昭和16年(1941)10月19日
十月十九日。青空隈なく晴渡りて風もなし。
晝飯食ひし皿小鉢も洗はずその儘にして家を出づ。足の向くまゝまたもや小石川の故里を歩む。牛天神より傳通院の境内に少憩し電車にて同心町竹早町の通を大塚仲町に至る。
法華寺善心寺に栗本鋤雲の墓あることを思出し寺の門を入る。
この寺の僧盆栽を好むとおぼしく数年前来りし時には本堂の前に植木棚をつくり皐月躑躅花の鉢を数知れず並べたるを見しが、この度は菊の鉢を置きつらねたり。既に花の咲きたるもあり。庫裏入口のほとりに見事なるドウダンの圓く刈り込みたるが美しく霜に染みたり。黄楊の古木を刈り込みて屋根の形になしたるもあり。其後に盆栽多く並べたるさま植木屋の庭を見るが如し。住職の風流思ふべきなり。寺男に樒線香を運ばせ本堂の後なる鋤雲の墓を拝す。勒する所の文字左の如し。
(略)
善心寺墓地のはづれは険しき崖にて大塚坂下町の陋巷を隔て護国寺の丘陵を望む。老樹茂(お)ひしげりて甚幽寂なり。
寺を出で仲町の四辻に佇立みて電車を待つ。音羽目白台の眺望あり。
淺草に至りオペラ館楽屋に休憩す。踊子等と共に汁粉屋つくしに至りて汁粉を食す。いつも汁粉は品切なれどこの日珍らしく注文に応じたり。
去年冬頃より市中到處汁粉羊羹の如き甘き物なくなり。たまたま之を味ひ得る時は人々歓喜してその幸運を祝するなり。
燈刻芝ロの金兵衛に夕飯を喫す。偶然歌川氏に遇ふ。
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10月20日
十月二十日。晴。
晝頃隣のかみさん來り隣組にて昨日合議の末先生のところは女中も誰も居ない家政今度の防空演習には義務も何もないものとして除外致しました。
ヘルマンさんのところは女中だけで御主人は外国人故これも先生と同じく防火團には入れない事に致しましたと言ふ。
何分よろしくと荅へ過日人より貰ひたる栗を箱のまゝ贈りたり。
明後二十二日より世の中暗闇になる由。
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10月21日
十月廿一日。今日も晴渡りてよき日なり。庭の野菊石蕗花と共に吹き出で蟲の聲晝の中より静なり。
正午銀座に徃きて食料品を買ふ。明日より三四日の間外出し難き形勢なればなり。
正午の頃の銀座通は男女店員の休憩時間とおぼしく事務服のまゝ散歩するもの多く、飲食店はいづこも店員にて雑沓せり。
亀屋相模屋など食料品賣る店には山の手の奥様令嬢らしき女の出入頻繁なり。其服装を見るに帯は皆金欄に金銀の縫箔をなしたり。赤地に金銀の孔雀の尾を縫ひ取りになし衣服は一面に赤き蔦の葉を染めたるが如きを平気で着てゐるもあり。されど通行の人さして珍しとも滑稽とも思はぬと見え振返り見るものも無し。
数年前カフェーの女給の華美姿(はですがた)に比すれば更に一層毒々しくきらびやかになりたり。
淺草興行場の女藝人の舞台衣裳といヘども尚三舎を避くべきもの遂に良家の婦人が外出の衣服とはなれるなり。
金銀にてぴかぴかひかるものを好むこと現代の日本人ほど甚しきはなかるぺし。
男は勲章まがひの徽章其他を胸につけ、女は模造の蜀紅錦ならでは帯にせず。是軍人執政の世の風俗なり。
外形既に斯くの如し。其性情趣味に至つては推して知るべきのみ。
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10月22日
十月廿二日。今日は世間騒しく夜は暗闇になると思ひの外日の丸の旗あちこちに飜り夜も暗くはならぬ由。どこやらに御嫁入の御祝事あるが故なりとぞ。
正午士州橋に行き歸途日本橋に出で八木長にて鰹節を買ふ。
鰹節も近き中に米同様切符制になるべき噂盛なれば萬一の事に備へむとするなり。
余は今日まで鰹節の事など念頭に置きしこともなく洋風の肉汁あらば事足れりとなせしが、今年春頃より食料品何に限らず不足品切となり、こゝに始めて昔の人の饑饉の用意に米と鰹節と梅干あらば命はつなぎ得ぺしと言ひたることの真實らしきを知りたるなり。
暖き粥に鰹節醤油梅干を副食物となせば一時の空腹をいやし得べし。
陶靖節の集をよみて眠る。
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*善心寺はこの辺りにあったようだ
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