんどうそう)が流行し、特に30歳以下の若年層が発病し死者も多いという(『続日本紀』延暦九年是年条)。
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9月3日
・皇太子安殿親王が病気になり、桓武天皇は長岡京内の七つの寺に読経を命じる(『続日本紀』)。
病気は「風病」といわれる精神的な病で、翌年10月、翌々年6月にも病気が悪化している。
平城天皇となったあと、退位する原因も風病である。

桓武は、一連の不幸の原因が早良親王の崇りである可能性を考えたようで、この年、淡路にある早良親王の墓に墓守1戸を置き、付近の郡司に管理を担当するよう命じる(『類聚国史』巻25延暦11年6月庚子条)。
但し、この時点では早良親王の崇りは可能性の域に留まっており、正式には認定されていない。従って、長岡京造営は続行されている。
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10月19日
・延暦8年の征夷に伴う論功行賞(最大規模の論功行賞) 
有功者4,840余人に対して、天応元年(781)の例に従って、功績の軽重に応じて勲位を授け位階を進めるという、これまでで最大規模の叙位・叙勲(『続日本紀』延暦九年十月辛亥条)。
桓武は、前年9月19日の勅で、「少しでも功績のある者には、その軽重に随って評価」すると述べている。
将官は処罰されているので、叙位・叙勲に預かったのは主に軍士であったとみられる。
*
10月21日
・征夷の負担が坂東諸国に偏っていること、富裕者の徴兵忌避が続いていることから、左右京・五畿内・七道諸国の国司に命じて、甲を造る財力を持っている者を今年中に調査・報告させるという太政官奏が出される。

(坂東の疲弊)
「坂東の国、久しく戎場(じゆうじよう、戦場のこと)に疲れ、強壮の者は筋力を以て軍に供し、貧弱の者は転餉(てんこう、兵粮の運搬のこと)を以て役に赴く」
「富饒の輩は頗るこの苦(戦場の苦しみ)を免れて、前後の戦に未だその労を見ず」(『続日本紀』延暦九年十月癸丑条)。

「不論土浪人」政策の初見
諸税(軍事費)を負担させるのに、その対象が居住地の戸籍に登録されている者(土人)であるか、どこかからの流れ者で戸籍には登録されておらず、「浮浪人帳」などといった特別な帳簿に登載されている人々(浪人)であるかを区別しない、という政策。

同様命令は、翌延暦10年3月17日にも出される。
これらの「甲」は革甲であり、革甲の製造を、東国の民衆だけでなく、都の貴族や、「不論土浪人」を含む全国の富裕者に均等に負担させようという政策である。
*
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2011年10月22日土曜日

「【原発が「潜在的核抑止力」とは】 前例なき民主主義無視の論」(大江健三郎)

大江健三郎さんの「朝日新聞」連載コラム、「定義集」が初めて原発問題のみをテーマにした。
10月19日付けの「朝日新聞」

大江さんもさすがに、原発=核抑止論には「ドキリ」としたという。

一つは、先に私も扱った御歳85歳の読売新聞主筆の主張
(「主筆は85歳になっているはずだが、いまだに中二病だ」小田嶋隆をご参照下さい)
(新聞社内で「トノ、御ランシンを」と言う人は一人もいないのだろうか?とふと思う)

もう一つは、大江さんは「おなじみの伏し目の憂い顔で威嚇する政治家」と言われるが、
私はちょっと下品に「娘さんが無事東京電力に入社された政治家」と言う、自民党の政治家

彼らが、期せずしてかどうか、ほぼ同じタイミングで「原発=核抑止力」を展開した。

小田嶋さんは、
****************以下引用

「君らは色々言うけどさ、原発を持ってるとそれだけで周辺国を黙らせることができるんだぜ」
という、このどうにも中二病なマッチョ志向は、外務官僚や防衛省関係者が、内心で思ってはいても決して口外しない種類の、懐中の剣の如き思想だった。

が、一方において、中二病は、彼らの「切り札」でもあったわけだ。

なんという子供っぽさだろう。」
****************
という。

確かに、

《・・・一九六九年に外務省の外交政策企画委員会が作成した『わが国の外交政策大綱』が

「核兵器については、NPT(核不拡散条約)に参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器の製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」

との考え方を示している・・・》

ということがあったらしい。

さて、大江さんはというと、

まず、抑止力という考え方は

「こちらの攻撃能力で威嚇して、相手の攻撃を思いとどまらせることです。

事の性格上、すぐにも態勢は逆転して、危険きわまりない巨大なイタチごっこが続きます。」

と、抑止力という考え方そのものを否定した上で、

「この致命的な両刃の剣を手にすることについて、いつ国民の合意を見たのでしょうか?」

と「原発=核抑止力」論の民主主義的思想、手続きの欠落を批判している。

*
*

以下に、原文を抜粋して引用する。

******************************
定義集 大江健三郎

(見出し)
【原発が「潜在的核抑止力」とは】  前例なき民主主義無視の論


(記事)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(前略)
 《日本は・・・核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ》読売新聞、社説9・7

《原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという「核の潜在的抑止力」になっている・・・原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになる・・・》石破茂・自民党政調会長(当時)、『サピオ』10・5

私は両者ともの「潜在的な核抑止力」「核の潜在的抑止力」という用語法に(それがいかにもフツウの言い方のように使われているのに)ドキリとしたのです。

核抑止という思想は、冷戦時に始まり、その終結の後も、厄介な超大規模の遺産のかたちで残る核兵器を積み上げています。
この十年、欧米で、当の政策推進者だった大物らの転向宣言が続きましたが、実体は変わりません。

抑止、deterrenceは、こちらの攻撃能力で威嚇して、相手の攻撃を思いとどまらせることです。
事の性格上、すぐにも態勢は逆転して、危険きわまりない巨大なイタチごっこが続きます。

「核の潜在的抑止力」というのが、この国の原発でいつでも原爆が作れると誇示することなら、原発への国籍不明のテロリストによる攻撃への防衛が緊急の課題となるなかで、東アジアの緊張はその方向へも高まっているのか。
さきの論客たちが、その効力を信じる「潜在的」な力を、いつ・どのように「顕在化」させる戦略を考えているかは不明ですが。

今度の大事故によって、原発の建設時にさかのぼり、今日の東電・政府の情報開示の仕方にまで、いかに民主主義の精神が欠落しているかを、私らは思い知りました。
しかしこの抑止論ほど徹底した民主主義の無視は、例がなかったのじゃないでしょうか?

あまりにも正直に、原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになると、おなじみの伏し目の憂い顔で威嚇する政治家は、この致命的な両刃の剣を手にすることについて、いつ国民の合意を見たのでしょうか?

・・・・ ウェブサイト「核情報」の田窪雅文氏による「原子力発電と兵器転用」から。石橋克彦編『原発を終わらせる』(岩波新書)

《・・・再処理工場の製品プルトニウムはそのまま核兵器に使える。》

・・・・・略

 《・・・。例えば、一九六九年に外務省の外交政策企画委員会が作成した『わが国の外交政策大綱』が「核兵器については、NPT(核不拡散条約)に参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器の製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」との考え方を示していることなどが注目されてしまう。・・・》
・・・・・・・略
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福島県議会が、福島第1、2の全原子炉の廃炉を求める請願採択


福島県議会が、福島第1、第2の全原子炉の廃炉を求める請願を採択したそうだ。

10月21日付け「朝日新聞」の記事を引用させて戴く。

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■福島県議会 廃炉求める請願採択

福島県議会は20日、定例の本会議で、東京電力福島第一、第二原発の原子炉計10基すべての廃炉を求める請願を採択した。

議会多数派の自民のほか、民主と社民からなる会派は脱原発の立場を打ち出していたが、約1ヶ後に迫った県議選を前に廃炉の立場を明確にすべきだと判断した。
これを受け、佐藤雄平知事は廃炉への判断を迫られる。

請願は、共産党系の団体「新日本婦人の会福島県本部」が6月に提出。
当初は「県内には様々な意見があり、さらに議論を続ける必要がある」などとして、自民などは継続審査とする方針だった。
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色んな事情は河北新報のニュースに詳しい(コチラ)。

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脱原発はポピュリズムと批判する輩(コチラ)がいるが、確かにポピュリズムで脱原発を主張する人たちもいるような気がする

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HOTSPOT in YOKOHAMA (ホットスポット イン ヨコハマ) ストロンチウム検出

10月18日、文部科学省が放射線量分布マップ拡大サイトを開設した。(コチラ)
今までぽつりぽつりと順次公開していたものを一括したものと思うが、マクロという点では意味有るのではないか。
また、昨日だったかの報道では、文科省は、全国調査も行うということだ。

しかし、ミクロのレベルでは、いわゆるホットスポットが、マクロのマップでは捕捉できないくらいポコポコと点在しているようだ。
いわばモグラタタキのように。

今日(10月22日)の新聞では、私の自宅から徒歩圏内の小中学校で「目安」を超える放射線量が測定されたという。
以下、10月22日付け「朝日新聞」

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(見出し)
戸塚区の小中学校で目安超える放射線量
屋上側溝・雨どい下など

(記事)
横浜市は21日、いずれも戸塚区の市立舞岡中、市立秋葉中、市立柏尾小の3校で、市の再測定の目安(毎時0.59マイクロシーベルト)を超える0.83~0.75の放射線量を測定したと発表した。
目安を超えたのは屋上の側溝や雨どいの下で、堆積物を撤去した後は数値が下がった。
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一番汚染度の高い(放射性物質の累積度が高い)と思われる屋上側溝・雨どいの下という場所で、除染の対象とすべき1ミリシーベルトに近いとは言え、それ以下ではあるし、「直ちに健康に被害はない」レベルだとは思うが、もし半減期の長いセシウムであったら、除去した堆積物の処理など、どうしたんだろう?と心配する。

同じような記事を見てみると、

同じく
10月22日付け「朝日新聞」では・・・

①「柏の空き地 57.5マイクロシーベルト」

②「乾燥シイタケで基準超セシウム 相模原」


10月20日付け「朝日新聞」では・・・・

①「(横浜市)金沢区の小学校側溝 目安超える放射線量」
(横浜市立能見台小学校で0.69マイクロシーベルト)

②「東京・東村山で2.1マイクロシーベルト 小学校の敷地」

③「狭山茶の銘柄9%が基準超」



10月18日付け「朝日新聞」では・・・

①「足立3.9マイクロシーベルト 小学校の雨どい」



10月15日付け「朝日新聞」では・・・

①「伊東のシイタケ 基準超セシウム」

②「茨城4市でも検出」

③「干し柿加工自粛要請 福島の1市2町」



10月14日付け「朝日新聞」では・・・

①「船橋の「高線量」公園 市測定の最高値 1.55マイクロシーベルト」

②「給食シイタケからセシウム 国基準以下 (横浜)市、使用せず」

③「(横浜市)緑区の小学校で0.92マイクロシーベルト」


しかし、圧巻は横浜市でストロンチウム検出の報道だろう。

10月15日付け「朝日新聞」によると・・・

(見出し)
「側溝にストロンチウム
横浜市発表 129ベクレル 噴水でも検出」
とあり、

記事の概略は、
港北区の道路側溝で1キロあたり129ベクレルのストロンチウム、セシウム3万9,012ベクレルを検出。

新横浜の停止中の噴水の底からストロンチウム59ベクレル、セシウム3万1,570ベクレルを検出。

区内の住民がマンション屋上を自主検査したところストロンチウム195ベクレルが検出されたと通報したことが発端と言う。
「だが、最初に市に報告した住民によると、屋上の物は236ベクレルのストロンチウムが検出された、との説明を市から受けたという。」ともある。

横浜市港北区は福島原発からは250km離れたところにあるが、同新聞の「解説」によると

「20キロ圏内と同程度の汚染」

とのこと。


マクロの分布図では安心できないモグラタタキ状況だ。

政府・文部科学省のスタンスは、ホットスポットの通報があればサポートしますよ、というもの。

・・・で良いのか?

*
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延暦8年(789)8月~12月 延暦8年の征夷戦 征東将軍らの敗戦責任を喚問するが寛大な処分となる

鎌倉・常楽寺境内の柿木(2011-11-15)
*
延暦8年(789)
8月30日
・陸奥国の軍士に対して、今年の田租と2年分の課役を免除すること、黒川以北十郡の軍士については「賊と居を接する」との理由でさらに課役免除の年数を延長することが定められる。  
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9月8日
・持節征東大将軍の紀古佐美が陸奥から帰京、天皇に節刀を返却(『続日本紀』)。
場所は、2月に大極殿院の東方に完成した「東宮」(現在遺跡として知られる長岡宮内裏)。
*
9月19日
・桓武天皇は、太政官の筆頭である大納言藤原継縄、中納言藤原小黒麻呂・紀船守(きのふなもり)らに勅して、太政官曹司において、征東将軍らが逗留して敗戦したことについて勘問(取り調べ)を行わせる。
継縄と小黒麻呂は、宝亀11年に征夷大使を経験している。
召喚されたのは、大将軍紀古佐美、副将軍入間広成、鎮守副将軍池田真枚・安倍猿嶋墨縄の4人。
(副使であった多治比浜成・紀真人は、勘問の対象外)
4人はそれぞれ理由を述べて弁明するが、いずれも自らの非を認め、天皇の勅によって処分が下される(『続日本紀』延暦八年九月戊午条)。

処分内容
・陸奥国の蝦夷を征討するために任じた大将軍紀古佐美は、委ねられた本来の計画に従わず、奥地まで攻め入ることをせず、軍を敗走させて軍粮のみを費やして帰ってきた。
これは法に従って厳しく糾問し処罰すべきであるが、以前から朕に仕えていることを思い、罪を問わずに許す。

・鎮守副将軍の池田真枚と安倍猿嶋墨縄らは、頑愚で臆病で拙く、軍の進退に節度がなく、戦いの時期をも怠り失ってしまった。
これを法に照らし合わせると、墨縄は斬刑に当たり、真枚は官職を解いて位階を奪うべきである。
しかし墨縄は長らく辺境守備に奉仕してきた功労があるので、斬刑を許して官職と位階だけを奪うことにする。
真枚は日上の湊(北上川渡河の港か)で溺れていた軍士を助け救った功労により、位階を奪う罪を許し、官職のみを解くこととする。
その他、少しでも功績のある者には、その軽重に随って評価し、小さな罪を犯した者は、その罪を問わずに許すこととする。

処罰されたのは、鎮守副将軍の池田真枚と安倍猿嶋墨縄のみで、しかも刑を軽減される。

征東大将軍紀古佐美は罪を許され、副将軍入間広成は勅の中で言及すらされていない。
紀古佐美はその後も参議として朝廷内で重きをなし、平安遷都の際には新都予定地の視察に派遣されるなど、桓武天皇の信頼も回復したようであり、延暦15年には大納言にまで昇進し、翌年に没。

寛大な処分が下された背景として、
①当時桓武の生母高野新笠が病気であったこと
②桓武と古佐美は、ともに紀諸人を曾祖父に持つという縁故、などの推測がある。
将官を厳罰に処することは、今後の征夷に官人を協力させるためには得策ではないと判断したのではなかろうか。
そのため、将官を厳しく譴責し、厳罰に当たることを示した上で、彼らの罪をすべて減免するという温情に満ちた君主を演じてみせたのであろう。

この時の征夷に伴う論功行賞は、翌年10月19日に行われる。
*
12月28日
・桓武天皇の母、高野新笠、没。年齢不明(この年、桓武は53歳)。
天皇の悲しみは大きく、長岡宮内裏正殿を避けて西廟(ひさし)に移り、そこに皇太子安殿親王と群臣を集めて挙哀(こあい、声を挙げて悲しみを表す慟哭の儀礼)を行っている〈『続日本紀』延暦八年十二月丙申条)。
*
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2011年10月20日木曜日

永禄9年(1566)1月1日~3月31日 一乗院覚慶(後の義昭)還俗、信玄・謙信らに御内書を発行 [信長33歳]

京都北白川、曼殊院門前(2011-09)
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永禄9年(1566)
この年
信長33歳、光秀39歳、秀吉31歳、家康25歳
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・若狭国、逸見氏は、前の反乱で砕導山を陥落されたため高浜に水・平山城を築城。
この年、守護武田義統の子元明擁立を旗印に再び、粟屋勝久と連携し高浜と三方の東西で叛乱。
義統は再び朝倉氏に援軍を頼み、粟屋氏居城を包囲させ、自らは全軍事力で逸見氏に立ち向かい、再度これを破る
(逸見氏の水軍に対抗して、自らも水軍を編成、これを破る)。
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・天草に初めてキリスト教が入る。
天草の下島の北~西を押さえる豪族志岐鎮経(しげつね)、有馬口之津に滞在中のイエズス会修道士アルメイダを招く。
このときヴェレイラ神父・トルレス神父・オルガンチノ神父らも来島。
しかし、志岐氏は自らキリシタンになったものの、領内のキリシタン化に対する仏教徒ら反体制派家臣を押さえられず迫害に転じる。
1569年、志岐氏、棄教。
これにより、天草の布教の地は天草尚種領内(下島の東~北)へ移る。
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・明智光秀(39)、美濃安八郡に4500貫の知行を授かる。
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・15世紀後半~16世紀、洛中洛外の酒屋の多面的な活躍。
この頃と推定される請酒屋の酒屋役銭の進未進を注する史料
(西京・北山・御室・梅津・嵯峨近辺の請酒屋を列記し、造酒司への請酒屋役銭を納めたかどうかを注記したもの)。  
高利貸を営み帯座座頭職をもつ嵯峨の角倉与次宗忠が営む棚(出店)の請酒屋が、北山鹿苑寺門前に2軒、嵯峨に数軒、西梅津に1軒、仁和寺近くに1軒、妙心寺門前に1軒と、10軒近くある。
洛中全域の実態は不明だが、角倉棚の請酒屋がまだ他に散在している可能性はある。
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・近江の浅井長政の「料足掟条々」(「菅浦文書」)
「自他国当谷居住之仁、其外往還之商人、定置公用之外を、清銭を撰び本国へ遣儀堅令停止畢」とする。大名の精銭確保の欲求を表す。
大内(「大内氏掟書」)、相良(「相良氏法度」5条)、武田(「甲州法度之次第」42条)、結城(「結城氏新法虔度」83条)、北条(永禄2年「代物法度」等)などの諸大名はみな「法度」として精銭確保=撰銭の問題を取り上げる。
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・大名領国下の独立市場圏。
遠江引佐郡祝田・都田両郷を含む井伊谷東南辺地域は、浜名湖北岸に位置し、今川勢力下で、国人領主井伊が君臨。
この年、この地域に今川方から徳政令が発布され、「銭主方」は井伊に働きかけ、徳政実施を68年に至っても拒否し続ける。
この「銭主」は、井伊谷地域の多く土地を買得する地主でもある瀬戸方久以下の人々で、これら銭主方と国人井伊とが結託し「私に仕り」、徳政実施を握り潰そうとする。

百姓たちは、今川に訴え集団的な動きをとり始め、今川方は徳政実施の厳命を下す一方、瀬戸方久の買得した「名職」「永地」は徳政から除外として安堵し、さらに新城根小屋における「蔵取立商売」の諸役を免除することでこれと妥協。

曳馬市(浜松)に近く、信州・三河への街道上で、国人の城下でもある経済的中心地域において、多くの農民が窮乏に追い込められている事実と、国人領主・銭主が結託して、大名に抵抗している状況。

井伊谷両辺には「五日市場」があり、東南3kmの蜂前神社前にも「いち免」があり、井伊谷とその周辺地域は、独立的な国人領で、同時に一つの市場圏としても一定の纏り持っている見られる。

こうした市場圏の割拠性は大名領国下にひろく存在した一般的傾向で、名の領国経済圏形成のための市場政策や農村統治策としばしば矛盾する性質のもの。
*
・イギリス、ハンフリー・ギルバート卿、「北西経由でキャセイア(中国)に至る航路を実証する論文」を提出。
カナダの北をまわって中国に向う北西航路。
300年以上後、1903~1906年、ノルウェーのローアル・アムンセンにより征服。
*
・イギリス、1559年、エリザベス1世、全聖職者に対して英国国教会の定めた制服の着用を義務づけるが、清教徒から「キリストの敵の制服」として反発。
この年、カンタベリー大主教が制服着用の義務を命じてロンドンの聖職者110名を招集、37名が着用拒否し公職追放。
*
・1566年のカトリーヌ・ド・メディシスの「国内巡幸」の旅程:
ムーラン→ヴィシー→ル・モン・ドール→クレルモン→フェラン→オセール→サンス→4月21日モンソー・アン・ブリー→4月30日サン・モール
*
・フランス、ボルドーとリヨンの公証人、半数以上がユグノーに転向。
*
・ラス・カサス司教、没。開化派のフランチェスコ会伝道師、原住民の権利を公然と主張。
*
*
1月

・信長、木下藤吉郎に州俣築塁を指示。(信頼できる資料にはない)
*
・北畠具教(39)、砦を築き三好康長の侵攻を防ぐ。
*
1月1日
・尼子義久、老臣宇山久信父子を富田城中に殺害。尼子軍動揺す。
*
1月7日
・教皇ピウス5世、即位(位1566~1572)。
ドミニコ会修道士ミケーレ・ギスリエリ、厳格な禁欲主義者、異端審問所出身、反宗教改革。
*
1月9日
・毛利元就、病再発。
*
1月15日
・越智伊予守家増、筒井氏から貝吹城を受け取り入城。
*
1月29日
・仏、コリニ提督のギーズ公フランソワ殺害事件、無罪判決。
*
*
2月
・信長、尾張国の薬師寺別当蔵南坊へ尾張国海東郡間島村内100貫を寄進(「尾張国寺社領文書」)。
*
・上杉謙信、関東の地を席巻。
再び離反した佐野氏の下野唐沢山城を攻め、3月、下総臼井城の正木氏を攻める。
*
・本願寺筆頭坊官下間頼総、加賀での劣勢打開のため、この年正月、京都吉田社に依頼して新調した家旗・先惣旗(「兼右卿記」正月7・24日条)を持って金沢へ下り、戦況の立直す。
戦線は加越国境まで戻る。
*
・フランス、「ムーラン王令(86ヶ条)」。
「王権の絶対性」を明確に定義(高等法院は勅令に反対できない)。
市や貴族の司法上の権利を最大限制限、国王司法権を拡張。
地方総督の恩赦実施、税金徴収、司法への圧力を禁止。
大貴族・地方総督を特命行政総監に格下げ。
ほか、町村裁判所管轄権、施療院・商人組合の規則、出版業取り締まり、飲食店価格表示に至るまで広範囲にわたる規則を網羅。
全国巡幸を通じて確認した行政・司法上の広汎な問題に答えようとするもの。
*
2月4日
・三好三人衆、多聞山城攻撃。松永久秀の攻撃受け高屋城へ敗走。
11日、久秀、高屋城攻撃出陣。
17日、両軍、上之芝で激突。久秀、畠山1万。
畠山、討死1千・斬首460、で紀州敗走。久秀も大和多聞城へ退却。

**別資料では・・・
(17日、三好三人衆、畠山・遊佐勢と河内に戦い、大勝。
畠山・遊佐方は堺へ逃亡。
討ち取った首は実検分の463を含め、1千程という。)
*
2月5日
・宇喜多直家の刺客、備前に侵入して備中・三村家親を狙撃。
*
2月16日
・長尾輝虎(37、上杉謙信)、小田氏治の小田城を攻略。小田城陥落。(小田城攻め)
*
2月17日
・一乗院覚慶(後の足利義昭)、還俗して「義秋」と改名。
12日、京都東寺八幡宮へ、「凶徒」「退治」を立願し、「帰洛」実現の際の「一宇」建立を約す(「進士文書」)。  
*
2月19日
・多聞院英俊、多聞山城にいる筒井方の人質に連絡を取る。
*
2月24日
・松永久通、筒井城へ兵粮を入れる。合戦あり、討死少々・負傷者多し。
29日、久通、筒井城へ出陣、兵を入替える。
*
*
3月
・真田昌幸(20)に嫡男・信幸、誕生。
*
・信玄、西上野へ侵攻  
*
・上杉謙信、千葉胤富属城臼井城(佐倉市)原胤貞を攻撃。
千葉胤富・北条氏康が後詰めで原胤貞を支援、謙信、大敗北し、5月9日、関東より帰国。
*
3月8日
・武田信玄、足利義秋(後の義昭)へ遠国のため援軍は派遣出来ない旨を通知(「前田家所蔵文書」)。
*
3月9日
・スコットランド、女王メアリー・スチュワートの愛人ダヴィッド・リッチオ(イタリア人音楽家)、メアリー夫ダーンリー卿ヘンリー・スチュワートによりホリルード宮殿にてメアリー(妊娠6ヶ月)の目の前で残酷な方法で殺害。
メアリーは軟禁されるが、後、脱出。
*
3月10日
・足利義秋、上杉景虎の養子景勝に御内書。北条と和睦し上洛要請。
*
3月15日
・松永久通、今市城破却に出陣。
17日、久秀、筒井城へ兵粮を入れるべく多聞山城から出陣。
*
3月17日
・三好政権の細川昭元(摂津芥川城主)、上京し洛中洛外に撰銭令を発す(「兼右卿記」)。
*
*