2014年4月7日月曜日

『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)を読む(8) 「日本のナショナリティを体現するものとして、桜があらためて注目された。ソメイヨシノは「吉野桜」という名をもつ。・・・」

真田濠 2014-04-05
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2 ソメイヨシノの森へ
吉野桜の出現
「『靖國神社誌』の三つの記事
「『靖國神社誌』事歴年表をみると、明治十年代後半から二十年代前半にかけて、三つ注目される記事が載っている。

明治一六年一一月三〇日 「英国人「ジエーエツチブルーク」ヨリ「セダルス」樹十本寄附出願ノ儀許可」
明治二四年一一月二四日 「境内遊就館前ソノ他へ桜二百二十本楓二十本ヲ樹ウ」
明治二五年一二月二八日 「境内旧馬場ノ両側牛ケ淵附属地へ吉野桜三百本楓五十本ヲ樹ウ」



明治24年、最初の集中植栽だった可能性
「明治一六年(一八八三)のは、特定の樹木寄付の最初の記事である。「最初の寄付は外国人の外国名の樹だった」とすれば、別の意味でもっともらしい物語ができそうだが、中島茂子の証言から考えて、これが最初の寄付とは考えにくい。・・・
特定樹木の植栽が出てくる二番目が明治二四年の記事である。ここでようやく桜が記録に現われる。これ以前から桜の景色は語られているから、桜そのものがめずらしいわけではない。この出来事に何か特記すべき意味があったのだろう。だとすれば、これが最初の集中植栽だった可能性も考えられる。」

明治25年、初めて「吉野桜」の記載
「そして翌年、「吉野桜」が顔をだす。かなりの信頼性でソメイヨシノだといえる語りはこれが初めてである。明治三年はともかく、明治一二~一三年頃にはソメイヨシノがあった可能性が高いが、それがそのままソメイヨシノの森になったわけではない。三好學の回顧でも、初期のソメイヨシノの名所とされているのは熊谷堤や開成山、隅田川堤などで、靖国神社はあがっていない。井下清も「桜名所の興亡」(『櫻』一四号)で、靖国神社の桜は「明治中期以降」としており、明治十年代に植えられた熊谷とはっきり区別している。
先の「桜の木も栽えたばかりで小さく」という田山花袋の証言と考えあわせると、境内にソメイヨシノがまとまって植えられたのは、この明治二五年前後ではなかろうか。花袋は「桜の木と共に……大きくなっていた」と書いており、幼木は順調に育っていったようだ。根づきがよく、潮風にも強いソメイヨシノがうまくはまったらしい。」

ソメイヨシノが咲き連なる森の姿は、明治二四~五年の植栽にはじまる
「記事でもう一つ注目されるのはその本数である。室田の調査では現在の九段会館の敷地もふくめ、境内に桜は五五〇本あった。明治二四~五年に植えた本数の合計が五二〇本だから、大正期の総本数に匹敵する大量の植栽がなされたことになる。境内の景観は一変したはずである。以前からの桜が枯れずに残っていたとしても、これだけ大量に若樹を植えれば、どうしてもそちらの方が目立つ。花袋の脳裏にもその印象が刻みこまれたのだろう。
現在につづく境内の桜の景観はこのときできたと考えられる。それ以前にもソメイヨシノはあっただろうし、明治三年になかったと断言することもできないが、ソメイヨシノが咲き連なる森の姿は、明治二四~五年の植栽にはじまる。少なくとも花袋や三好や井上らの語りからみるかぎり、昭和の初めぐらいまで、多くの人がそう記憶していた。」

「日本」と桜
文化史から見た明治20年代前半:「日本」が強調されてくる時代
「この年代にはさまざまな意味を見出すことができる。
まず文化史からみると、明治二十年代前半は「日本」が強調されてくる時代である。雑誌『日本人』創刊が明治二一年(一八八八)、三宅雪嶺の『真善美日本人』が二四年、岡倉天心の『日本美術史』の講義も二三年にはじまる。佐藤通信『(日本美術)誕生』によれば、「日本画/西洋画」というジャンル分けもこの頃にできる。徳富蘇峰の『国民新聞』創刊が二三年、内村鑑三の『代表的日本人』が二七年。同じく明治二七年には志賀重昂の『日本風景論』初版がでる。地形や景観から日本の『国粋 Nationality」をさぐるこの本は一人ベストセラーとなった。」

政治史から見た明治20年代前半:日本近代の国家の基本的な骨組みができあがり、その衝撃波が社会のあちこちで、さまざまな波紋を起こす
「政治史の上でも巨大な出来事がならぶ。明治二二年二月、大日本帝国憲法公布。翌年七月、第一回衆議院議員総選挙、同年一一月には第一議会開会。この二年の間に、民法、商法、集会及政社法など、明治国家の法制度がほぼできあがってくる。そして二三年一〇月、教育勅語発布。
翌二四年一月には内村鑑三の不敬事件。二月、国会議事堂焼失。五月、大津でロシア皇太子襲撃。二五年には、久米邦武の「神道は祭天の古俗」事件が起こる。久米が帝国大学文科大学を非職になるのは二五年三月である。
日本近代の国家の基本的な骨組みができあがり、その衝撃波が社会のあちこちで、さまざまな波紋を起こす。明治二四年前後というのはそういう時期であった。ちょうどその頃に、靖国神社の境内にもソメイヨシノの森が出現する。つくづく日本近代の原点に関わってくる桜である。」

「日本らしさ」や「日本の伝統」が求められた時代
「だから、この森の出現を文化史や政治史の文脈に結びつけようと思えば、かなりかんたんにできる。いわく、明治初頭からの西欧近代の輸入が一段落し、「日本らしさ」や「日本の伝統」が求められた。国会が開設され政党が表舞台に登場するなか、新たな国民統合の象徴が必要とされた。欧米列強の侵略と日本の海外進出が強く意識され、「日本」の同一性の再構築をせまられていた。」

日本のナショナリティを体現するものとして、「吉野桜」の出現
「そのなかで、日本のナショナリティを体現するものとして、桜があらためて注目された。ソメイヨシノは「吉野桜」という名をもつ。吉野の桜には平安時代から和歌に詠われた伝統があるだけでなく、吉野自体、法制上は大日本帝国憲法までつづく律令国家を立ち上げた天武朝の聖地であり、また天皇親政をめざした後醍醐天皇ゆかりの地でもある。「吉野桜」は明治国家の正統性をまさに表象するものであり、だからこそこの時期に靖国神社に植えられたのではないか・・・。
お望みなら、この後に「そういうナショナル・アイデンティティを求める国民の心情が、なつかしい桜の森として結晶したものである」とつづけることもできるし、「それが実際には明治から出現した新しい桜であり、いわば偽吉野だったことは、この時構築された伝統や正統性が歴史の偽造であることを証明している」とつづけることもできる。」

新しさの魅力
ソメイヨシノという桜の新しさに当時の人々はちゃんと気づいていたのではないか
「先に、東京では明治十年代にソメイヨシノの進出がはじまるとのべたが、ソメイヨンノ一色にぬりつぶされたわけではない。この時期、江戸の三大名所でソメイヨシノ化が大きく進むのは隅田川堤だけである。明治一六年、荒廃を憂えた成島柳北らによって、一千本のソメイヨシノが植えられた。一方、飛鳥山にはソメイヨシノだけでなく、ヤマザクラや八重桜も植えられている。上野にもソメイヨシノは進出するが、ここは長く彼岸桜や枝垂桜、つまりエドヒガン系の名所でありつづけた。明治の終わりまで、上野の桜は他の名所より一週間以上早く花盛りを迎えることで知られていた。若月紫蘭は『東京年中行事』でこう描いている。

三月の末から四月の末にかけて、…‥山の手も下町も満都の桜ことごとく咲き出でて、都八百八町は本当に花の巷と化し……。

明治末の東京でも、桜の花の季節は一週間ではなく、まだ一ヶ月だった。
それらを考えあわせると、ソメイヨシノという桜の新しさに当時の人々はちゃんと気づいていたのではないか。明治三二年の木戸侯爵の解説でも、ソメイヨシノは新来者とされている。むしろ、そこがこの桜の魅力だったのではなかろうか。」

短期間で育ち、圧倒的な量感で咲くその姿を見て、境内の景観整備に使おうと考えた
「・・・明治二五年前後には、十年代初めに植えたソメイヨシノがそろそろ花盛りをむかえる。短期間で育ち、圧倒的な量感で咲くその姿を見て、境内の景観整備に使おうと考えても不思議ではない。実際、明治二十年代には浅草をはじめ、東京各地の公園にソメイヨシノが植えられていった。靖国神社の境内も「九段公園」だったことを考えると、そういう、時代の先端をゆく景観づくりの一環として、桜がまとまって植えられたのではないか。」

明治30年代、桜の新名所として靖国神社はすっかり定着する
「三十年代になると、桜の新名所として靖国神社はすっかり定着する。例えば平出鏗二郎『東京風俗志』(明治三六年)には上野、隅田川堤、小金井といった江戸以来の名所についで、ここが紹介されている。大町桂月も『東京遊行記』(明治三九年)で「祀後に、梅林あり、泉水あり、祀前には桜樹つらなりて、白雲、堆(たい)を成す」と書いている。」
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