AERAのエッセイには「戦争ができる国」について書きました。国家安全保障会議関連法と特定秘密保護法で、緊急事案については内閣総理大臣が「迅速・適切な対処」を指示することができ、その過程でどういう情報が上がり、何が議論され、何が決定されたか、僕たちは「かやのそと」になります。
— 内田樹 (@levinassien) 2013, 12月 18
たぶん「次の戦争」が始まるとき、それは「東シナ海沖にて某重大事案が発生し、内閣は迅速かつ適切な措置を講じ、ただいま交戦中」というニュースを「大本営発表」として聞かされるというかたちになるでしょう。
— 内田樹 (@levinassien) 2013, 12月 18
首相が戦争をしたがっていることは10月の自衛隊観閲式での式辞からもわかります。「『防衛力はその存在だけで抑止力になる』という従来の発想は捨て去ってもらわなければいけない」と彼は言いました。従来、抑止力は「相互確証破壊」をベースにして「存在するだけで機能する」ものとされています。
— 内田樹 (@levinassien) 2013, 12月 18
でも、それは核抑止力に限るものであって、通常兵器による戦争では「適宜行使することではじめて抑止的に機能する」と首相は考えているのでしょう。完全にアンダーコントロールにあり、好きなときに始められ、好きなときに止めることのできる戦争。非戦闘員が死なず、都市も破壊されない戦争。
— 内田樹 (@levinassien) 2013, 12月 18
始まると翼賛的世論が盛り上がって、内閣支持率が跳ね上がり、反政府的世論が抑圧され、軍事産業関連株価が急騰する、そんな「おいしい戦争」を首相は夢見ているのでしょう。
— 内田樹 (@levinassien) 2013, 12月 18
このような楽観的な戦争観はまさに68年間の平和がもたらした「平和ボケ」の産物という以外にないのですが、日本国民はまさに「平和ボケ」の重篤な症状として「戦争したい気分」に罹患している。
— 内田樹 (@levinassien) 2013, 12月 18
わずか二度の国政選挙で、それも「民主党にお灸を据える」とか「決められる政治」とか「ねじれ解消」とかいう日常語でだらだらと政治を論じているうちに、政治過程が日常生活そのものを脅かすところまで肥大化してしまったのでした。政治を日常感覚でコントロールできると思ったことの帰結です。
— 内田樹 (@levinassien) 2013, 12月 18
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