2014年7月3日木曜日

明治37年(1904)9月1日 与謝野晶子「ああをとうとよ、君を泣く、/君死にたまふことなかれ、/・・・/親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、/・・・/すめらみことは、戦ひに/おほみづからは出でまさね、/・・・」 

江戸城(皇居)二の丸庭園 2014-07-02
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明治37年(1904)
9月
この月
・韓国、京幾道始興、黄海道谷山で民擾。
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・戦争報道により、「大阪朝日」「東京朝日」ともに発行部数を伸ばす。
明治37年上半期(4月~9月)で、1日平均部数で「大阪朝日」が152,400部で前年下半期より20,200部増、「東京朝日」は87,200部で5,100部増。
号外も発行され、各社の号外合戦の様相を呈す。「大朝」の場合、明治36年は25回であった号外が、37年は248回と激増、1日に4回発行したこともある。
漱石の俳句に「号外の鈴ふり立る時雨哉」があるほど、号外はまちの風物詩でもある。
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・愛国婦人会創立
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・小川未明「漂浪児」(「新小説」)
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・島崎藤村『藤村詩集』
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・夏目漱石、虚子に教えられた連句・俳体詩創作に興味を示す。(『猫』への第一歩)
高浜虚子、夏目漱石を芝居に連れ出すが、漱石は一向に関心を示さない。
この年の9月のある日、虚子が夏目家を訪問。漱石は不在であったが、妻の鏡子が高浜に、またこの頃夏目は機嫌が悪くて、寺田寅彦にも頼んであるが、あなたも時々夏日をどこかへ遊びに連れ出してほしい、と言った。
間もなく虚子は本郷座の新派の芝居に夏目を連れて行った。夏目は不愉快そうな顔をしてしばらく芝居を見ていたが、やがて我慢できなくなったように、高浜に向って、君はいつもこんなものを見て面白がっているのですか、と言って帰ってしまった。その次には彼を歌舞伎に連れて行った。すると夏目は、どこが面白いのです? と聞いたり、なぜあの役者はあんなに不自然な大きな声をして怒鳴るのかと言ったりした。だが、能楽に連れて行くと、漱石はそれを面白がり、能は退屈だけれども面白いものだ、と言った。

その頃、高浜は連句の研究に凝っていて、「ホトトギス」に「連句論」を発表した。「ホトトギス」仲間で高浜の連句論に賛成なのは坂本四方太(しほうた)で、反対は内藤鳴雪・河東碧梧桐。
夏目は連句に興味を示し、高浜からその方法を学びながら、一緒に連句を作った。
連句は二人以上の作家が短歌形式を二分した十七字と十四字の句を交互に作りながら、意味の連続した長い合作句を作るもの。
高浜が、それを利用して長い俳体詩を作ろうという提案すると、夏目は賛成して「尼」という題の俳体詩を作った。夏目の句は、華やかな調子の高いものが多かった。

そのあと夏目は、自分で五五調や五七調の新体詩を作るようになった。
彼はこの時期、自分の内部にあるものを表現する途があれば、何でもやって見たいと考えるほど、自己表現の衝動に溢れていた。
「ホトトギス」の仲間は、子規の生存中から、写生文を作って批評し合う山会を続けていた。文章の主目的は写生であるが、それには山がなければならない、という子規の意見によって名づけられた。会の主な出席者は坂本四方太、寒川鼠骨、河東碧梧桐、虚子などで、子規系の歌人の伊藤左千夫、長塚節なども時々出席した。子規の親友である漱石を大切に扱っていた虚子は、淑石がしきりにものを書きたがっているのを見て取って、この明治37年の末頃、夏目に文章を書くことをすすめた。
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・トロツキー(25)、メンシェヴィキから離脱を宣言。「イスクラ」協力は再開。
この時期、ロシア人亡命者から離れてミュンヘンで過ごす。

秋の頃、トロツキー(25)、「次は何か?」と問題提起。ゼネストのあと、プロレタリアートの蜂起が続くと主張。
この時期、ロシアでは、ゼムストヴォ活動家や自由主義地知識人中心に「祝祭カンパニア」開始。会議・パーティを開き、議会創設・市民的自由獲得など読み上げ。すぐに袋小路に入る。
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・有島武郎、ハーバード大学で歴史・経済を専攻。社会主義者金子喜一を知る。
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・イギリス、帝国国防委員会設置。
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9月1日
・幸田文、誕生。
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9月1日
・与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)(「明星」)

大町桂月が、「太陽」(10月号)で「国家観念を藐視(べうし:ないがしろ)にしたる危険なる思想の発現なり」と非難。
特にその第三聯は、「天皇自らは、危き戦場には、臨み給はずして、宮中に安坐しながら、死ぬるが名誉なりとおだてて、人の子を駆り、人の血を流さしめ、獣の道に陥らしめ給ふ無慈悲なる御心根かな」と歌ったものであるとして、この詩を反戦的、皇室侮辱的立場のものと断じた。

晶子は「明星」(11月号)に「ひらきぶみ」と題し反論(鉄幹への手紙の形式で桂月を非難。
「この国に生れ候私は、私等は、この国を愛で候こと誰にも劣り候べき」と言い、また「この頃新聞に見え候勇士勇士が勇士に候はば、私のいとしき弟も勇士にて候べし」と言う。

「当節のやうに死ねよ死ねよと申候事、又なに事にも忠君愛国などの文字や、畏おほき教育勅語等を引きて論ずる事の流行は、この方却て危険と申すものに候はずや…」。

「私思ひ候に『無事で帰れ、気をつけよ、万歳』と申し候は、やがて私のつたなき歌の『君死にたまふこと勿れ』と申すことにて候はずや、彼もまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候、とより外に歌のよみかた心得ず」と、反戦の意図を否定。

角田剣南は、「読売新聞」に、「理情の弁(大町桂月に与ふ)」を書き、晶子の詩を「この詩は理性未だ到らざる至情の声也」とし、「晶子の詩何ぞ咎むるを須ゐんや、桂月は国家主義に佞(ねい)し、自ら非理に陥るを悟らざるものなり」と述べる。

桂月は、再び翌年1月の「太陽」に、「詩歌の骨髄」と題し「此の如き詩を作れる作者は、乱臣也、賊子也、国家の刑罪を加ふべき罪人なり」と糾弾。

怒った鉄幹は、平出修(弁護士)・生田長江(東大学生)を伴って、桂月宅を強引に訪ね、直接、議論に及び、その応酬を「『詩歌の骨髄』とは何ぞや」と題して「明星」2月号に掲載。
「理性の錯じらぬ純粋の感情の声…非国家主義を謡ふとか非難する誣妄も亦甚しい」と反論。
この時、鉄幹は併せて桂月への批判十八ヶ条も発表。

大町桂月の糾弾した明治38年1月の「太陽」には、大塚楠緒子の「お百度詣」が掲載。

この頃、反「明星」拠点を作りつつある尾上柴舟のうた「楯」の1首。
「小さき平和説きしは誰れぞ誰れぞ再び説かむ子あらば刺さむ」。
明治38年の斉藤茂吉「本よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」。

この頃、与謝野晶子・山川登美子・増田雅子3人の歌集「恋衣」刊行計画すすむ。
「明星」に「恋衣」の予告が出ると、日本女子大学は10月、山川登美子・増田雅子を停学処分にする。
親・鉄幹・平出修(露花)の尽力で解消されるが、「恋衣」発刊は翌年1月に持ち越される。

<ここまでの鉄幹・晶子夫妻>
与謝野鉄幹と鳳晶子は明治34年秋に結婚。
翌年長男光(ひかる)が生れる。
明治36年12月16日、恩師で萩の家主人の落合直文が没し、明治37年1月、彼が主となって落合直文を追悼する木枯会の第一回を、同門の友人たちと上野公園の韻松草で開いた。
この年(明治37年)、この年、鉄幹32歳、晶子27歳。
1月、晶子「小扇」出版。
2月、鉄幹が、友人たちとともに「萩の家主人追悼録」を編輯して、明治書院から出ていた雑誌「国文学」に掲載。
5月、鉄幹・晶子の合著の詩歌散文集「毒草(どくぐさ)」を本郷書院から出版。
この「毒草」には、「つつしみて、このひと巻を、師落合直文先生の在天の御霊に捧げまつる」との献辞ががみえる。
7月、次男秀(しげる)誕生。
夏、画家の三宅克己、石井柏亭、新詩社社員の高村光太郎、平野万里等と赤城山に遊んだ。

<晶子と弟の籌三郎>
晶子は、この年(明治37年)7月、応召して第4師団8聯隊に入っていた弟の籌三郎(ちゅうざぶろう)が旅順攻囲軍の中にいた。
彼女はそれが気懸りでならなかった。
晶子の兄秀太郎は東京帝大工科大学を卒業後、東大教授になり、本郷西片町に住んでいたが、晶子と鉄幹との結婚に反対して、義絶していた。前年秋、父の宗七が没して際、実家に駆けつけた晶子に対して、兄は冷たかったが、弟は暖く晶子を迎え入れた。

弟の籌三郎は文学好きであったが、父の没後、その志望を放棄し、宗七と改名して家業を継いでいた。彼は、せいという妻をめとって間もなく応召した。

深尾須磨子の『君死にたまふことなかれ』(昭和30年7月)によれば、晶子はこの中渋谷341番地の家を訪れた堺の河野鉄南から、弟の籌三郎が旅順包囲軍の決死隊に志願したらしいという噂をきいたという。

「大道筋からは、何でも五人が決死隊を志願したとかで、駿河屋さんの近くでも、若いのは殆ど出払ったそうですよ。忠君愛国もけっこうですが、何も戦争で死ぬだけがご奉公とはかぎりませんからな。こんなことを申しては弟さんのお志にすまないのですが、日本人はちといのちを粗末にしすぎる傾きがあります、困ったものです」。
河野氏の話にうなづきながらも、晶子はもうその座にたえられなかった。(中略)
「ちょっと失礼……」
彼女はよろめくように立ち上がって書斎にはいった。・・・

ああをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までを育てしや。

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
若死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろぴずとても何事ぞ、
君は知らじなあきびとの
家のおきてになかりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戦ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髪はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女(をとめ)ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

この詩の中で最も迫力ある箇所は、トルストイの「汝、心なき露国皇帝よ、汝自ら彼の砲弾銃弾の下に立てよ」に呼応した第三聯である。
天皇自らは危険な戦場にでないで宮中に安坐しながら、人の子を駆りたてているのがおかしい、という天皇制批判の萌芽がみえる。桂月もこのことを問題視した。
家のこと、夫に先だたれた母や、弟の新妻のことなど思う晶子の個人的な感情が、「戦争なんかで死なないでちょうだい」という理屈なしの実感を生み、この実感が、「すめらみこと」批判にまで高まる時、この詩は詩としてのエネルギーを充填させられた。

晶子が気づかった籌三郎(第8連隊所属)は8月、旅順の盤竜山の攻撃に向かっていた。203高地攻撃も同じ第4師団であったが、主に第37連隊であった。
8月中旬、籌三郎の妻せいは女児を誕生。晶子は夏子と命名し祝歌をつくった。

伯母いまだ髪もさかりになでしこをかざせる夏に汝れは生れぬ

晶子には佐久間艇長をたたえた11首など、日露戦争の勇者をたたえた歌も多い。
佐藤春夫は、「与謝野晶子論」の中で「乱臣賊子と断ずることも平和主義者と決める」ことも困難であるという。
「君死にたまふことなかれ」は、10月とそわずに別れた妊娠中の義妹せいのことなどを思って、髪もさかりの晶子が女の真情をうったえた詩である。
人間性を無視した一世の俗論と体当たりする力は、女ざかりの晶子の一家を思う心から生じた。
若い明治国家に生まれ、日本も文明国なのだから、反戦論者の1人や2人いたほうがよいと考えた内村鑑三と同じで、トルストイの反戦論に呼応し、その文句をちりばめながら歌い上げた。

私はまことの心をまことの声に出だし侯とより外に、歌のよみかた心得ず候

と「ひらきぶみ」に書いたように、晶子の詩歌は、生活の実感に即してやみ難い情念を率直に吐露する素朴なもので、『みだれ髪』も、実感を思いきってぶちまける情熱をかわれて一代を風靡した。
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9月1日
・我が軍が「能く彼の退路を拒し、普軍がセダンを包囲したるが如く、能く遼陽を包囲し得」れば、これを日露の「最後の大決戦」にすることができるという(『東朝』9月1日)
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9月1日
・この日、2ページの旅順攻防戦付録を出した「大阪朝日」、軍の方針に反したとして、発行人・編輯人が大阪地裁から罰金夫々30円に処せられる。旅順攻防戦は、8月19日の総攻撃から12月8日まで、詳しい記事は禁止される。
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9月1日
・私立京都法政専門学校、私立京都法政大学と改称認可。立命館大学の前身。
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