2013年2月8日金曜日

1765年(明和2年)2月~6月 イギリス議会、印税紙法・軍隊宿営法可決を可決 バージニア、マサチューセッツ議会、反対決議 【モーツアルト9歳】

北の丸公園 2013-02-07
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1765年(明和2年)
2月
・幕府、山城の葛野(かどの)郡梅津大明神へ修復料として銀200枚を寄付し、江戸内での安産の守札・産砂の販売を許可。
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・徳島藩、幕府の許可をえて由良港の普請に着手。
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2月8日
・モーツアルト父レオポルト、ザルツブルクの家主ハーゲナウアー宛手紙。
「15日の晩に音楽会を一つ催しますが、これで多分150ギニーの収入があるでしょう」。
この演奏会では、モーツァルト作曲の交響曲を演奏
(第1番変ホ長調K16、ハ短調K16a、第4番ニ長調K19、長調K19aと考えられている。K19aは1980年秋ミュンヘンのバイエルン図書館に持ちこまれた楽譜類の中に自筆譜が紛れ込んでいたもので新発見の交響曲。モーツァルティアンの間で大フィーバーとなった)。
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2月21日
・モーツァルト、ヘイ・マーケットの小劇場で公開「声楽ならびに器楽の演奏会」開催、ロンドンで作曲された交響曲(交響曲第1番、K.16)、K.19他演奏。
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3月4日
・フランス、クレール・ラコンブ、スペイン国境に隣接するアリエージュ県パシェで誕生。両親共にどさ廻り劇団員。クレール・ラコンブは南フランスでは人気女優となる。
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3月7日
・講釈師の深井志道軒(84)、没。
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3月20日
・この日付のロンドン「パブリック・アドバタイザー」紙に、6つの「クラヴィアとヴァイオリンまたはフルートのためのソナタ」(K10~15)出版の広告。
「・・・女王陛下に捧げられたハープシコードのための6つのソナタ。ヴァイオリンまたはドイツフルートとチェロの伴奏つき。6歳のI.G.ヴォルフガング・モーツァルト作曲。・・・今週の火曜と金曜を除く午後12時から3時まで、ソナタを購入するかコンサートの切符を買い求めれば光栄にも彼と会うことが出来る。この私的なコンサートでは、この若い作曲家と姉の演奏が聴けるだけではなく、初見でどんな曲でも弾いたり、ハープシコードを使わずにその場で作曲するなど、皆様の好奇心を満足させることでしょう」
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3月22日
・イギリス議会、植民地住民に対する印税紙法を可決。
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3月24日
・イギリス議会、軍隊宿営法可決。植民地で軍馬の宿舎と食糧提供が義務付けられる。
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3月28日
・トルコ、メフメト・パシャが宰相就任。
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4月26日
・ネルソン提督愛人エマ・ハミルトンとなるエマ・ライオンズ、ランカシャーに誕生
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5月
・後藤梨春が「紅毛談(オランダはなし)」を刊行し、エレキテルと称する電気医療器を紹介するが、オランダ文字を文中に使ったため、幕府から絶版に処される。
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・浅草の名主、柄井川柳(1718~90)、川柳集「誹風柳多留」初編、刊行。
かみなりを まねて腹掛 やっとさせ
是小判 たった一卜晩 居てくれろ
本降りに 成て出て行く 雨やどり
これらは、『俳風柳多留・初編』に収められた句である。
こののち柄井川柳は5代まで続き、『俳風柳多留』は天保9年(1838)まで167編が刊行された。

江戸市中では、上野山下仲町の桜木連、牛込御納戸町の蓬莱連など、地域的な川柳サークル(連)も生まれた。
連は月並の句会を催したり、句集を刊行したりした。
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5月1日
・鳥取藩、城下に蝋座を設置し、国産蝋の専売制を開始。
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5月13日
・この日以前、モーツアルト、ロンドンで姉ナンネルとの共演用にK.19d 四手のためのピアノソナタ(ハ長調)作曲。

この日、モーツアルト、ロンドンでクリスチャン・バッハとアーベルによって始められた演奏会に出演。 ブルワー・ストリートのヒックフォードの大広間。
この日か2月21日の音楽会で、テノール歌手チプランンディがアリア「行け、怒りにかられて」(K21)を歌ったと推測されている。このアリアは、劇作家モーツァルトの出発点となる最初のアリア。
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5月17日
・モーツアルト、K.19a (Anh.223) シンフォニアの初演。
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5月29日
・バージニアとマサチューセッツの議会、印紙税法、軍隊宿営提供法反対を決議。
秘密結社「自由の息子たち」、同法反対運動を展開。
イギリス製品不買運動拡大。
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6月
・仙台藩主伊達重村、自ら直接指揮をとって中将任官運動にのりだす。
重村は、前年、先代から同格の扱いを受けてきた鹿児島藩主島津家当主重豪が先に中将官位になったのは不都合だと考え、自分も中将官位になろうと決意し、大奥に手をまわして関東筋川々御普請御手伝を拝命などするが、未だ不十分として、この月いよいよ自ら直接指揮をとる。
その時の直筆指示書には、公儀向手人の重点として老中松平武元と側衆田沼意次とが、大奥に手人をする場合は女高岳の名をあげている。
松平武元は、先に伊達家からも手人を受け、それに対して「甚満足ニ被存」たと記されており、今回の手人に対しても、「目立たないように、供の人数もへらして、長屋の方へ来るよう」指示しており、彼が幕閣の中で実力者だる事を物語る。

しかし、運動は成功しないと見え、重村は一橋家家老田沼意誠に斡旋を頼んでいる。
運動の進め方について重村が意誠に「明後年も松平武元などに手人をする必要があるだろうか。そうしなくても明後年頃には十中八九は昇進が実現するのではないだろうか」と問合せると、「明後年とても、手入なくては心許ないので、是非松平武元と田沼意次に手人をするように」と勧める。

これを見ると、松平武元のカは未だ衰えていないが、田沼意次のカも無視できないものである事がわかる。

伊達重村が中将官位になるのは明和4年(1767)12月のことである。
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・摂津、川辺郡山本村の農民が徳川家康の朱印状を届け出て、幕府から銀5枚を与えられる。
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・英国学士院会員で法律家兼自然科学者ディンズ・バリントン卿、モーツアルトと面会、楽才をテスト。報告書・論文発表。学士院の刊行物である「哲学紀要」(1771年)に掲載。
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・モーツアルト、 最初の教会作品である、モテット「神はわれらの避け所」(K.20)を作曲。
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