2011年10月8日土曜日

永井荷風年譜(22) 大正6年(1917)満38歳 日記「断腸亭日乗」を書き始める

永井荷風年譜(22) 大正6年(1917)満38歳
1月
浄瑠璃『懸想狐』(のち『旅姿思掛稲』)を「文明」に掲載。
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1月4日
市川左団次の仲裁で、荷風と小山内薫、久保田万太郎の間の紛糾は落着。
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2月
『初硯』を「文明」に掲載。
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3月
『築地がよひ』を「文明」に掲載。
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3月28日
荷風、庭後(籾山仁三郎)、小山内薫ら、左団次の駿河台の新居に招かれる。
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4月
『西遊日誌』を「文明」に掲載(10月まで6回。のち『西遊日誌抄』)。

序文で荷風は、
自分はこの3年はど体調が悪い。大石医師に余命はどれほどかと聞くと、「恐らくは常命五十年を保ち難からん」という。
「余元よりかくあらんと兼てより覚悟せし事なれば深くも驚かず」。
ただその日から身辺整理をするようになった。
あるとき書庫の棚を片づけようとして、昔書いた「西遊日誌」4、5冊を見つけた。はじめ庭で焼き捨てようとしたが、ふと読み返していくうちに「感慨忽ち禁ぜず、薄暮迫り来るも猶巻を掩ふ事能はず」。
ついに日記の、後日人の迷惑になるようなところを削って、再び書庫におさめた。
と、経緯を説明。

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5月
『飛花落葉』(のち『草箒』)を「文明」に掲載。
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6月7日
井上唖々『馬物語』、荷風『猥褻独問答』によって、「文明」編集人籾山が警視庁に呼び出される。
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7月
『四畳半襖の下張』を「文明」に掲載。
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8月
この頃、身体の調子が悪く病臥しがち。
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9月16日
日記の執筆を再開(『断腸亭日乗』の始まり)

「断腸亭日記巻之一大正六年丁巳九月起筆
荷風歳卅九
〇九月十六日、秋雨連日さながら梅雨の如し。夜壁上の書幅を挂け替ふ。
・・・・・                                             
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〇九月十九日。秋風庭樹を騒がすこと頻なり。牛後市ヶ谷邊より九段を散歩す。  
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〇九月二十日。昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石國手の来診を待つ。
そもそもこの陋屋は大石君大久保の家までは路遠く往診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんが為めに借りたるなり。南鄰は区内の富豪高嶋氏の屋敷。北鄰は待合茶屋なり。
大石君の忠告によれば下町に仮住居して成るべく電車に乗らずして日常の事足りるやうにしたまへとの事なり。されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、米青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。此夜木挽町の陋屋にて独三味線さらひ小説四五枚かきたり。
深更腹痛甚しく眠られぬがまゝ陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす。」 

中洲病院通院の便をおもって京橋区木挽町9丁目に住み無用庵と呼称
この頃、父の旧宅を永の住み家として住んでいるが、胃腸の疾病で苦しみ、主治医の大石医師の来診を待つために木挽町9丁目に仮住居を借り、これを「無用庵」と呼ぶ。
中村ふさをここに入れる。ここで「おかめ笹」を執筆。旧宅の方は「断腸亭」と呼ぶ。

九月三十日の日記
「深夜一時頃より大風雨襲来。無用庵屋根破損し雨漏り甚し。黎明に至りて風雨歇む。築地一帯海嘯に襲はれ被害鮮からずと云」とある。

十月二十六日の日記
「写真師を招ぎて米青閣内外の景を撮影せしむ。予め家事を整理し万一の準備をなし置くなり」
(本格的転居への準備のような・・・)
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10
私家版「腕くらベ」刊行の見積りを籾山に依頼。
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10月14日
神楽坂貸席で催された大田南岳追悼句会に出席。
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初冬にさしかかり漸く健康を回復し始める。
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12月4日
「腕くらべ」校正終了、翌5日脱稿なった「おかめ笹」を中央公論社に渡す。
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12月10日
『紅箋堂佳話』(後の『雨瀟瀟』に関連がある)を起稿。
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この月
籾山庭後との意見の相違が決定的となり、「文明」から手を引く。

十二月廿八日。米刃堂主人文明寄稿家を深川八幡前の鰻屋宮川に招飲す。
余も招がれしかど病に托して辞したり。
雑誌文明はもともと営利のために発行するものにあらず。
文士は文学以外の気焔を吐き、版元は商売気なき洒落を言はむがために発行せしものなりしを、米刃堂追々この主意を閑却し売行の如何を顧慮するの傾きあり。
予甚快しとなさず、今秋より筆を同誌上に断ちたり
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▼木挽町の「無用庵」(現在のこのホテルあたり)

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