三十二 「濹東綺譚」と「寺島町奇譚」
漫画家滝田ゆう、昭和7年に寺島町で生まれている。
玉の井という町名はなく、当時は向島区寺島町である。
「濹東綺譚」のお雪は「わたくし」に会った夜に、三味線のバチの形に切った名刺を渡すが、そこには「寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子」となっている。
「この番地のあたりはこの盛場では西北の隅に寄ったところで、目貫(メヌキ)の場所ではない」
「其家は大正道路から唯ある路地に入り、汚れた幟の立っている伏見相荷の前を過ぎ、溝に沿うて、猶奥深く入り込んだ處に在る」と説明されている。
寺島町の町名は現在はもうなく、寺島町7丁目61番地というと、現在の東向島5丁目25番地から27番地あたり。平和通りと呼ばれる小さな商店街を水戸街道に向かって左に入った住宅地の一角になる。
「日乗」昭和11年5月16日に、荷風自筆の玉の井の地図がある。
この地図の右肩、京成バスの車庫の上に伏見稲荷が見える。
また「日乗」昭和12年6月20日には、「鹿島大覚」というこの伏見稲荷の神官から荷風に宛てて書かれた手紙が紹介されているが、神官の住所は「寺島町七ノ六五」となっている。
お雪の家は「寺島町七丁目六十一番地」だから、伏見稲荷のすぐ近くとわかる。
伏見稲荷は、戦後も現在の東向島五丁目二十六番地にあったが(戦災で焼け、戦後再建されたもの)、現在はなくなっている。
滝田ゆうは代表作「寺島町奇譚」(「ガロ」昭和43年12月号~45年1月号、及び、「別冊小説新潮」47年)で、この、いまは名前の消えてしまった寺島町(玉の井)の様子を回想して克明に描き出している。
玉の井の私娼街にある「ドン」という電気プランを飲ませるスタンド・バーの家の子どもキヨシが主人公。滝田ゆうの子ども時代の姿である。
キヨシは小学生。時代は昭和15、6年ころ。荷風が歩いたころよりは少し下っているが、町の様子はほとんど変っていないと考えていいだろう。
滝田ゆう自身は、『滝田ゆう作品集』(青林堂、昭和44年)「あとがき」で「寺島町奇譚」執筆に際して、資料などのひもどきは全くせず、記憶だけを頼りにした、だから「この漫画の中にみられる時代推移の設定と描写にはアッチャコッチャで無理があり、いたるところでくい違ってしまっていて今更の如く赤面の顔を赤くしている」と書いているが、町の様子にはそこで生まれ育った土地っ子ならではの細部が描きこまれており、「濹東綺譚」と合わせて読んでみると面白い作品になっている。
荷風が玉の井を外側から見たのに対し、滝田ゆうは内側から見た。
滝田ゆうは玉の井についてこんなことを書いている。
「色街と言っても、江東”玉の井”は、かつてその湿地帯跡に出来た私娼窟であり、べつにこれと言った格式もなく、そこはいわば単に春をひさぐだけの赤線地帯に過ぎなかった」
「町は色街と共存してあり、ぼくたちはそこを銘酒屋と呼んで、その入り組んだ迷路のごとき露地小路を、格好の遊び場として、つねに駆けずり回っていたのである」(『裏町セレナーデ』双葉社、昭和52年)
荷風は「濹東綺譚」のなかで、お雪の家を「溝際(ドブギワ)の家」と呼び、この溝はむかしの吉原を取り巻いていた「鉄漿(オハグロ)溝より一層不潔に見える」と書いている。
事実そのとおりだったことは、滝田ゆうの幼なじみという三遊亭円歌も、筑摩書房版『滝田ゆう漫画館』の『寺島町奇譚(下)』(平成4年)に寄せた解説「町も登場人物もみんな懐しい」のなかで、「われわれが育った町の雰囲気は、ゆうちゃんの描いたこの『寺島町奇譚』そのままだね。どぶ川があったり・・・。それがまた汚いどぶ川でね、真っ黒なんでおはぐろどぶって呼んでた。その周りに女郎屋さんがあったんですね」と触れている。
この「汚いどぶ川」さえも、そこで生まれ育った子どもには格好の遊び場所になる。「
寺島町奇譚」の一篇「おはぐろどぶ」には、キヨシ(坊主頭)をはじめ町の子どもたちが、どぶにワリバシや笹の葉で作った舟を浮かべて競走させて楽しそうに遊んでいる姿が描かれている。
ワリバシと笹舟がドプ板のトンネルに入る。するとキヨシたちは入り口にまわり、ほとんどどぶに顔をくっつけるようにして舟がトンネルから出てくるのを待ちうける。
「汚いどぶ川」も子どもにとっては清流に見立てられている。
玉の井を内側から描くとはこういう細部を充実させることである。
「キヨシはそこを地元として、その迷路のごとき小路から小路へと、ドブ板踏み鳴らして駆け巡り、ときにはそのココロやさしきお姐さんたちの心情目の当りに、なにやらさまざまな影響を受けて育った」(滝田ゆう『私版昭和迷走絵図』東京堂、昭和62年)
路地、どぶ、銭湯、夜店、質屋、射的屋、ビリヤード場(玉突)、防火用水……、滝田ゆうはそうした東京下町の情景を丹念に描きこんでいる。「濹東綺譚」のなかに、お雪と「わたくし」がチリンチリンと鐘を鳴らしながら路地にやってくる水屋から白玉を買って食べるくだりがあるが、滝田ゆうも路地に入り込んでくるさまざまな物売りを措いている。
豆腐、アサリとシジミ、玄米パン、きびだんご、あるいは包丁とぎ、さらには汲み取り屋の馬車もやってくる。このあたりは色街とはいえ下町の普通の町と変らない。
玉の井は新開地だったからまだあちこちに原っぱが残っていた。そこではときどき見世物小屋が掛かった。荷風はそれを記録にとどめている。
昭和12年5月10日
「夜浅草より玉の井を歩む。東武停車場のほとりの空地に曲馬かゝりて賑なり。廣小路には夜見世を見歩く人影しげく、あたり一帯にいかにも夏の夜らしき景気になりぬ」
同年5月12日
「銀座に飯して玉の井に至る。昭和病院裏の空地に曲馬の見世物あり」
「濹東綺譚」では、「失踪」の主人公種田順平にカフェーの女給すみ子が玉の井の町を説明するときに、「賑よ。毎晩夜店が出るし、原っぱに見世物もかゝるわ」といっている。
昭和2年に玉の井に生まれ、現在もこの地に住む画家の小針美男によると、この原っぱは、寺島町6丁目の改正道路(現在の水戸街道)に面したところにあり、町の子どもたちには「ゴリラが原」と呼ばれていたという。
「濹東綺譚」の「わたくし」は玉の井からの帰り、寺島町六丁目の市バスの停留所で浅草行きのバスを待ちながらこの原っぱを見やる。
「この空地には夏から秋にかけて、ついこの間まで、初めは曲馬、次には猿芝居、その次には幽霊の見世物小屋が、毎夜さわがしく蓄音機を鳴し立てゝゐたのであるが、いつの間にか、もとのやうになって、あたりの薄暗い灯影(ホカゲ)が水溜(ミズタマリ)の面(オモテ)に反映してゐるばかりである」。見世物小屋の掛かる原っぱまで丹念に書きこむことが出来るのも、繰返された町歩きの結果である。
「濹東綺譚」にはまた、路地口には「ぬけられます」「安全通路」「京成バス近道」「オトメ街」「賑本通」などと書いた灯がついているとあるが、滝田ゆうの絵でも路地を描くときは必ず「ぬけられます」「ちかみち」「安全通路」などの看板が描きこまれている。
「ぬけられます」は玉の井の愛称といっていいほど有名な表示で、私家版『濹東綺譚』の表紙には「ぬけられます」の文字があしらわれている。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿