2014年5月18日日曜日

藤原定家、宮中で狼藉 除籍の窮地を父救う 神戸に嘆願書の写し (神戸新聞) / 定家を迷子の鶴に例え、和歌を交えて切々と許しを請う文面には、親心がにじんでいる。

神戸新聞 2014/5/17 16:30
藤原定家、宮中で狼藉 除籍の窮地を父救う 神戸に嘆願書の写し

 「小倉百人一首」の選者として有名な鎌倉時代の歌人、藤原定家には、“若気の至り”があった。20代のとき、先輩貴族を殴り、天皇の側近を外される一大事。この危機を救った父俊成の「嘆願書」の写しが神戸市内に現存し、同市教育委員会が今春、有形文化財に指定した。定家を迷子の鶴に例え、和歌を交えて切々と許しを請う文面には、親心がにじんでいる。(小川 晶)

 定家のトラブルは、同時代の貴族の日記「玉葉(ぎょくよう)」に残る。1185年11月の「新嘗祭(にいなめさい)」の最終日、皇族らの前で舞姫が踊りを披露している最中に、木製の照明具で先輩貴族を殴りつけたという。

 冷笑され、突発的に暴行したとされるが、晴れの場での乱心に、定家は天皇の側近「殿上人」から除籍される。翌春になっても処分が解けないため、父俊成が時の権力者、後白河法皇の近臣に手紙を送った。

 神戸市教委などによると、手紙では、トラブルを「年若い者同士のざれ事」とし、定家の現状を、雲の中で迷う鶴に例えた和歌を挿入。「抑えきれない親心を察してほしい」と懇願し、息子の復帰にこぎつけた。馬田綾子・梅花女子大教授(中世史)は「俊成の助けがなければ、出世レースから大幅に遅れるどころか、脱落していた可能性もある」と指摘する。

 手紙には、俊成が控えとして書いた写しがあり、香雪美術館(神戸市東灘区)が所蔵(現在は非公開)。3月末、同市教委が「研究が進んで史料としての位置付けが固まり、文学的な価値もある」として文化財指定した。

 俊成は生涯にわたって定家の出世を助けたが、京都府立大の赤瀬信吾教授(国文学)は「わが子かわいさもあっただろうが、純粋な親心だけではない」とみる。当時の貴族にとっては家格を守ることが何よりも大切だったといい、「家系存続のための義務に近かった」と指摘する。

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 【藤原俊成・定家】 藤原道長の六男、長家を祖とする家系で、俊成(1114~1204年)は道長の玄孫に当たる。後白河法皇の命で「千載和歌集」を編さんした。定家(1162~1241年)は俊成の次男。「新古今和歌集」「新勅撰(ちょくせん)和歌集」の二つの勅撰集を編んだほか、「小倉百人一首」も手掛ける。半世紀以上にわたって書き続けた日記「明月記」の一部は冷泉家時雨亭文庫(京都市)に伝わり、国宝に指定されている。

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