2014年7月6日日曜日

承保2年(1075) サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂建築開始 源頼義(88歳)没 関白藤原教通没 後継は師実(34歳)

ムクゲ 北の丸公園 2014-07-03
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承保2年(1075)
この年(前回からの続き)
・教皇グレゴリウス7世、教皇教書。
ローマ教皇の諸権力(教皇は皇帝に優越し、教皇は皇帝罷免権を有する)を明示。
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・イングランド、ウイリアム征服王、聖職叙任権を手放さず、意のままに司教を任命(「俗人叙任に関する教令」はイギリスでは交付されず)。
ウイリアム征服王、国内では国王の同意なしには教皇と認めず、教皇書簡は国王を通じて国内司教に伝達、国内司教は国王の許可なくローマに赴けず、国王の許可なく教皇庁に上訴禁止。
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・イングランド、ヘレフォード伯ロジャー、ノーフォーク伯ラルフの反乱。
バイユー司教オドが軍を率い、反乱軍合流阻止の為に民兵を動員してセバーン河渡り口を固める。
ヘレフォード伯ロジャーはセバーン河で民兵に阻まれ、ノーフォーク伯ラルフと合流できず、ノーフォーク伯ラルフもバイユー司教オドの軍にビーチャム近郊で奇襲されて敗退、ノリッジ城へ逃げ込む。
バイユー司教オドはノリッジ城を包囲。
ノーフォーク伯ラルフは新妻エンマにノリッジ城を任せデンマーク王の許に亡命。
エンマは3ヶ月間防衛後、バイユー司教オドに和を請い、ブリタニー地方の所領への安全な退去の保障を条件に降伏。
そして、イギリス王ウィリアムがイギリスに到着してヘレフォード伯ロジャーは抵抗を断念、恭順の意を示し反乱終結。
反乱終結後、反乱支援のデンマーク艦隊200隻が来航、ヨーク近郊に上陸、略奪して帰還。
ノーフォーク伯ラルフは抵抗を断念せず、ブリタニーに残った所領に帰還してイギリス王ウィリアムに対する反乱を継続。
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・ウェールズ、グリフィズ・アプ・カナン(グリフィズ・アプ・ルウェリン)、グウィネッズ支配(位1075~1137)。
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・カスティーリャ王アルフォンソ6世、トレード王兼バレンシア王マームーンのコルドバ征服を支援。
トレード王兼バレンシア王マームーン、没(トレード王1043/44~1075、バレンシア王1065~1075)。
トレード王は息子カーディル、即位(トレード王1075~1079、1080~1085、バレンシア王1085~1092)。
バレンシア王はアブー・バクル(1065年没のバレンシア王アブド・アル ・マリク兄弟)、即位(位1075~1085)。
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・スペイン、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂建築開始。ロマネスク建築。
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・セビーリャ王ムータミド(位1069~1091)、ムラービト朝アミール、ユースフ・イブン・ターシュフィーンをスペインに招聘、タンジールとセウタ征服が先と、拒否。
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・アッバス朝アル・カーイム、没(位1031~1075)。アル・ムクタディ、即位(位1075~1094)。
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・ブルゴーニュ、モレム修道会設立。
(80年代後半~90年代初期、ステファヌス・ハルディングス、モレム修道院に入り、修道院長ロベルトゥス(ロベール)のもとで活発な論争。1098年ロベール修道院長ステファヌス・ハルディングスが中心となりシトー修道院、シトー修道会創設)。
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・この頃、ワース(75)、没(1100年頃~1075頃)。
プランタジネット家ヘンリ2世に仕え保護を受ける。ノルマンディで暮らし、バイユー聖堂参事会員。
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・この頃、ブレーメンのアダム、スカンディナヴィアの「キリスト教の初期事情」をハンブルグ大司教に献呈。スカンディナヴィアでの宣教活動の記録。探検史の分野での最も有益な史料。
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・後のザクセン大公・ドイツ王・皇帝ロタール・フォン・ズップリンブルク、誕生。
(1075~1137、ザクセン大公1106~1127、ドイツ王1125~1137、皇帝1133~1137)。新興ホーエンシュタウフェン家に対抗したザクセン大公。1125年ハインリヒ5世没後、選挙でフリードリヒに勝利、ドイツ王即位。
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・ウンストルートの戦い(ウンストルート河畔、ホンブルク)。
ハインリヒ4世、ザクセン反乱軍に勝利。ズップリンブルク伯ゲルハルト戦死(息子が後のザクセン大公・ドイツ王・皇帝ロタール・フォン・ズップリンブルク)。
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・イタリア、海洋国家アマルフィ、イタリア南部のノルマン人に従属。
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・ムラービト朝アミール、ユースフ・イブン・ターシュフィーン(位1061~1106)、トレムセンを征服(マグレブ征服の一環)。
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1月26日
・宋の神宗、経論・錦などを成尋の弟子に託して日本に贈る。
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2月
・教皇グレゴリウス7世、「俗人叙任に関する教令」。
全て俗人(皇帝・領主)から教会の叙任権を取り上げ。更に、俗人の承認も廃止、選出への俗人の関与を完全に禁止。
グレゴリウス7世にとってこの教令は、それ自体が目的ではなくシモニア・ニコライスムを根絶するための手段。但し、フランスではドイツとの争いを考えて「俗人叙任権教令」を交付せず。ウイリアム征服王は聖職叙任権を手放さなさず、意のままに司教を任命。
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3月30日
・ミラノ市大火。原因がパタリアのせいにされ騒乱発生。
(パタリア首領騎士エルレンバルドゥス(エルンバルト、エアルムバルト)、暗殺)。
反パタリア派(帝国派)、皇帝ハインリヒ4世に「新たな大司教」任命を懇請。
皇帝ハインリヒ4世、テダルドゥス(テダルド、ミラノ教会一助祭)をミラノ大司教に任命。更に、管轄大司教の了解なしにスポレト司教とフェルモ司教を任命。
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7月13日
・源頼義(88)、没。嫡男源義家(37歳)、この前後に下野守を辞して帰京。
『古事談』によると、壮年の時より「慙愧の心」なく、数えきれない殺人を犯し、堕地獄は免れないとみられていたが、前九年合戦の戦没者を悼む「耳納堂(みのわどう)」を建立し、出家後は安倍氏との合戦と同様の強い意志で滅罪生善に励み極楽往生したという。
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9月25日
・関白藤原教通、没。
前々年に後三条上皇、前年に頼通、この年に関白教通が没す。また、前年10月には上東門院彰子が没している(道長の娘、一条天皇の中宮、後一条・後朱雀天皇を生む)。
この数年で、旧世代の代表的人物がつぎつぎに亡くなり、いっきに世代交代が進む。
教通のあとの関白は、賢子の義理の父で、敦文の外祖父にあたる師実。
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9月26日
・藤原師実、内覧。10月3日、氏長者。15日、関白。
白河天皇の師実に対する信頼は厚く、新体制は23歳の天皇と34歳の関白というかたちで発足。

藤原師実:
通称京極殿、後宇治殿。父は藤原頼通。母は藤原種成の娘・藤原祇子。土御門右府師房の女麗子を妻とし、その姪の賢子を乳飲み子のうちからわが子として育てる。賢子は姓を藤原を称し、延久3年皇太子の宮に入り、皇太子の即位に伴い皇后(中宮)に立つ。養家・実父源顕房(村上源氏)に恩恵を及ぼす。応徳3年(1086)11月、第2皇子善仁(たるひと)親王(堀河天皇)が践祚。
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・第1次ザクセン反乱終結(ザクセン戦争1073~1075)。
ハインリヒ4世、1074年に引き続きザクセンに進軍、反乱鎮圧。
オットー・フォン・ノルトハイム等のザクセン貴族層はハインリヒ4世の示した穏やかな条件をのんで和解。 
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12月8日
・教皇グレゴリウス7世、ハインリヒ4世の顧問を勤める司教(ブレーメン司教、シュトラースブルク司教、シュパイアー司教、バンベルク司教等)を聖職売買の罪で破門。
同日、「ハインリヒ4世への書簡」、聖職叙任(ミラノ大司教、フェルモ司教、スポレート司教)への抗議。教皇を畏敬しない者は神を畏敬しない者。
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12月25日
・ゴスラーのクリスマス宮廷会議。
ハインリヒ4世長男コンラートを「きたるべき国王」と決定。
南ドイツ諸大公を中心とする離反は進行、大部分の諸侯は会議に欠席
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年末
・皇帝ハインリヒ4世、ロベール・ギスカールに同盟関係を求める(意図は南イタリア支配権強化)。ロベール・ギスカールは拒否。
殆ど全てのノルマンディ人有力諸侯が皇帝に対して一致団結
(ロベール・ギスカールとカープア候リカルドゥス1世が友好条約締結。父カープア候リカルドゥス1世に反旗を翻していた息子ヨルダヌスが和解を求め占領していたノチェーラを父に返還、父より正式にマルシア伯領・アミテルノ・ヴァルヴァを授与される)。
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