久しぶりの秋晴れ
10月26日昼休みの江戸城東御苑
前日25日とはかなり変って、気温は多分20℃を少し超えたくらいか、
涼しく過ごし易い
▼晴れた日には、たまには天主台の写真もいいかな
*
▼乾濠がキラキラと光ってたけど、少し逆光
*
▼「秋一番」という品種のツバキ
やっぱり花ごとポロリと落下していた
昨日のサザンカとはやはり違う。
*
▼タイワンホトトギス
*
▼松の廊下あたりのモミジ
紅葉はまだあと1ヶ月後くらいか
*
▼ジュウガツザクラ
かなり咲いた
*
*
2011年10月27日木曜日
永禄9年(1566)閏8月1日~12月31日 信長、河野島の戦いで大敗 義昭、越前に入る 尼子氏降伏 [信長33歳]
京都、詩仙堂(2011-09)
*永禄9年(1566)
閏8月3日
・若狭小浜の住人や熊谷統直(義統の子の元明の擁立を企てる)が蜂起(「多聞院日記」同日条)。
義統支持の遠敷郡の武田信方や大飯郡の逸見昌経・武藤友益らが出陣、幕府奉公衆本郷信当の参陣もあり、反乱はどうにか鎮圧。
しかし、若狭国内は、武田氏家臣の離反・分裂が続き戦闘が繰り返されるという混乱。
*
閏8月8日
・河野島の戦い。
斎藤龍興方大垣城主長井道利が攻撃しかけ、信長、大敗。
退却始めたところ、水嵩を増した木曽川に多くの兵がのまれる。
この頃から、信長の美濃攻めの舞台は西美濃に移る。
河野島の戦いが記されているのは、山梨県の中島家に伝わる『中島文書』のみ。
発給人は斎藤家の奉行人4人、宛先は不明。但し、宛先は武田氏関係者であることは確かで、この5年前に美濃の崇福寺から甲斐恵林寺(えりんじ)に移住した快川紹喜(かいせんじょうき)だという見方もある。
手紙の概要
「信長が義昭を擁立して上洛することを引き受けたので、義昭は織田・斎藤の停戦を仲介した。こちら(斎藤側)は義昭上洛のためを思って承知し、誓書を使者の細川藤孝に渡した。
こうして近江への通路も整ったので、藤孝が尾張に下り、急いで参陣するよう信長を催促したが、信長は動こうとしない。
義昭はたいへん機嫌をそこねている。
畿内で三好三人衆が義昭の上洛を妨げる画策しており、信長は躊躇しているようだ。
このままでは、義昭は矢島(現滋賀県守山市)にも止まることができず、朽木(現高島郡朽木村)か若狭あたりに移らなくてはならないという。
信長は天下の笑い物になっている。龍興は義昭を軽んずるつもはないが、しかたがない。」
「この八月二十九日、信長は尾張・美濃の境目まで出張してきた。その頃、木曾川は増水していたが、川を渡って河野島に着陣した。
すぐに龍興が軍を率いてそれに向かったが、信長は戦わずに軍を引き、川のふちに移動した。美濃軍も川を隔てて陣を布いた。
翌日、風雨が激しく、両軍とも戦いを仕掛けられなかった。ようやく水が引いて、美濃軍が攻めかかろうとしたところ、今月(閏八月)の八日の未明になって、にわかに信長軍は川を渡って退却を始めた。
ところが川は増水していたので、大勢が溺れてしまった。
そのほかの兵も、美濃軍に襲われて討ち取られたり、兵具を捨てて逃げていった。そのていたらく、前代未聞の有様である。」
*
閏8月12日
・長尾輝虎、関東出陣を上野小泉城(群馬県邑楽郡小泉町)城主富岡重朝に報ずる。
*
*
9月
・三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)、松永久秀制圧。
*
9月5日
・上野金山城(群馬県太田市)城主由良成繁、長尾輝虎(謙信)に背き北条方に通ずる。
*
9月6日
・オスマン朝スルタン・スレイマン1世(71)、ハンガリー、シゲト・ヴァール要塞を攻撃中に病没(1494~1566、位1520~1566)。
30日、スルタンにセリム2世が即位。
*
9月9日
・霧島山噴火。
*
9月11日
・木下藤吉郎(30)、州俣築塁開始。総勢2,500。斎藤勢の攻撃。3日で築塁、7~8日で城郭できる。
24日、築城成功。木下藤吉郎、墨俣を本拠として斎藤竜興の軍勢を破る。
「信長公記」などの資料の裏付けない。
秀吉が蜂須賀正勝を中心とする野伏(のぶし)たちを動員して、木曾川の向う岸に橋頭堡を築いたという記事を最初に載せたのは『太閤記』であるが、『太閤記』も、その場所が墨俣であるとは記していない。
*
9月18日
・十市氏、筒井方に同心、田城に陣を置き柳本を攻める。
25日、筒井藤政(順慶)5千、奈良へ入る。西手掻で多聞山衆と山田・井戸衆の間に合戦、多聞山衆が少々討ち取られる。
28日、筒井藤政、成身院にて得度、陽舜房順慶となる。
*
9月20日
・足利義秋(後の義昭)、武田家内紛により越前朝倉義景を頼り敦賀金ヶ崎に入る(「朝倉始末記」では9月晦日)。
既に、朝倉家に仕える明智光秀は、ここで義秋の近臣細川藤孝と邂逅。
義秋、上杉輝虎(後の謙信)へ大覚寺門跡義俊(義秋の母方の叔父)を派遣し上杉氏・北条氏の和平斡旋を促し出陣を要請(「上杉文書」)。
義俊・義秋は早くから朝倉義景・若狭武田義統・尾張織田信長に協力要請するが、越後上杉輝虎に期待するところ大といわれる。
義秋は輝虎上洛を促進するために相模北条・甲斐武田との3者和睦を命じ、本願寺顕如に加賀一向一揆と越前の和睦を命じる。
朝倉氏内部では、同10年3月に坂井郡の有力国人堀江氏が加賀一向一揆と結び義景に謀叛をおこすなど安定を欠いていたが、同年冬、加賀一向衆と朝倉氏の和睦が実現する運びとなり、11月21日義秋は敦賀から一乗谷へ移る(「越州軍記」)。
*
9月29日
・武田軍、箕輪城(群馬県群馬郡箕輪町)を攻略(勝頼の初陣)、城主長野業盛は自害。
これを機に、上野金山の由良氏、上野小泉の富岡氏はじめ、上野の諸将が北条方に寝返る。
下野の皆川氏・佐野氏、常陸の小田氏、宇都宮氏も北条方に旗色を変える。
6月末、上杉謙信は籠城衆の小暮弥四郎に竜印状を与える。信玄は事前に調略を進めている。
以降も西上野での武田氏の侵攻は続く。
翌永禄10(1567)年3月末、白井城、5月惣社城(前橋市)を攻略し、西上野全域支配を完成。これと並んで同月(3月)、駿河・遠江国境付近で緊張高まる。
*
*
10月20日
・本願寺顕如、加賀一向一揆と朝倉義景の講和を命令した足利義秋(後の義昭)へ拒絶の意思を通知(「顕如上人御書札案留」)。
*
10月21日
・足利義秋、越前府中竜門寺入り。
*
*
11月
・宝満城督高橋鑑種、毛利元就の調略に応じて反大友の挙兵を約束。鑑種の決起に秋月・筑紫・宗像・原田・麻生氏らも同調。
毛利元就は山陰の尼子氏を打倒し、永禄7年の和議の必要性がなくなった上での九州勢調略作業の再開。
*
11月7日
・三好長逸、京都真乗院に深草の地を安堵(「真乗院文書」)。
9日、三好三人衆、京都仙翁寺村百姓に年貢納所を命令(「鹿王院文書」)。
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11月9日
・若狭守護武田義統、没。
長子の元明が家督相続。名目だけの存在、家臣の多くはもう元明に従わず。
*
11月21日
・毛利元就、富田城の尼子義久を降伏させる。
11月28日、尼子義久兄弟、退城。
12月14日、尼子義久・倫久・秀久3兄弟を安芸高田郡円明寺(高田郡向原町)へ幽閉。
後、志路(広島市安佐北区白木町)に領地を貰い移住。
後、尼子義久は毛利家へ属し朝鮮や関ケ原に従軍、「尼子の切り取り千石」と評される武将となる(後、出家)。
山中鹿之助、戦傷を癒すため杵築で治療、翌永禄10(1567)年、湯治のため有馬温泉へ向かうが、以降の足取りは不明。一説では、京都に上り、尼子再興のための軍法などを学ぶため武田・上杉・北条・朝倉などの各地を廻り、3年後京都に戻る。
*
11月21日
・足利義秋(後の義昭)、敦賀金ヶ崎から一乗谷へ赴き、朝倉義景に出兵を説くも応諾得られず。
*
*
12月2日
・多聞山衆、吐田郷を焼き払う。
*
12月5日
・この日付の武田信玄の厩橋城主北条高広で、今後の入魂を求める。
高広は、9月29日の信玄による箕輪城攻略の結果を見て、北条氏康の調略により、上杉氏から離反。
*
12月7日
・足利義栄、摂津富田普門寺入り。
28日、「義栄」と改名、「従五位下」・「左馬頭」に叙任。
*
12月8日
・利休息子(実子)道安(21)の記録上の最初の茶会。
*
12月9日
・家康(25)、三河守を拝領。
11日、左京大夫を拝領。
29日、徳川姓を名乗ることを許される。山科言継が家康の徳川改姓のため奔走。
*
12月20日
・長尾輝虎(謙信)、関東に出陣し沼田城に入り、佐竹義重に参陣を促す。
*
12月21日
・三好長逸・三好政康ら、六角義賢と近江国坂本で会談。
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12月29日
・細川昭元、3月に次いで再度洛中洛外へ撰銭令を発す(「兼右卿記」)。
*
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延暦12年(793)~延暦13年(794)5月 桓武天皇、征夷と遷都の準備を進める
東京、江戸城東御苑(2011-10-25)
*延暦12年(793)
1月1日
・前年閏11月に辞見した征東大使大伴弟麻呂が「征夷大将軍」としてあらためて節刀を授けられる。
*
1月15日
・藤原小黒麻呂・紀古佐美(2人とも征東大使経験者)を山背国葛野郡宇太村に派遣し、遷都予定地を視察させる。
*
1月21日
・桓武天皇、「宮を壊たむと欲するに縁って」(長岡宮を解体するため)、「東院に遷御」。(「日本紀略』)。
*
*
2月2日
・桓武、遷都候補地葛野郡の地主神(じぬしのかみ)である賀茂神に遷都の報告を行う。
*
2月17日
・「征東使を改めて征夷使となす」と決定。
宝亀11年(780)以来用いられてきた「征夷使」の呼称をやめて、「征夷使」の呼称が採用される(『日本紀略』)。
この頃、平安遷都が具体化しつつある時期で、これまでの「征東使」が引きずってきた光仁朝の征夷の継続という性格を払拭し、征夷が造都と並ぶ桓武朝独自の事業であることを内外に印象づける意味があったと推定される。
征夷と遷都を組み合わる構想は、新京造営が具体化した延暦12年正月頃に始まる。
征東使から征夷使への改称も、この構想に連動するもの。
征東大使・征東将軍がこれ以後「征夷大将軍」と呼ばれるようになる。
胆沢制圧のための再度の征夷は、この時点で次の遷都を演出する政治的役割を担わされる。
*
2月21日
・征夷副使坂上田村麻呂が辞見(謁見と辞別、赴任の挨拶)。
*
*
3月
・桓武自身が現地を巡検。
宮に取り込まれる百姓(おおみたから、公民)に恩恵を施し、伊勢大神宮に遷都の旨を報告した上で、五位以上あるいは諸官衙の主典(さかん)以上の者に造宮に従事する役夫(えきふ)を進上させる。
新京の宮城の内にとりこまれる百姓地44町にたいして3ヶ年の価直(あたい、耕地の収穫の代金)を給することにする。
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6月
・新宮の諸門を造らせる。
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7月
・遷宮使等を褒賞
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9月
・官人たちに京の宅地を班給
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延暦13年(794)
・延暦13年は『日本後紀』の欠失部分に当たる。
*
・桓武天皇は、菅原古人(ふるひと)の侍読の労を追懐して子の清公(きよきみ)らの奨学のために衣類を給す。
この年、越前国の水田102町余(さきに朝廷が没収した大伴家持の家産の一部)を大学に付して勧学田とする。
*
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1月1日
・桓武、「東院」(長岡宮解体のために引っ越した仮の内裏)で、征夷大将軍大伴弟麻呂(64)に節刀を与える。正月1日の節刀下賜は例がなく、桓武の意気込みを示す。
征夷軍編成
『日本後紀』弘仁2年(811)5月壬子条に、
「去ぬる延暦十三年の例を検ずるに、征軍十万、軍監十六人、軍曹五十八人」とある。
征夷軍10万、征夷大将軍1人・副将軍4人の下に、軍監16人・軍曹58人という多数の軍監・軍曹がいた。
延暦8年(789)の征夷では、「別将」と呼ばれる多くの下級指揮官が実戦部隊に配置されていたが、彼らの地位の低さが敗戦の主因でった(桓武自身が指摘)。
彼らは軍毅・郡司・郡司子弟などの地方豪族であったと思われるが、今回の征夷では、彼らの多くを征討使の軍監・軍曹に任用し、征討使という一つの官制体系の中に位置づけ、指揮系統を明確化したとみられる。
軍監・軍曹の増加は、これ以後の征夷軍編成においても踏襲される。
*
1月16日
・征夷の実施を山階陵(やましなのみささぎ)と田原(たわら)陵に告げる。
山階陵は天智天皇(桓武の曾祖父)陵、田原陵は光仁天皇(桓武の父)陵でである。
征夷に関わって山陵祭祀が行われたのはこれが唯一であり、しかも自分の直系父祖に戦勝を祈願している。
前年3月25日にも、山階陵と後田原(のちのたわら)陵(光仁天皇陵)・先田原(さきのたわら)陵(施基親王=春日宮天皇陵、桓武の祖父)に遷都の由を告げているが、遷都に伴う山陵祭祀も他に例がない。
*
1月17日
・征夷のため参議大中臣諸魚を伊勢神宮に派遣して奉幣。
前年3月10日に、参議壱志濃王を伊勢神宮に派遣して奉幣し、遷都の由を告げていることに対応する。
桓武は、遷都と征夷を組み合わせて行うという難事業を、父祖の霊や皇祖神の加護を得ながら成功させようとしている。
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5月
・安殿皇太子の妃藤原帯子(たいし、百川の娘)が早逝。
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「福島セシウム137放出3万5,800テラベクレル、(日本)政府発表の2倍超か」(ブルームバーグ)
「福島セシウム137放出3万5800テラベクレル、政府発表の2倍超か」
との報道が、ブルームバーグのニュースにでている。
ノルウェーの研究機関による調査結果が「アトモスフェッリクス・ケミストリー・アンド・フィジックス・ジャーナル」誌に発表された、とのこと。
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原発に関する情報は、
(1)隠蔽
(2)遅延
(3)過小評価
の特徴をもっているを、この間、身をもって理解した。
だから驚かないということではないが・・・。
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その内の「隠蔽」に関して、・・・。
このところ「朝日新聞」に「プロメテウスの罠」という連載記事があり、これを読むといかに原発情報、放射能情報が隠されてきたか、よくわかる。
そのうちの「防護服の男」という連載はコチラで見れます。
「防護服の男」(その4)のタイトルは、「殺人罪じゃないか」です。
知らされずに放射能の中で生活していた人の独白です。
また、この連載記事により、福島県は3月12日朝に(水素爆発前に)、大気の線量を測り高濃度汚染の実態を把握していた、という事実を知り、これを告発している方もいます。
未必の故意による殺人罪に匹敵する、と告発されてます。
(福島県当局の罪は、SPEED1のことだけではなかった。)
この方のサイトはコチラ。
「プロメテウスの罠」の話題に戻ります。
今は二番目のシリーズで「研究者の辞表」が続いてます。
(これはコチラで見れます)
昨日の記事だったかに、
「3月18日、日本気象学会は会員の研究成果の発表自粛を呼びかけた」
ことが書かれてあった。
秘密主義とか緘口令とか、なんかゾッとする組織犯罪のような気がしてくる。
「研究者」の良心に基づく自発的な行動をも抑圧するような・・・。
「畑村委員会」は是非こういうことにもメスを入れて戴きたい。
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「過小評価」といえば、フランスの事故でも同様のことがあるようだ。
*
「過小評価」といえば、フランスの事故でも同様のことがあるようだ。
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なんともやりきれない。
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2011年10月26日水曜日
昭和16年(1941)10月25日 「市中の散歩も古書骨董を探るが為ならず餓饑道の彷徨憐れむべし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
昭和16年(1941)10月23日
十月廿三日。小春の日和つゞきて勝手口に洗流しの米粒あさりに来る雀の聲もたのし気なり。
門外は折々防空演習の人聲さはがしきことあれど吾家の庭は夜毎の露霜に苔いよいよ深く、山茶花のしげみに鶯の笹啼絶えずいつもより静にさびしく暮れ行きぬ。
黄昏の光消えやらぬ中にと急ぎて夕餉の支度をなし窓に黒幕を引きて後燈火の漏れはせずやと再び庭に出でゝ見るに、向側なる崖の上に四五日頃の片割月落ち残りて空あかるし。
飯後夜具敷きのぺ宵の中より蓐中に陶集をよみて眠の來るを待ちぬ。陶淵明が詩を誦せんには當今の時勢最適せし時なるぺし。
(略)
*
10月25日
十月廿五日。快晴。雲翳なし。庭に残蝶の飛ぶを見る。
晩食の後淺草に徃く。煮豆ふくませ罎詰葛等を得たり。
市中の散歩も古書骨董を探るが為ならず餓饑道の彷徨憐れむべし。
オペラ館楽屋に少憩してかへる。・・・(略)
*
10月26日
・十月廿六日 日曜日 昨日に劣らぬよき日なり。家に在りて陶集を讀む。晩間出でゝ芝口に飯す。
*
10月27日
十月廿七日、晴れて風あり。
牛後散歩。
谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。
團子坂を上り白山に出でたれは原町の本念寺に至り山本北山累代の基及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の基は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向變りたるやうなり。
寺を出で指ケ谷町に豆腐地蔵尚在るや否やを見むと欲せしが秋の日既に暮かゝりたれは電車に乗りてかへる。
*
10月28日
十月廿八日。晴。風邪心地なり。・・・。
日の暮るゝを待ち芝ロの金兵衛に至るに宵のロまだ七時にならざる中配給の魚介少きため料理出来ず客をことわり居たり。
盬鮭と味噌汁にて茶漬飯を食す。
歌川氏來る。紀の國屋倅田之助來る。十年ぶりにて逢ひしなり。この頃役者連自動車なきためいづれも遠方より雑沓の電卓に乗りて木挽町へ通ふと云。
かみさん紙筆を持出し賣切の札かけと言ひければ、
酒肴みな賣切に鳴海潟
汐もそこりて干物さへなし
*
10月29日
十月廿九日。晴。
谷町電車通の焼芋屋久しく休みゐたるに芋俵の配給ありしとて早朝よりふかし芋を賣出す。買はむとするもの行列をなしたり。
それ焼けたとわめき集る人のむれ
芋屋のさわざ火事場なりけり
ふかし芋ふかす藁火も飢る子の
うれし涙に消ゆるわびしさ
釜のふたあけて取り出す焼芋は
地獄の鬼の角とこそ見め
*
10月30日
十月三十日。晴。
伊太利亜友ノ會白鳥敏夫と云ふ人突然同會の評議員に余を推挙したりとて、役人くさき辞令書の如きものを書留郵便にて送り來りたれば、直に拒絶の手紙を添へて右の辞令を返送したり。
不快の感を一掃せむとて牛後淺革公園に徃きオペラ館踊子大勢と森永に夕飯を喫し汁粉屋土筆に汁粉を食す。
砂糖の不足を補はむとて西瓜糖また蜂蜜などを用ゆるためにや、汁粉の甘味一種異様なるも可笑し。
*
10月31日
・十月卅一日。
夜八時頃淺草より歸る時、地下鐡道の乗客中に特種の風俗をなしたる美人を見たり。
年廿歳ばかり、圓囲顔にて色白くきめ細にして額廣く鼻低からず、黒目勝の眼涼しく少しく剣あり。
髪は後にて束ね角かくしの如き黒地のきれを額に當てたり。
紺地のあらき絣の着物に黒の半纏をかさね帯は幅せまき布をぐるぐる巻きにし、はでなる染物に黒地のきれにて縁を取りし前掛をしめ、結目を大きく帯の上に見せたり。
着物半纏ともに筒袖なり。着物のきこなしより髪の撫付様凡て手綺麗にて洗練せられたる風采、今日街上にて見る婦女子に(ママ)比にあらず。おぼえず見取るゝばかりなり。琉球の女にあらずばアイヌの美人ならむ歟。
二三年前銀座通にて同じ風俗の女二人連にて歩めるを見しことあり。其時は夏なりし故髪かざりの布は白地にて細かき刺繍を施したり。半纏はなかりし故巻帯の後ざま能く見えたり。着物はその時も絣なりき。いづこの風俗ならむ。
色彩の調和よく挙動の軽快なること日本現代の服装の俗悪野卑なるに似ず遥に美術的なり。
淺草松屋の下より乗りて京橋にて降りたり。同伴の者なく一人なり。履物は普通のフェルト草履に白足袋をはきたり。この圖の如し。
*
*
谷中の永久寺はココにあります
*
*
本念寺はココです。
*
十月廿三日。小春の日和つゞきて勝手口に洗流しの米粒あさりに来る雀の聲もたのし気なり。
門外は折々防空演習の人聲さはがしきことあれど吾家の庭は夜毎の露霜に苔いよいよ深く、山茶花のしげみに鶯の笹啼絶えずいつもより静にさびしく暮れ行きぬ。
黄昏の光消えやらぬ中にと急ぎて夕餉の支度をなし窓に黒幕を引きて後燈火の漏れはせずやと再び庭に出でゝ見るに、向側なる崖の上に四五日頃の片割月落ち残りて空あかるし。
飯後夜具敷きのぺ宵の中より蓐中に陶集をよみて眠の來るを待ちぬ。陶淵明が詩を誦せんには當今の時勢最適せし時なるぺし。
(略)
*
10月25日
十月廿五日。快晴。雲翳なし。庭に残蝶の飛ぶを見る。
晩食の後淺草に徃く。煮豆ふくませ罎詰葛等を得たり。
市中の散歩も古書骨董を探るが為ならず餓饑道の彷徨憐れむべし。
オペラ館楽屋に少憩してかへる。・・・(略)
*
10月26日
・十月廿六日 日曜日 昨日に劣らぬよき日なり。家に在りて陶集を讀む。晩間出でゝ芝口に飯す。
*
10月27日
十月廿七日、晴れて風あり。
牛後散歩。
谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。
團子坂を上り白山に出でたれは原町の本念寺に至り山本北山累代の基及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の基は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向變りたるやうなり。
寺を出で指ケ谷町に豆腐地蔵尚在るや否やを見むと欲せしが秋の日既に暮かゝりたれは電車に乗りてかへる。
*
10月28日
十月廿八日。晴。風邪心地なり。・・・。
日の暮るゝを待ち芝ロの金兵衛に至るに宵のロまだ七時にならざる中配給の魚介少きため料理出来ず客をことわり居たり。
盬鮭と味噌汁にて茶漬飯を食す。
歌川氏來る。紀の國屋倅田之助來る。十年ぶりにて逢ひしなり。この頃役者連自動車なきためいづれも遠方より雑沓の電卓に乗りて木挽町へ通ふと云。
かみさん紙筆を持出し賣切の札かけと言ひければ、
酒肴みな賣切に鳴海潟
汐もそこりて干物さへなし
*
10月29日
十月廿九日。晴。
谷町電車通の焼芋屋久しく休みゐたるに芋俵の配給ありしとて早朝よりふかし芋を賣出す。買はむとするもの行列をなしたり。
それ焼けたとわめき集る人のむれ
芋屋のさわざ火事場なりけり
ふかし芋ふかす藁火も飢る子の
うれし涙に消ゆるわびしさ
釜のふたあけて取り出す焼芋は
地獄の鬼の角とこそ見め
*
10月30日
十月三十日。晴。
伊太利亜友ノ會白鳥敏夫と云ふ人突然同會の評議員に余を推挙したりとて、役人くさき辞令書の如きものを書留郵便にて送り來りたれば、直に拒絶の手紙を添へて右の辞令を返送したり。
不快の感を一掃せむとて牛後淺革公園に徃きオペラ館踊子大勢と森永に夕飯を喫し汁粉屋土筆に汁粉を食す。
砂糖の不足を補はむとて西瓜糖また蜂蜜などを用ゆるためにや、汁粉の甘味一種異様なるも可笑し。
*
10月31日
・十月卅一日。
夜八時頃淺草より歸る時、地下鐡道の乗客中に特種の風俗をなしたる美人を見たり。
年廿歳ばかり、圓囲顔にて色白くきめ細にして額廣く鼻低からず、黒目勝の眼涼しく少しく剣あり。
髪は後にて束ね角かくしの如き黒地のきれを額に當てたり。
紺地のあらき絣の着物に黒の半纏をかさね帯は幅せまき布をぐるぐる巻きにし、はでなる染物に黒地のきれにて縁を取りし前掛をしめ、結目を大きく帯の上に見せたり。
着物半纏ともに筒袖なり。着物のきこなしより髪の撫付様凡て手綺麗にて洗練せられたる風采、今日街上にて見る婦女子に(ママ)比にあらず。おぼえず見取るゝばかりなり。琉球の女にあらずばアイヌの美人ならむ歟。
二三年前銀座通にて同じ風俗の女二人連にて歩めるを見しことあり。其時は夏なりし故髪かざりの布は白地にて細かき刺繍を施したり。半纏はなかりし故巻帯の後ざま能く見えたり。着物はその時も絣なりき。いづこの風俗ならむ。
色彩の調和よく挙動の軽快なること日本現代の服装の俗悪野卑なるに似ず遥に美術的なり。
淺草松屋の下より乗りて京橋にて降りたり。同伴の者なく一人なり。履物は普通のフェルト草履に白足袋をはきたり。この圖の如し。
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谷中の永久寺はココにあります
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本念寺はココです。
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延暦11年(792) 軍団兵士制廃止 蝦夷集団の服属 長岡京洪水 桓武天皇は和気清麻呂の助言により平安京遷都を決意
京都、銀閣寺の庭園(2011-09)
*延暦11年(792)
・この頃、(長岡京では)大極殿・朝堂院は、次第に日常の政務に用いられなくなり、儀式や儀礼を行うハレの空間に変化し、代わって政務は内裏で行われるようになる。
内裏には南殿(後の紫宸殿)や寝殿(後の仁寿殿)など多くの殿舎があり、本来は天皇が生活するプライベート空間であった。
この年、公卿は新堂への出仕だけでなく、内裏への出仕も含めて、上日(じようじつ、勤務日数)に数えることが許される。
長岡京に都が置かれた時代には、既に公卿たちは朝堂院では政務に差し障りがあり、日頃から内裏に伺候するようになっていたと推測される。
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1月
・かつて阿弖流為と共に抵抗していた斯波(志波)村の蝦夷族長、胆沢公阿奴志己が、戦禍を避けて移住していた斯波村から国家への帰陣を願い出る(『類聚国史』同年正月丙寅条)。
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6月5日
・安殿皇太子の病状が再び悪化。
10日、卜(うらな)わせたところ、早良親王の崇りであるという明確な答えが出た。
直ちに諸陵頭(しよりようのかみ)の調使王(つきつかいおう)を淡路に派遣して早良親王の霊を慰め(『日本紀略』)、6月17日には勅を発して、墓の回りに濠(ほり)を設けて清浄を保つように指示し(『類聚国史』巻25)、崇りの終息を願う。
しかしその5日後、雷雨が発生、長岡京が洪水に襲われ、式部省の南門が倒れるという被害が出る(『日本紀略』)。
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6月7日
・陸奥・出羽・佐渡・大宰管内諸国を除いて、軍団兵士制(総兵力20万)を廃止する(『類聚三代格』巻18)。大軍縮の実施。
(光仁朝末年には、軍団兵士制の縮小化が実施され始めていた)
理由
貧窮農民による兵士の弱体化
集められた兵士は国司・軍毅の土地経営のために私役されている実態
唐の衰退による国際的緊張緩和(対新羅軍事侵攻放棄)
兵士の庸の免除、征軍から帰郷した後の国内上番の免除などによる国家財政上の問題
一方で征夷政策が継続しているが、征夷戦に対しては、軍団の枠を超えて富裕農民層から広範な動員を行う。
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7月25日
・胆沢以北の蝦夷集団の服属。桓武は次の征夷の勝利を確信する。
この日、蝦夷爾散南公阿破蘇(にさなんのきみあわそ)が入朝を希望しているとの情報が陸奥国から入る。桓武は、長岡京までの路次の国々に対し、壮健な軍士300騎を出して国境で迎接し、国家の威厳を示すよう指示(『類衆国史』)。
11月3日、爾散南公阿破蘇は宇漢米公隠賀(うかんめのきみおんが)と共に長岡宮の朝堂院で饗され、桓武から爵第一等と大御手物(天皇自ら手渡す品物〉を与えられる。
その際桓武は、今後も誠実・勤勉に朝廷に仕えれば、ますます優遇する旨の詔を発す(『類聚国史』巻190延暦11年11月甲寅条)。
爾散南公・宇漢米公は胆沢より北の蝦夷集団で、陸奥国の俘囚吉弥侯部(きみこべの)真麻呂・大伴部宿奈麻呂・吉弥侯部荒嶋らが彼らの服属を仲介した。
彼らはその功績により、無位から地方豪族としては最高位にあたる外従五位下を与えられる〈『類聚国史』巻190延暦11年10月癸未条・11月甲寅条)。
彼らは、陸奥按察便兼陸奥守の多治比浜成や、鎮守将軍の百済王俊哲ら現地官人の要請のもとに仲介の努力を払ったとおもわれる。
第1次征討失敗以後、蝦夷の懐柔策が強化され、蝦夷集団の切り崩しに成功したのであろう。
胆沢の背後の蝦夷集団が国家側に就いたことは、征夷を進める上で有利な状況をもたらした。
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8月
・長岡京に洪水(6月にも発生している)。
桓武は赤日崎(あかひざき、京都市伏見区羽束師(はづかし)古川町赤井前)に行幸して被害状況を視察。
水上交通の便の良さは、洪水の発生と隣り合わせで、桂川や小畑川が氾濫すれば、直ちに京は冠水し、水害に襲われた。
長岡京の構造的問題。
桓武は、安殿の病状悪化、2年前の身内の不幸(旅子・新笠・乙牟漏の死去)や疫病と併せ、この洪水も早良親王の崇りと認識した。
崇りをなす霊の存在が確実視されると、大雨や洪水は、天皇や皇太子ばかりでなく、社会全体に襲いかかる崇りと認識されるようになる。
洪水が頻発する立地問題(構造的欠陥)に加え、それが怨霊による崇りと組み合わされると、長岡京は放棄せざるを得なくなる。
桓武は、長岡京を廃し、新しい清浄な地に遷都することを決断する。
革命思想に基づく新王朝の都は既に長岡京で実現しており、古来からの歴代遷宮の慣行も二度目の遷都には適用できない。
平安遷都は「理念うすき遷都」になるため、桓武は、遷都と征夷の組み合わせを思いつく。
遷都と同時に戦勝報告を新京にもたらし、二度目の遷都を劇的に演出し、天皇の権威を飛躍的に高める構想である。
いつ頃平安京遷都が計画されたか。
延暦12(793)年正月、桓武は藤原小黒麻呂・紀古佐美に山背国葛野郡を下見させている。
但し、和気清麻呂が没した際の伝記には(『日本後紀』)、
「長岡新都、十載を経るとも未だ功成らず。費(つい)え勝(あげ)て数(かぞ)うべからず。清麻呂潜かに奏す。上(桓武)遊猟に託して葛野の地を相(み)せしめ、更に上都に遷す。」
とある。
清麻呂が狩猟にかこつけて、桓武に新都の地相を下見させたという。
延暦11年、桓武は15回以上、狩りや行幸に出かけており、計画時期は延暦11年に遡ると推測できる。
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閏11月28日
・この日、征東大使大伴弟麻呂が一旦辞見(謁見、辞別)し、陸奥に出発。
しかし、大伴弟麻呂は延暦13年元旦に節刀を与えられ再び陸奥に出発している。
おそらく、延暦11年閏11月以降に、征夷実施が延期され、大伴弟麻呂は一旦帰京し、延暦13年元旦に再び出発したと考えられる。
理由は、延暦12年正月に始まる新京(平安京)造営であろうと推測される。征夷実施と遷都とを組み合わせて行う方向で当初日程が修正されたと考えられる。
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2011年10月25日火曜日
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(2) 「一 「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」 - 「老い」の見立て」
東京北の丸公園(2011-10-20)
*別途進めていた「永井荷風年譜」が22回目にしてようやく「断腸亭日乗」起筆の大正6年に到達した(コチラ)。
前からの予定通り、「はじめに」で止まってしまっている川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(コチラ)の続きを始めようと思う。
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(2)
一 「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」 - 「老い」の見立て
「日乗」起筆の頃の荷風は37歳、独身、慶応大学も辞め、その後手を染めた文芸誌編集・発行からも手を引き、まったく自由な文士生活を始める時期に相当する。
荷風は自分を「老人」と見たて、社会的現実から一歩身をひいた、消極的な人生の楽しみ方をはじめようとしている。
大正6年9月16日に「日乗」を起筆したが、その数日後の「日乗」には・・・。
大正6年9月20日
「されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に陰れ住みて先考遺愛の書画を友として、餘生を送らむことを冀ふのみ」
とある。
大正6年10月26日には、身辺整理をしている。
「晴天。写真師を招ぎて来青閣内外の景を撮影せしむ。
予め家事を整理し萬一の準備をなし置くなり。
近日また石工を訪ひ墓碑を刻し置かむと欲す」
大正8年1月16日、39歳の時には
「余既に餘命いくぱくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず」
と書いている。
荷風は終始、自分の気力、体力が落ち死期が近いのではないかという恐れを抱いている。
昭和3年3月29日
「春来神経衰弱症ますます甚しく読書意の如くならず、旧稿を添削する気力さへなく、時々突如として睡眠を催すことあり、眠れば昼となく夜となく必悪夢に襲はる、何とはなく死期日々近き来るが如き心地するなり」
翌3月30日
「今よりそろそろ終焉の時の用意をなし置くなり」
昭和11年2月24日(59歳)
「余去年の六七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり」と書き、
「依てこゝに終焉の時の事をしるし置かむとす」とし、「余死する時葬式無用なり」「墓石建立亦無用なり」など7項目の「終焉の時の事」を掲げている。
まず、荷風が本当に身体が弱かった。
随筆「十六七のころ」(昭和10年)によると、「十六七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった」。明治27年、15歳の時、結核性の瘰癧(ルイレキ)にかかり、下谷の帝国大学病院に入院。退院後も風邪をこじらせ、それが悪化して明治28年には逗子に転地し、その結果、学業が1年遅れることになる。
尚、帝国病院入院中に、お蓮という名の看護婦に初恋をして、その「蓮」(はす)にちなんで、自分の名前を「荷風」にしたという有名な逸話を残している。随筆「雅号(旧)について」(明治41年)。
荷風の「荷」は「はす」のこと。
成人してからも腸が悪く、それが持病となって、隅田川沿いの中洲にある中洲病院に通うようになり、院長大石貞夫は、荷風の主治医のような存在になる。
「日乗」起筆の頃、銀座三十間堀の築地界隈や出雲橋に近い路地裏に部屋を借りるが、それはひとつには、中洲病院に通う便がよかったからである。
荷風は病弱であった。
しかも、自身がそのことを非常に意識して、病院通いのために、病院に近いところに部屋を借りるほどであった。
大正10年5月26日
「病衰の老人日々庭に出で、老樹の病を治せむとす」
同年6月9日
「中洲病院に往きて健康診断を乞ふ。
尿中糖分多しといふ。
現在の境遇にては日々飲食物の制限は實行しがたきところなり、憂愁禁ずべからず」
「日乗」起筆の頃に戻る。
大正5年2月に慶魔義塾教授辞職の頃の随筆「矢はずぐさ」(大正5年)に、慶應を辞めた大きな理由は、体調が思わしくなく、朝出がけに腹痛をおぼえることが度々あったためという。
職を辞し、人との付き合いもなく大久保余丁町の家に引込んでしまったいま、荷風は、「われは誠に背も圓く前にかゞみ頭に霜置く翁となりけるやうの心とはなりにけり」と書く。
「およそ人の一生血気の盛を過ぎて、その身はさまざまの病に冒されその心はくさぐさの思に悩みて今日は昨日にまして日一日と老ひ衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし」。
荷風が日記を書こうと思い立つのはこのとき。
この時期、病気を気に病み、年齢のわりに、普通以上に死を近く意識したに違いない。
大正6年の「西遊日誌抄」の序文。
自分はこの3年はど体調が悪い。大石医師に余命はどれほどかと聞くと、「恐らくは常命五十年を保ち難からん」という。
「余元よりかくあらんと兼てより覚悟せし事なれば深くも驚かず」。
ただその日から身辺整理をするようになった。
あるとき書庫の棚を片づけようとして、昔書いた「西遊日誌」4、5冊を見つけた。
はじめ庭で焼き捨てようとしたが、ふと読み返していくうちに「感慨忽ち禁ぜず、薄暮迫り来るも猶巻を掩ふ事能はず」。ついに日記の、後日人の迷惑になるようなところを削って、再び書庫におさめた(これを大正6年に「文明」に発表。)。
「西遊日誌」は、大石医師から長生きは出来ないといわれ、覚悟のうえで身辺整理したところから陽の目を見るにいたった。
荷風にとって、「日記」をつけるとは、死に向かっていく日々を確認していく毎日の遺書だったと見ることが出来る。
だからこそ荷風は「餘生」「病衰の老人」と書く。
「日乗」が四季の観察、植物への視線に富んでいるのも、死を意識した荷風が”末期の目”で周囲を見ようとした結果だろう。
荷風は好んで自らを「老人」に擬したのではないか。
「老人」に見立てたのではないか。
荷風には時代の生ま生ましい現実と直接関わりを持ちたくないという消極的な反俗精神があった。
さらに俗世から離れた草庵で静かな生活をしたいという文人趣味、隠棲趣味があった。
「若さ」よりもむしろ「老い」のなかに、美しさを見たいという老人趣味があった。
そうした傾向が重なり合って荷風は自らを好んで「老人」に見立てていったのではないか。
現実とはなるべく関わりたくないという、逃避の口実にしたのではないか。
「つまり荷風は事実としての「病弱」に、意識としての「老い」を重ねることで巧みに「孤高」の立場を作っていたのである。」
大正13年8月16日の散歩記録を見てみよう。
「猿江より錦糸堀に出で、城東電車に乗り、小松川に至り、堤防を下りて蘆荻(ろてき)の間を散歩す。
水上舟を泛(うか)べて糸を垂るるものあり。蒹葭(けんか)の間に四手綱を投ずるものあり。
予は蘆荻の風に戦ぐ声を愛す。
嘈々(そうそう)雨の如く切々私語の如し。
黄昏来路を取りて家に帰る」
麻布から隅田川を越え、小松川まで行き戻ってくるのは半日の旅行であり、しかも夏の暑い盛りである。
「老人」とは思えぬ、元気な行動力である。
荷風の病気には、胃腸障害とそこからくる神経衰弱の他に、長年の放蕩からくる梅毒の恐れがあった。
大石医師の言葉を借りれば、「君元来身健かならざるに若き時夜遊びに耽りたれば露の冷気深く體内にしみ入りて終にこの病を發せるなり。今よりして摂生の法を尽すとも事既におそし恐らくは常命五十年を保ち難からん」(「西遊日誌抄」)と、医師は笑いながらいったとも考えられる。
大正14年8月31日
「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」と書く。
自分を「老人」に見立てている。
好んで老人趣味に徹しようとする。
「日乗」にはいたるところに荷風の老人趣味があらわれている。
その日常生活には、老人の静かな生活ぶりが強調されている。
老人・隠棲者に見立てようとする荷風にとっての理想とする静かな一日。
大正15年9月26日(46歳)。
この日、荷風は知人からかねて欲しいと思っていた秋海棠を数株もらう。
さっそく庭に降りて秋海棠を植える。ようやく手に入りうれしくて仕方ない。
「今日偶然、これを獲たる嬉しさかぎりなし」
そして、
「秋海棠植え終りて水を灌漑(そそ)ぎ、手を洗ひ、いつぞや松莚子より贈られし宇治の新茶を、朱泥の急須に煮、羊羹をきりて菓子鉢にもりなどするに、早くも蛼(コホロギ)の鳴音、今方植えたる秋海棠の葉かげに聞え出しぬ。
かくの如き詩味ある生涯は蓋し鰥居(かんきよ)の人にあらねば知り難きものなるべし。
平生孤眠の悲なからんには清絶かくの如き詩味も亦無し」
好んで自分を老人に見立て、ことさらのように静かな一日を演出する。
生活の芸術化。
「矢はずぐさ」
「我は遂に棲むべき家着るべき衣服食ふべき料理までをも藝術の中に数へずば止まざらんとす。
進んで我生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す」
昭和3年2月15日
「空澄みわたりて日の光いよいよ春めきたり、過日高木氏の贈り来りし古梅園献上の古墨を擵り試む、光澤漆の如く筆の穂ねばらず、誠に好き墨なり」
毎年正月、亡き父を偲んで、父親が大事にした硯をきれいに洗うことを一年のはじめの儀式のようにしている。
筆、墨、硯を愛する「文房清玩」の精神である。
今東光の青春回想録『十二階崩壊』(中央公論社、昭和53年)によると、荷風は書き損った原稿用紙の反古はこまかく切って観世縒(かんぜより)を拵えて、出来上がった原稿を綴じるのに使用したともいう。
大正6年9月17日
「燈下反古紙にて箱を張る」
大正8年3月26日
「築地に蟄居してより筆意の如くならず、無聊甚し。此目糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ」
大正8年11月28日
「燈下臙脂を煮て原稿用罫紙を摺る」
大正14年1月22日
「戯に石印二三顆を籑刻す」
その他
墓参趣味
庭いじり
焚き火
曝書
文房清玩
・・・・・
好んでそういう老人くさい日常を作り出していった。
荷風は、「日乗」のなかでは、俗気を出来る限り排そうとした。
自分を「老人」に見立てることで、世俗とは関わらないですむ理想の隠れ里生活を作り上げていこうとした。
「断腸亭日乗」はその意味で、日記であると同時にフィクションであるといってもいいだろう。
************************************* 読書ノートは以上
*
さて、子供の頃は病弱で、一生独身であった荷風
成人してからは、偏食がたたり、
さぞかし老け込んだろう・・・と想像してしまうけれど・・・。
明治12年12月3日生まれで、
昭和34年(1959)4月30日に満79歳で亡くなっている。
昭和27年には文化勲章、昭和29年には日本芸術院会員の名誉にも恵まれて。
ついでに言えば、別途進めている昭和16年の断腸亭日乗(コチラなど)によれば、
この時満62歳の荷風さん、月に2回くらいは日付けの頭に「・」マークを付けている。
健康な精神は健康な肉体に宿る、ということか?
*
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延暦10年(791)7月~12月 征東大使・副使(田村麻呂)の任命 早良親王の怨霊を明言される
東京・北の丸公園(2011-10-20)
*延暦10年(791)
7月13日
・大伴弟麻呂(おとまろ)が征東大使に、百済王俊哲・坂上田村麻呂・巨勢野足(こせののたり)・多治比浜成が、征東副使に任じられる。
のち、征東使は征夷使に改称される。
征東大使大伴弟麻呂:
従四位下、61歳。延暦2年に征東副将軍に任じられ陸奥に赴任したが、征東将軍大伴家持の死去によって征夷が中止されたため、実戦経験はない。
持節将軍は前線で実戦指揮するのではなく、後方で征夷軍全体を統括するので、高齢で実戦経験がなくとも不都合ではない。
征東副使の百済王俊哲と多治比浜成は従五位上、坂上田村麻呂と巨勢野足は従五位下。
田村麻呂以外の3人は、征討使或いは鎮守府官人を経験し、陸奥按察使・国司・鎮守府官人を兼任していた。
征討使と現地官人の兼任は、これ以降の特徴で、現地官人を征討使の組織の中に取り込み、指揮系統を明確化したものと評価されている。
延暦8年の胆沢の征夷で、征東副使と鎮守副将軍の連携がうまくいかなかったことを踏まえた改革である。
・百済王俊哲は、長く鎮守副将軍・鎮守将軍などを務め、実戦経験が豊富なベテラン。
この年正月18日に閲兵のため東海道に派遣され、4日後には下野守に任命され、東海道の閲兵を終えた後は、東山道の下野国府にいたと思われる。
革甲や糒の準備にも関わったと思われる。同年9月には鎮守将軍を兼任(延暦6年に解任されて以来の復任)。
・多治比浜成は、延暦8年の第1次征討で征東副使を務め、唯一軍功を認められた人物。
延暦9年3月に陸奥按察使兼陸奥守となり、敗戦後の体制の立て直しを行っていたとみられる。
・巨勢野足は43歳で、延暦8年征夷の胆沢の敗戦の勘問が行われた直後の延暦8年10月に、鎮守副将軍となり、延暦11年には陸奥介を兼任する。
のち嵯峨朝では藤原冬嗣と共に最初の蔵人頭となるが、中衛少将・左衛士督・左兵衛督・左近衛中将・右近衛大将といった武官の要職を歴任している。
延暦8年の敗戦後、陸奥に鎮守副将軍として派遣されたのも、武人として優れていたからであろう。「人となり鷹・犬を好む」という(『公卿補任』弘仁7年条)。
第2次征討の大使・副使は、田村麻呂以外は陸奥国への赴任経験があり、実戦経験者も2人いる。実戦経験のない巨勢野足も武人として優れているし、田村麻呂も優れた武人である。
経験と武力に裏打ちされた強力な布陣で、桓武の意気込みと期待が窺える。
田村麻呂起用の意味
坂上氏は渡来系氏族の東漢(やまとのあや)氏の一族。
坂上田村麻呂の薨伝(『日本後紀』)に、「家世武を尚び、鷹を調へ馬を相る。子孫業を伝へ、相次ぎて絶へず」とあるように、代々武芸を以て朝廷に仕えた(『日本後紀』弘仁二年(811)五月丙辰条)。
父の苅田麻呂は授刀少尉であった天平宝字8年(764)、恵美押勝の乱の鎮圧に活躍し、その功績によって従四位下の位階と大忌寸(いみき)の姓(かばね)を与えられ、中衛少将に任じられた。桓武即位の翌月、右衛士督(うえじのかみ)となり、延暦4年(785)には従三位の位階と大宿禰(すくね)の姓を授与されている。
苅田麻呂は、東漢氏の祖である阿智使主(あちのおみ)が後漢霊帝の子孫であると主張し、東漢氏の支族の姓を忌寸から宿禰に変えることに成功している(『続日本紀』延暦四年六月癸酉条)。
東漢氏は実際には朝鮮半島から渡来したとみられるが、新たな主張を展開し東漢氏全体の地位を向上させた。
田村麻呂は、武門の坂上氏の伝統を受け継ぎ、父の栄達と彼自身の武人としての才能によって、桓武天皇の信任を得る。
宝亀11年(780)に23歳で近衛将監となり、30歳で近衛少将、42歳で近衛権中将、44歳で近衛中将、49歳で中衛大将、翌年中衛府が右近衛府に改組されると初代の右近衛大将となる。
近衛府の官人は天皇側近の武官であり、その要職を歴任した田村麻呂は、天皇の信任が特に厚かった。
田村麻呂の薨伝には、「田村麻呂、赤面黄鬚にして、勇力人に過ぐ。将帥の量あり。帝これを壮とす」、「頻りに辺兵を将ゐて、出づる毎に功あり。寛容にして士を待ち、能く死力を得たり」とある。
顔が赤く鬚(あごひげ)が黄色で、勇気と腕力が人に勝り、将軍としての力量があったので、天皇はそれを頼もしく思っていた。
一方で、寛容で士卒を大切にしたので、よく部下の死力を得ることができたとの評価である。
今回の征東使の中では最年少34歳で参加。
これまでの征東使が逗留して進軍しなかったり、無断で軍を解散するなど、天皇の意に反する行動をとることがあったので、腹心の武官を征東副使に任じることによって、征夷に天皇の意思を反映しやすくしたと思われる。
田村麻呂は桓武にとっての勝利の切り札として起用された。
*
8月
・この八月、夜間に群盗が伊勢大神宮に侵入、正殿一宇・財殿二字に放火し、門三間・垣一重を焼く。桓武天皇は直ちに参議紀古佐美らを派遣して、幣帛を捧げて出火を謝し、再建の措置を講じる。
*
9月16日
・八ヶ国に命じて平城宮の諸門を長岡宮に移建させる。平城京廃都が決定的になる。
平城宮の諸門を長岡宮に移築せよとの命令を、越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊予の諸国に下す。これらの国々の多くは、後に平安官の美福(びふく)・偉鑑(いかん)・藻壁(そうへき)・待賢(たいけん)・陽明(ようめい)・談天(だんてん)・郁芳(いくほう)の諸門の造営を命じられているので、この時長岡宮に移し建てられたのも、これらの諸門に相当する門だったのだろう。
この措置は、もはや平城京に帰ることは無い、という意思表示である。
しかし、遷都から7年になろうというこの時点で、宮を取り囲む諸門がまだ出来上がっていない状況である。
*
10月
・前年元服したばかりの安殿皇太子に不例の日々が続き、なかなか快癒せず。
10月27日、小康状態になって、皇太子は自ら伊勢大神宮に参拝。
皇太子の心身の異状はその翌年にまで及ぶ。
朝廷の陰陽師は、はっきりと早良親王の怨霊がとりついているのだと言う。
桓武天皇は、諸陵頭を淡路国に遣わし、かさねてその亡霊に陳謝の意を表す。
桓武は、皇太子時代に伊勢神宮を訪れた経験がある。安殿の伊勢参拝も父桓武の指示であろう。
この他、遷都や征夷に関して伊勢への奉幣記事が頻出する。
桓武が伊勢を深く信仰していたことがわかる。
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10月25日
・東海道・東山道諸国に征箭(そや、矢)3万4,500余具を作ることを命じる。
矢は兵士1人が胡簶(ころく)に入れて背負う50隻を1具と数えるので、これは172万5千余隻という膨大な数である。
*
11月3日
・桓武天皇は、坂東諸国に対して軍粮の糒12万余斛の準備を指示。
前年閏3月にも糒14万斛の準備を命じている。
*
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