2014年2月3日月曜日

康平2年(1059)~康平3年(1060) 菅原孝標女「更級日記」成立 ロゲリウス1世(ロベール・ギスカール弟)のシチリア島侵攻開始

カワヅザクラ 北の丸公園 2014-02-03
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康平2年(1059)
この年
・この頃、菅原孝標女「更級日記」が成立
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・ノルマンディ公ウィリアム、ローマ教皇ニコラス2世からマチルダ妃との結婚追認を得る。
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・教皇ニコラウス2世、即位(位1059~1061、ブルゴーニュ出身)。
当初ローマ貴族がベネディクトゥス10世を選出(ヴェッレトリ司教ジョヴァンニ)。
教皇レオ9世が任命した大半の枢機卿、教会倫理後退に反対しフィレンツェ司教ゲルハルドを指名(ゲラルドゥス、教皇ニコラス2世、ブルグンド生まれ) 。
改革派教皇は皇帝に対抗
(1053年チヴァッテラの戦いでレオ9世が敗北以後、南イタリアのロベール・ギスカールを代表とするノルマン人と提携)。
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・アオスタのアンセルムス(イタリア人、26、1033~1109)、ベック修道院に来てランフランクに仕える。
1063年(30)ベック副修道院長。
1093年(60)カンタベリー大司教(位1093~1109) 。
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・ロベール・ギスカール、1059年末迄にカラーブリアの都市(カリアーティ、ロッサーノ、コンツァ、ジェラーチェ)を征服。
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・スコットランド王マルカム3世、スコットランド北端沖オークニの土候長男の未亡人イーンガボーグと結婚。北の海賊に対する安全対策。
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・ザクセンのベルンハルト2世、没。
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1月8日
・皇居一条院が焼失。
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4月13日
・教皇選挙令。
教皇ニコラウス2世、教皇庁の一種の独立宣言。
ラテラノ公会議、教皇選任権を皇帝より枢機卿に取戻し、教皇は、司教枢機卿(ローマ隣接7司教座の司教)の投票により選出。
ローマでは貴族達が対立教皇ベネディクトゥス10世の周りに集合、駆けつけたノルマン人軍隊に屈服、1059年夏ローマ貴族、教皇に服従。
ラテラノ公会議終了後、ニコラウス2世は枢機卿ステファネスを皇帝摂政アグネスに派遣。
アグネス、会見を拒否。
数週間後、ドイツの司教が教皇非難決議・教令全条項破棄。
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6月
・教皇ニコラウス2世、ローマ出発、モンテ・カシノ、ベネヴェント経由メルフィへ。
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6月1日
・放火が頻発するため諸門を警固。
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8月23日
・メルフィ公会議(メルフィ会議、教皇ニコラウス2世召集)。
聖職者の秩序を回復(聖職者独身制を確立するための手段を講じる)。
教皇ニコラウス2世、反ノルマン政策を放棄、ノルマン人と和解
(ロベール・ギスカールをアプリア公・カラーブリア公・シチリア公に任命(ギスカールの征服地と征服予定地を承認)。

アヴェルサ伯リカルドゥス1世 (リシャール1世)をカープア候に任命)。
ギスカールの約束(教皇庁に年貢を納める、教皇と教会に忠誠を守る、ローマ教会の同盟者として教皇座の保持を助ける、など)。
教皇ニコラウス2世、ヴェノーサの鉄腕ギョーム・ドゥロゴ・オンフロワ3兄弟の墓地を訪れ、聖別。
教皇による新しい王家の誕生。
皇帝とビザンチン(1054年教会東西分裂)への対抗措置。
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10月25日
・若狭の雑掌秦成安、若狭の去年と今年の東大寺御封米130石を進上。
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康平3年(1060)
この年
・フランス王アンリ1世とアンジュー伯ジョフロワ・マルテル、ノルマンディ公ウィリアム(ギョーム)に対抗して、同盟締結。
ジョフロワ、フランス王との同盟によりベレーム家への特権を取得、メーヌへの立場が好転し、トゥーレーヌに対する勢力の確立も強化される。
但し、横取りしたヴァンドーム伯領を正当な後継者に返還。
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・アンジュー伯ジョフロワ2世マルテル(54)、没(1006?~1060、位1040~1060)。
アンジュウは後継者争いに入る。
甥ジョフロワ3世伯、相続(フルク・ルシャン兄、位1060~1068)。
1068年フルク・ルシャンは自分の兄ジョフロワ3世から伯職を奪い、土牢に投じ、18年目に発狂するまで釈放せず。ジョフロワ3世は1097年シノンで毒殺。
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・この頃、アキテーヌ公、ボルドーとピレネー山脈の間のバスク人の候(ガスコン人の候)の候領を獲得。
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・ロベール・ギスカール、カラーブリア征服完了。
1060年、東ローマの最後の拠点レッジョ、スクイラーチェを陥落。
カラーブリア完了後、ロベール・ギスカールはアプーリア征服に、ロゲリウス1世はシチリア島征服に注力。
東ローマ(ビザンツ帝国)の南イタリアでの最後の拠点はバーリで、1071年4月ロベールとロゲリウスにより陥落。
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・教皇ニコラウス2世、ラテラノ公会議で「反シモニスト(聖職売買者)教令」発布。
シモニストに対する厳格な追放処置。
俗人の聖職授与禁止規定(いかなる聖職者も俗人から教会を与えられてはならない。
この禁令は帝国教会、帝国修道院には及ばず、国王の帝国教会授与権は範囲外)。
国王の授与権を禁止するには、「主の塗油を受けたもの」「王にして聖職者」たる国王より、その聖性を奪い、「教会」に対して何の権利も持たない「一介の俗人」に引き下ろされなければならない(教皇グレゴリウス7世「カノッサの屈辱」)。
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・スウェーデン、ステンキル、新王朝を興す。
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・この頃、サラゴサのムクタディル、カスティーリャに貢納開始。
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・ムラービト朝アミールのユースフ・イブン・ターシュフィーン、首都マラケシュを建設。
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4月20日
・内大臣藤原頼宗,自己の封戸の500戸(300戸?)を娘の女御延子に譲りたいと求める(中に若狭25戸)。
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5月
・僧念慶、若狭東大寺御封米の康平1、2年の結解を注進。
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・ロベール・ギスカール、アプーリアの都市(ターラント、ブリンディジ、オーリア)を占領。
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・ロゲリウス1世(ロジェ1世、ロベール・ギスカール弟)、シチリア島侵攻開始。
メッシーナ海峡を渡りメッシーナ攻撃、失敗。
ノト攻略迄、31年間掛かる(~1091)。
シチリア島イスラム教徒が3分割支配。
東部(シラクーザ、カターニア)支配の将軍イブン・アッスムナが最強となり、中部イブン・アルハワースに勝利、領地を征服・併合。
1060年イブン・アッスムナ、ミレートでロゲリウス1世と条約締結(ロゲリウス1世が軍事援助、イブン・アッスムナが代償としてシチリア島全部を申し出る?)。

ロゲリウス1世の将軍・幕僚:
①庶子ヨルダヌス。
②エリアス・カルトメンシス:スペイン・カルトーミ出身イスラム教徒、1079年3月タオルミーナ遠征の将軍4人の1人、1081年カターニア攻撃で戦死。
③オトヌス。
④アリスゴートゥス・デ・プテオリース:10数年にわたりロゲリウス1世に仕える、1063年チェラーミの戦いに参加、1071年パレルモ陥落直後ロゲリウス1世よりシチリアに広大な領土を与えられる。
⑤ロベルトゥス・デ・スルダヴァレ。
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5月3日
・ハロルド伯(ゴッドウィン伯息子、エドワード懺悔王義兄)、ウォルサム寺院を建立
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5月4日
・興福寺が焼失。
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6月18日
・地震あり。
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7月
・越前国司、大宋商客林表(林養)・俊改(俊政)ら敦賀津に参着と報告。
朝議により食料を与え廻却を決めるが、林表らの上奏をうけ安置させる(「扶桑略記」)。
8月7日、林養・俊政らに食料を与え廻却させるよう定める(「百練抄」)。

林養に関しては、「参天台五台山記」延久4年(1072)3月22日条に、大雲寺の僧成尋が入宋した時に乗った宋船の船頭の林皐(林廿郎)が「但馬の唐人林養の子なり」とある。
この林皐の父「但馬の唐人林養」が、この年敦賀津に来航した林養と同一人物の可能性が高く、林養は但馬を拠点に日本海沿岸を北陸・山陰・対馬・東シナ海を中心に交易した宋商と考えられる。
敦賀津では、林養ら宋人と地元人や都からの王臣家の使が交易を行っていたと推測される。
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・教通が左大臣となる。
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8月4日
・フランス王アンリ1世、没(位1031~1060)。
息子フィリップ1世(8)、即位(位1060~1108)。
伯父フランドル伯ボードワン5世が摂政(ノルマンディ公ウイリアム妻マティルダ父)。
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10月
・東ローマ、ロベール・ギスカールの征服に対抗してアプーリアに援軍を派遣、バーリに到着。
すぐに次の都市を取り返す(ブリンディジ、ターラント、オーリア、オトラント)。
ロベール・ギスカールはこの間トロイアでの反乱鎮圧に没頭。
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11月13日
・小槻重兼、若狭東大寺御封代として八丈絹7疋などを進上。
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