建仁寺 方丈 2013-08-13
*長元9年(1036)
この年
・奥六郡司安倍忠良(ただよし)を陸奥権守に補任(『範国記』)。前九年の役の主役、安倍氏の登場。
寛仁2年(1018)8月、陸奥守藤原貞仲(さだなか)と鎮守府将軍平維良との間で合戦。
将軍維良は奥六郡で略奪的な徴税と交易を行ったあげく、任終年を迎えて累積未進の処理などを巡り国守貞仲と対立した。
この合戦によって維良は解任された。
その後も、平永盛(ながもり、天慶勲功者の平群清幹=へぐりのきよもと子孫)・藤原頼行(秀郷子孫、兼光の子)と武士系将軍が続いたが、万寿4年(1027)に在任した頼行を最後に、天喜元年(1053)に源頼義が鎮守府将軍に任命されるまでの26年間、将軍補任はみえない。
将軍維良の略奪的な奥六郡支配に手を焼いた陸奥国司は、頼行の任期切れとともに将軍の停止を政府に求め、有力俘囚首長の一人、安倍忠良(ただよし)を奥六郡司に起用して奥六郡支配を委ね、福島城での夷狄交易も委託したものと推測される。
9世紀、俘囚首長の多くは、丈部(はせつかべ)などの俘囚の姓から阿倍陸奥臣(あべのむつおみ)・阿倍会津臣(あいづおみ)などに改姓されていた。
忠良の祖も、奥郡を本拠とする俘囚首長が改姓して安倍氏を称した。
彼が京から派遣された国司とする見解があるが、諸国の有力在庁官人らが肩書きだけの権守や権介に補任されることは普通に行われており、彼は陸奥国司から五位に斡旋され権守に推挙された在庁官人であった。
その子で父同様五位の肩書きを持ち通称を「安大夫(あんたゆう)」と称した頼良は、受領郎等として入国しそのまま土着して伊具(いぐ)郡司・亘理郡司になっていた伊具十郎(平永衡)・亘理権大夫(藤原経清:つねきよ)を婿に迎え、陸奥国内での地位向上・勢力拡大に努めた。
こうして安倍氏は、
「部落みな服従し、六郡を横行し、人民を劫略し、子孫滋蔓(じまん)す」(『陸奥話記」)、
「都県を領して胡地とし、人民を駆使して蛮虜とし、数十年の間、六簡郡の中、国務に従わず」(源頼義奏状)
といわれるように、奥六郡に君臨することになった。
頼良の子弟は六郡内各地に館(たて、柵さく)を築き、館を拠点に地域支配を行い、六郡内の俘囚たちを臣従させ、国衙に官物を納めず雑役を負担しなかった。
頼良はさらに奥六郡以南の公領にも進出し、検田や官物納入を拒否していた。
奥六郡司安倍氏の支配は、受領や鎮守府将軍の略奪的支配を排除した点で、俘囚による「自治」権の獲得であった。
奥六郡内の防御性集落が北方夷狄に対していたのに対し、安倍氏の柵は受領の強制執行部隊に対して築かれたものであった。
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・イングランド、エドワードとアルフレッド(エマ皇太后の息子)、イギリス侵攻、失敗。アルフレッドは捕縛、殺害。
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・フィレンツェの近く、ヴァロンブローザ修道院設立。
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・ジール朝アミールのムイッズ、シチリア島に軍隊を派遣(ジール朝;ファーティマ朝がエジプトに移った後、アフリカで建国)。
シチリア・カルブ朝アフマド、ジール朝との戦いで殺害(位1019~1036)。
ジール朝アミール息子アブド・アッラーフ、シチリア総督に就任(在1036~1040)。
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・キエフ内乱終息。ヤロスラフがキエフを統一。
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2月27日
・源資通(1005~60)、摂津守補任。
宇多源氏。父済政。室は頼光女子。長元8年10月16日権左中弁補任。
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3月
・曲水宴の際、安楽寺(大宰府にある寺院)と大宰権帥藤原実成が闘乱、
安楽寺が訴えを起す(実成の郎等の源致親が安楽寺の雑物を盗む)。
閏4月14日に定があり、5月15日使者(推問使)出立。長暦2年(1038)2月19日裁定、実成は中納言・大宰権帥を解任、致親は隠岐へ配流。
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4月17日
・後一条天皇(29)、没(誕生:寛弘5(1008)/09/11)。第68代天皇。
同母弟、敦良親王(28、後朱雀天皇)が受禅。
7月、後朱雀天皇即位。
藤原頼通が引き続いて関白を務める。
翌年、皇太子として道長の娘嬉子の生んだ親仁(ちかひと)親王が定められる。
後朱雀天皇(1009~1045/1/18):
父一条天皇、母藤原道長の娘彰子。寛仁元年(1017)8月9日敦明親王の辞意により後一条天皇の皇太子となる。
長元9年(1036)4月17日後一条没により受禅。7月10日即位。寛徳2年(1045)正月16日譲位。18日出家、同日没。
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4月17日
・藤原俊家(1014~82)、後朱雀天皇の蔵人頭に補任。北家。父頼宗、母藤原伊周女子。
長元8年(1035)10月17日後一条天皇の蔵人、同7年(1034)2月8日右中将、同8年(1035)正月12日備後権守補任。のち「大宮右大臣」と呼ばれる。
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9月6日
・後一条天皇の中宮藤原威子(38)没。三后・中宮が全て空位となる。
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9月27日
・この年の京での地震のために、この日まで天災地変祭を八省院で行い、この日から3日間地動際を行う。
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10月14日
・源頼義(頼信の長男、既に50歳近い)、長年小一条院の判官代を勤めた労によって相模守に就任(『範国記』)。
就任後間もなく、かつて忠常の乱平定に失敗した平直方の娘と結婚し、鎌倉の屋敷や東国の家人、そして(桓武平氏)貞盛流平氏が有していた名声などを譲渡される。
直方が頼通家人であったことを考えれば、この婚姻も頼信一族が頼通に近侍した結果と考えることができる。
文官として活躍する弟頼清(既に四位になっている)に対抗するためにも、頼義は武士としての立場を強化する必要があった。
彼が直方の女婿となって、その権威を継承した背景には、武士として河内源氏嫡流の立場を確立する意図があったと考えられる。
直方の娘との間に義家が生まれるのは長暦3年(1039)、頼義が既に50歳を超えてからのこと。
それ以前に子がなかったのかもしれないが、あえて年齢の離れた義家を嫡男としたのは、母方の出自が武家を継承するのに相応しいものだった。
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10月24日
・藤原経任(1000~66)、侍従補任。北家。父懐平、母藤原佐理女子。のち藤原斉信養子。参議補任は長元8年10月16日。
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10月28日
・出雲大社の正殿式造営遷宮、執行。
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12月26日
・藤原経輔(1006~81)、後朱雀天皇の蔵人頭に補任。北家。父隆家、母源兼資女子。
長元2年(1029)正月24日左中弁補任、同2年12月21日造大安寺長官、同7年(1034)10月20日後一条天皇蔵人頭、同8年(1035)正月30日左京大夫、同9年(1036)正月29日美作権守。歌人としても著名。
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