2014年2月20日木曜日

明治37年(1904)5月 南山の戦場にいた森鴎外(第2軍軍医部長)と田山花袋(博文館派遣の従軍記者)---(その1)

北の丸公園 2014-02-14
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この頃の森鴎外と田山花袋、そして島崎藤村(その1)

田山花袋:
この年、数え年34歳。博文館に勤め、牛込区若松町の借家に住んでいた。
明治32年、詩集「抒情詩」執筆者の1人、玉茗(ぎょくめい)太田玄綱の妹利佐子と結婚、礼子、先蔵という2人の子供があり、この年2月、次男瑞穂が生れた。

この年(明治37年)1月5日、花袋は小諸の島崎藤村を訪ねた。
1月23日付け藤村の花袋宛手外には、「拝借のメレヂコウスキイの書、昨日小包にて御返送申上候、御落掌被致度候。例の『罪と罰』を拝見せし後なれば一層の興味をもちてくりかへし候。これまで拝借せし評論のうち、シモンス、トルストイ、ノルドウ各其々の特色はありながら、小生にとりてはこの一書尤も有益に思はれ候。(略)又トルストイの小説を『エピック』とし、ドストイェフスキイの小説を『ツラゼデイ』として描写対話の方法にまで論じ及ぼしたるも有益なる批評と存候。沙翁の悲劇、ギヨオテの『ファウスト』に比較してドストイェフスキイが創始せるは Passionate thought  の近代悲劇なりと言へるは、味あることゝ思はれ候。(略)実に此書のうちにふくまれたる数々の思想と、智識とにつきて互に相語らはゞ、このごろの長き冬の夜も長きことを覚えざるべしと思はれ候」

藤村と花袋とは、新しい海外文学に傾倒し、尾崎紅葉歿後の文壇に新文学を打ち建てるのは我々であるとの確信を抱いていた。

2月には、博文館の雑誌「太陽」に「露骨なる描写」という短い評論を発表、新しい小説の手法への確信を述べた。

この頃、花袋の生活の中に、岡田美知代という女弟子が入り込んでいた。
前年(明治36)夏頃、神戸女学院3年生だった彼女は、花袋に手紙を出して、その後の何度かの手紙の遣り取りのあと、父を説得して花袋の弟子になることを承知させた。

そして、この2月、牛込北山伏町の花袋の借家(階下が8畳・6畳、2階が6畳・3畳)で、妻利佐子が三度日のお産をし、妻の姉が手伝いに来ていた。そのお七夜の日に、岡田美知代が父に伴われて花袋の家を訪ねて来た。

岡田家は、広島県甲奴郡上下町の名家。
父の胖十郎は備後銀行、郡米券倉庫会社、林産会社等の重役だが、元来の家業は、岡田合資会社という金穀貸附業で、町の中央通りにある豪壮な邸宅に住んでいた。
長男実麿は、同志社と慶応義塾を卒業し、明治33年アメリカのオハイオ州オペリン大学に留学し、明治35年から神戸高等商業学校教授になっていた。
長女である美知代は、兄のいる神戸でミッションスクールの神戸女学院に入り、寄宿舎に暮していた。彼女はその自由な校風の中で文学書を耽読した。目の美しい、表情の豊かな色白の娘であった。

花袋は美知代を家の2階に置いたが、彼が美知代に惹かれるに従って妻の気持の乱れて行くのが分ったので、1ヶ月ほど後、麹町区土手3番町37番地の妻の姉のところに美知代を移り住まわせた。
英知代は英語がかなり出来たので、津田梅子の経営している麹町区1番町の女子共学塾に通った。

津田梅子は数え年41歳。
明治4年、8歳のとき、岩倉具視一行の渡米に伴われ、上田貞子、山川捨松、吉益亮子、永井繁子と共に最初の女子留学生として渡米。ワシントンのアメリカ人の家庭に引きとられ、アーチャー・インスティュート卒業、明治15年帰国、明治18年から華族女学校の教師になった。
明治22年、再び渡米、プリンマー・カレッジで3年間生物学を研究し、また教育学を身につけた。
帰国後は、女子高等師範学校の教授を兼ねた。
明治33年7月、自分の満足できるような、もっと自由な学校を創立しようとして、麹町1番町に家を借り、女子英学塾を開いた。大山巌の妻となっていた(山川)捨松はその企てを援助した。
女子教育の風潮の高まっていた時代で、10月には佐藤静子が女子美術学校を、12月には吉岡弥生が東京女医学校を、翌年4月には成瀬仁蔵が日本女子大学校を創設した。
女子英学塾は初めは入学者10名だけであったが、岡田美知代の入学した明治37年3月、専門学校の認可を得、卒業生は中等学校教員資格を与えられることとなった。


この頃、花袋の身の上に、従軍という事件が突発。
花袋の博文館での仕事は、明治32年の入社当時は、江見水蔭の助手として週刊新聞「太平洋」編輯することで、その次に巌谷小波の洋行の留守の間「少年世界」の編輯に当っていた。
明治36年初めから、博文館は地理学者山崎直方と佐藤伝蔵の編著で「大日本地誌」という全10巻の大著を出版することとなり、旅行好きの花袋が、この編輯を命ぜられた。

日露戦争開始とともに、出版界は、戦争小説や戦況の画報・写真集などが儲けの多い仕事になった。
この年(明治37年)3月、博文館へ押川方在(まさつね、28歳)が入社し、月刊誌「日露戦争写真画報」を創刊し、編輯に当ることになった。
押川方在は明治キリスト教界の最も有力な先覚者で、東北学院長として岩野泡鳴を教え、島崎藤村を教員として使ったことのある押川方義(まさよし)の子である。
方存は札幌農学校実習科に学び、その後、水産講習所を経て、早稲田大学法科に学んだ才気換発の青年であった。彼は巌谷小波に師事し、その縁で博文館に入った。
小波は彼に春波という号を与えたが、彼は大きな波を意味する浪の方がよいとして春浪と自ら号した。
彼は博文館に入ると、この画報を編輯するかたわら冒険小説を書きはじめた。
この押川春浪編輯の「日露戦争写真画報」の材料を得るために、文章を書く記者と写真家とを戦地へ派遣することとなったとき、旅行好きな地誌の編輯者と見られていた花袋が記者として選ばれた。

ある日、花袋が博文館へ行くと、総編輯長の坪谷水哉が彼に向って、
「君、戦争に行かんか?」と尋ねた。
「行きましょう」と花袋は激した調子で答えた。
街には号外の鈴の音が絶えず聞え、日本全体が戦争の激動の中にあり、彼は彼で岡田美知代の出現による不安動揺がうちにあり、それが戦地行きを承諾させた。
花袋は「大日本地誌」編輯を「文芸倶楽部」編輯員の武田桜桃四郎(おとしろう)に代ってもらい、写真技師柴田常吉らと第2軍の私設写真班となり、3月23日、東京発、輸送基地宇品に向かった。

花袋が東京を出発した翌日の3月24日、島崎藤村が小諸より突然上京した。
「破戒」を執筆しようとしていた藤村だが、花袋の従軍の話を聞き、自分も従軍したく手づるを求めに上京した。
しかし、結局その便宜を得る目あてはなく、従軍する意志をもって、今取り掛かっている長篇小説「破戒」を1年間でまとめあげ、それを持って東京に移住しようという決心をして、小諸へ帰った。

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