オニユリ 江戸城(皇居)東御苑 2014-07-15
*承保3年(1076)
この年
・復活祭の頃、有力南ドイツ諸侯周辺にハインリヒ4世の反対派が集結
南ドイツ有力諸侯:
バイエルン大公ヴェルフェン家ヴェルフ4世、シュヴァーベン大公ルードルフ・フォン・ラインフェルデン、ケルンテン大公ベルトルト・フォン・ツェーリンゲン、ザルツブルク大司教等)。これに、東ザクセンの司教達・貴族の反対派が加わろうとする。
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・イギリス王ウィリアム、ノルマンディーに戻り、ノーフォーク伯ラルフの籠もるブリタニーのドル城を攻撃。
フランス王フィリップ1世と同盟者達はノーフォーク伯を支援、更にフィリップ1世がノルマンディ公領東部のヴェクサン地方を攻略した為、ドル城攻撃を断念。
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・フランス、カンブレ、「コミューン運動」(都市解放運動)、国王が支援。大諸侯支配圏内に王権を浸透、王室金庫に高額の謝礼をもたらす。
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・ブルゴーニュ公ロベール1世、没(位1032~1076、領地無しロベール、前国王アンリ1世弟)。
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・ナバーラ王(パンプローナ王)サンチョ・ガルセス4世、暗殺(位1054~1076)。
アラゴン王サンチョ・ラミーレス(ガルセス4世従兄弟)、カスティーリャ王フェルナンド1世(ガルセス4世叔父)を押しのけてナバーラ王を兼務(アラゴン王1063~1094、ナバーラ王1076~1094)。
ナバーラ王国継承後、サラゴーサ王国征服本格化し、1110年サラゴーサ王国滅亡(息子ペドロ1世(位1094~1104)、アルフォンソ1世(1104~1134)により成就)。
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・サラゴーサ王国バヌー・フード朝ムクタディル王(位1046~1082)、スラヴ人支配のデニアを併合。
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・マティルダ(30、1046~1115)、トスカナ辺境伯を母ベアトリーチェより相続(マティルダ、皇帝ハインリヒ4世に反感)。
教皇グレゴリウス7世、マティルダとゴッフレードの離婚を承認(結婚期間1069~1076)。
ゴッフレード、ロレーヌに戻り教皇とマティルダの不倫が「離婚原因」と暴露、1ヶ月内に刺客により暗殺。
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・ロゲリウス1世、カターニアの将軍ベナルヴェトと戦う。
ロゲリウス1世庶子ヨルダヌス(1092年没)、戦闘参加。
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・「ローマ法」復活(603年以来473年間、忘れられていた)。トスカナの法廷で学説論纂、判決で引用。
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・北宋、旧法党と新法党の「党争」(官僚間の権力争い)が激化。「新法」を推進した王安石は辞職、郷里に隠退。
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1月
・教皇グレゴリウス7世、皇帝ハインリヒ4世に、教皇に服従せよという書簡を送りつける。
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1月24日
・ウォルムス・ドイツ司教会議。大司教・司教26人(ドイツ司教の2/3)参集。
教皇グレゴリウス7世の教皇廃位を決議。
皇帝ハインリッヒ4世がグレゴリウス7世に廃位通告書を送付
(「簒奪によらず神意によって王たるハインリヒより、教皇ではなく偽修道士イルデブランドへ」)。
教区に帰った聖職者は成り行きを静観(ハインリヒ4世の立場、急速に悪化)。
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2月20日
・富士山噴火。
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2月21日
・ローマ四旬節公会議。
ローマでイタリア、フランスの司教110人を集めて会議を開催する教皇グレゴリウス7世にハインリッヒ4世からの廃位通告書が届く。
教皇と会議は、ハインリッヒ4世の破門、廃位を宣言。
ドイツ諸侯のハインリヒ4世への誠実義務(臣従)を解除。
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3月4日
・白河天皇、石清水八幡宮に行幸、以後毎年の恒例となる。
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5月15日
・ハインリヒ4世、ドイツ司教をウォルムスに召集、殆ど集まらず、6月29日マインツ開催に変更。
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秋
・ロベール・ギスカールとカープア候リカルドゥス1世、イタリア南部カンパーニア遠征を開始。
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10月16日
・トリブルの国会(マインツ南)。
ドイツ諸侯、ハインリヒ4世の国王廃位決定。
但し、翌年2月22日迄に「破門の免赦」を受ければこの決定は無効。受けない場合、1077年2月2日開催アウクスブルクの国会で罷免。
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12月18日
・ロベール、旧主サレルノ侯国を滅ぼす。
アプーリア公ロベール・ギスカール、イタリア南部カンパーニア地方サレルノ占領。
翌1077年5月、サレルノ候ギスルフス2世(ロベール・ギスカールの義理の兄)を下し、サレルノ候国(ランゴバルド系最後の国家)滅亡。
ギスルフスは逮捕後解放、ローマへ亡命。
以後、ロベールは11世紀南イタリア最大の都市サレルノを首都とし、聖マタイを祀る(現在にも残る)大聖堂を建築。
教皇グレゴリウス7世はロベール・ギスカールを非難するも1180年に和解。
南イタリアの政治的状況:
①ロベールのアプーリア公国、
②カープア侯国を乗っ取ったリカルドのカープア侯国、
③生き残た都市国家ナポリ公国。
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