2014年7月7日月曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(101) 「第11章 燃え尽きた幼き民主主義の火-「ピノチェト・オプション」を選択したロシア-」(その9終) 「次に億万長音が生まれる場所を知りたければ、市場が開放されつつある国を探せばいい」   

江戸城(皇居)東御苑 2014-07-02
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アダム・スミスとミルトン・フリードマンのフロンティア
1950年代にミルトン・フリードマンが着手した運動は、膨大な利益を生む無法状態のフロンティア(新自由主義の父祖アダム・スミスが高く評価した)を奪回しようとする多国籍資本の目論見であるが、事はもう少し複雑だ。
スミスの言うような西洋の法律が存在しない「未開で野蛮な国」をあさり回るのではなく、既存の法・規制を組織的に取り除いて無法状態を再現しようとするものだ。
スミスの時代の入植者は、「未開拓の地」を「ごくわずかな金」で手に入れ莫大な利益を得たが、今日の多国籍資本は政府プログラムや公共資産など、売りに出されていないあらゆるもの(郵便局から国立公園、学校、社会保障、災害救済など公的な管理下にあるもの全て)を征服し奪い取る対象とみなす。

今日の征服者は国家を略奪する
シカゴ学派の経済学のもとでは、植民地のフロンティアにあたるのが国家であり、今日の征服者は、かつて先祖たちがアンデスの山々から金や銀を持ち帰ったときと同じ非情な決意とエネルギーを持って国家を略奪する。
スミスは大草原の肥沃な未開発の地が利益を生む農地に変わるのを目にしたが、金融市場はチリの電話事業やアルゼンチンの航空路線、ロシアの油田、ボリビアの水道事業、アメリカの公共電波、ポーランドの工場など公共資産によって築かれ、二束三文で売却されたものすべてを「未開の土地の好機」と見た。
更に、種子や遺伝子、大気中の二酸化炭素など、これまで商品になるとは考えられもしなかった生命体や自然資源を特許の対象にし、値段をつけるよう国家に要請することで生まれた富もある。
さながら植民地時代の地図作成者がアマゾンの新しい水路を突きとめ、黄金の隠されたインカの寺院に印をつけたように、シカゴ学派の経済学者たちは公的領域に新たな利益の見込めるフロンティアを執拗に探し求めた。

フロンティア資本主義
植民地時代のゴールドラッシュのさなかと同様、現代のフロンティアにも腐敗はつきものだ。
もっとも重要な民営化契約は、経済的・政治的危機による混乱のさ中で結ばれるのが常で、明確な法律や有効な監督機関は整備されていない。
混沌とした状況下では、価格はどのようにでも融通がきくし、政治家もまたしかりである。
この30年間世界が追い求めてきたのは、この”フロンティア資本主義”と呼ぶべきものだった。
フロンティアはひとつの危機から別の危機へと絶えず移動し、法が整備されると見るや別の場所へと移動する。

動かぬ証拠:ロシアの億万長者オリガルヒの台頭
ロシアの億万長者オリガルヒの台頭は、工業国での”お宝探し”がいかに大きな利益をもたらすかの動かぬ証拠となった。
そして金融市場は、もっと欲を出した。
ソ連崩壊直後、米財務省とIMFは危機に苦しむソ連以外の国々に対して迅速な民営化の要求を一層強めた。

メキシコの通貨危機(「テキーラ危機」)
なかでも劇的だったのは、エリツィンのクーデターの翌年の1994年、メキシコ経済が「テキーラ危機」と呼ばれる深刻な通貨危機に陥ったときのことである。
アメリカは救済措置の条件として立て続けに民営化を行なうことを要求。
『フォーブス』誌は、このプロセスで23人の新たな億万長者が生まれたと報じた。
「ここから学べる教訓は明らかである。次に億万長音が生まれる場所を知りたければ、市場が開放されつつある国を探せばいい」。
この通貨危機で、メキシコは前代未聞の外資による所有を受け入れることにもなる。
1990年、メキシコの銀行のうち外国企業が所有するのは1行のみだったが、「二〇〇〇年には、三〇行のうち二四行が外国企業の所有するところとなった」。
ロシアの例がもたらした唯一の教訓は、富の移転がよりすばやく、より法の規制を受けずに行なわれれば、それだけ大きな利益が生まれるということだけだっだ。

ボリビア:”ゴニ”ことゴンサロ・サンチェス・デ・ロサーダ
このことをよく理解していた人物に、”ゴニ”ことゴンサロ・サンチェス・デ・ロサーダがいる。
1985年、ボリビアのショック療法プログラムは、ビジネスマンだった彼の自宅居間で作成された。
その後ボリビア大統領に就任したサンチェス・デ・ロサーダは、1990年代半ばに石油、航空、鉄道、電気、電話などの国営企業を売却。
民営化による最大の利益がロシア人の手に渡ったロシアとは異なり、ボリビアの”大特売”で得をしたのはエンロン、ロイヤル・ダッチ・シェル、アモコ〔現BP〕、シティコープといった外国企業だった。
しかも売買は直接行なわれた。地元企業と提携する必要はなかった。
『ウォールストリート・ジャーナル』紙は、1995年にボリビアの首都ラパスでくり広げられた、開拓時代のアメリカ西部さながらの一場面を次のように書く。
「ラディソン・プラザ・ホテルは、AMRコープの子会社アメリカン航空やMCIコミュニケーションズ、エクソン、ソロモンブラザーズ証券などアメリカ大手企業の幹部で満杯だった。彼らは民営化される部門に適用される法律の書き換えや、売りに出された企業の入札参加のためにボリビアに招かれていた」。ぬかりない手際である。
サンチェス・デ・ロサーダ大統領は「重要なのはこうした改革を逆戻りさせないこと、そして抗体が活動し始める前にそれを終わらせることだ」とショック療法のアプローチについて説明した。
この「抗体」の活動を確実に封じるため、ボリビア政府は過去にも同様の状況下で行なったことをくり返した。
長期に及ぶ「非常事態」を宣言し、政治集会を禁止して民営化に反対する者全員の逮捕を許可した。

アルゼンチン:「ブラボー・ニュー・ワールド」
同時期、アルゼンチンでも悪名高き腐敗まみれの民営化による大混乱が生じていた。
ゴールドマン・サックスの投資報告書は、これを「ブラボー・ニュー・ワールド」と歓迎した。
この時期、労働者の代弁者になると約束して権力の座に就いたペロン党のカルロス・メネム大統領は、油田、電話、航空、空港、鉄道、道路、水道、銀行、ブエノスアイレス動物園、さらには郵便局や年金制度に至るまで、国営企業を売却した。
アルゼンチンの国家資産が国外に移されるに伴い、政治家の生活はどんどん贅沢になっていった。
かつて革のジャケットと労働者階級を象徴するもみあげで知られたメネムは、イタリア製のスーツを着込み、整形手術まで受けたと言われている(本人は腫れ上がった顔を「ハチに刺された」と説明していた)。
メネム政権で民営化大臣を務めたマリア・フリア・アルソガライは、素肌の上に豪華な毛皮のコートだけをまとった姿で大衆雑誌の表紙を飾り、メネムは実業家からの感謝の「プレゼント」だという真っ赤なフェラーリ・テスタロッサを乗り回していた。

腐敗の次は弾圧
ロシアの民営化を手本とした国々は、エリツィンの”逆クーデター”も、より穏やかな形ではあるが踏襲している。
選挙によって平和的に権力の座に就いたのち、政権が権力を維持し、自分たちの進める改革を貫徹するために次第に残虐性を増していくというパターンである。

アルゼンチンでは2001年12月19日、歯止めのない新自由主義の統治が終わりを迎えた。
フェルナンド・デ・ラ・ルア大統領とドミンゴ・カバージョ経済相が、IMFが融資の条件として求めた緊縮財政を強引に実施しようとすると、これに反対する国民が暴動を起こし、デ・ラ・ルアは連邦警察を動員してあらゆる手段を使って暴動を鎮圧するよう命じた。
その後デ・ラ・ルアは官邸からヘリコプターで脱出したが、すでに抗議行動に参加した市民21人が警察に殺害され、1,350人が負傷したあとだった。

ボリビアのゴニ政権の最後の数ヶ月はさらに血なまぐさかった。
ゴニが実施した民営化が引き金となって、一連の「戦争」が起きた。
民営化を請け負ったベクテル社が水道料金を3倍に引き上げたことによる「水の戦争」に始まり、ワーキングプアに税金を課して財政不足を補うというIMF主導の政策に対する「税金戦争」、さらに天然ガスをアメリカに輸出する計画に対して起きた「ガス戦争」と続く。
最後にはゴニも官邸を去り、アメリカに亡命することになるが、デ・ラ・ルアのケースと同様、そのときにはすでに多くの命が失われていた。
ゴニは軍に抗議行動の鎮圧を命じ、70人近く(見物人も少なくなかった)が殺害され、400人が負傷した。
2007年初めの時点でゴニはボリビア検察当局により大屋虐殺で起訴され、最高裁から身柄の引き渡しを求められている。

アルゼンチンとボリビアで大規模な民営化を推進した政権はともに、ショック療法がクーデターや弾圧を伴わず、平和的かつ民主的に実施できる例としてアメリカ政府によって支持された。
砲火の雨で始まらなかったのは事実であるにしても、どちらのケースも最後は流血の事態を迎えた。
このことはきわめて重要な意味を持つ。

南半球の多くの地域では、新自由主義はしばしば「第二の植民地略奪」と呼ばれる。
第一の略奪では土地から富が奪われ、第二の略奪では国から富が奪われた。

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