2014年7月18日金曜日

明治37年(1904)9月2日~15日 ロシア軍が遼陽を撤退し日本軍がこれを占領 日本軍死傷者23,533(旅順口第1回攻撃の1,5倍、日清戦争の全死傷者の1,7倍、陸軍史上空前の死傷者)

北の丸公園 2014-07-16
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明治37年(1904)
9月2日
・ロシア満州軍、遼陽から奉天へ撤退決定。
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9月2日
・東京市街鉄道、遼陽会戦の祝勝のイルミネーション電車を運転。市民に人気。
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9月2日
・石川三四郎(28)、小田原海岸の加藤病院に入院。
10日、箱根大平台林泉寺に内山愚堂を訪ね小集会。
12日帰京。
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9月3日
・午前11時20分、遼陽停車場付近に大火災(撤退の表象)。
各師団、前進開始。第4軍は砲弾不足で苦戦。
午後7時30分、日没とともにロシア軍退却開始。
午後9時30分、第10師団第20連隊第3大隊、遼陽小南門に到着。一番乗りは第3大隊に同行した第2大隊所属福井新太郎伍長。
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9月3日
・「此の一大戦(遼陽の戦い)」は「実に我が国に取て振古未曾有」であり、「国家の栄辱安危一に茲に繋(かか)る」ものである。もしも敗北すれば、「我が軍隊の威厳を失墜する」だけではなく、「我が国命を危くするに至る」だろう。だから、この戦いは、「我が史上第一の大戦にして、天下の形勢を一定したる」関ケ原の役に匹敵する意義を持つという(『萬』9月3日)。
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9月3日
・「遼陽占領」が報じられ、日本中が沸き立った。
東京では「遼陽の大戦に於て我軍が大勝利を博したるより、旅順陥落に待ちあぐみし市民は皆競ふて祝捷の意を表したるが、夜に入りては更に一段の景気を加へ来り、全都は悉く電気、瓦斯、提灯の火にかゞやきて一種の偉観を呈するに至」った。家々には国旗と提灯が掲げられ、イルミネーションに飾られた市電や建物があちこちに登場し、音楽隊が繰り出し、戦捷祝賀会が開かれ、さながら「火の都と化したる夜の東京」だと評されている(『東朝』9月3日)。

横浜では、8月初旬 「旅順陥落を見越て、紅白の布を巻付けた飴棒(あめんぼう)的の旗竿を各要所々々へ押立て」、「軒から軒へと提灯飾を打付け」ていたが、「待てど暮せど陥落の快報に接せぬので、紅白の布の色は褪せ軒木は腐つて落るといふ情ない始末」であった。

そこへ、「遼陽方面大捷の一大快報」がもたらされ、急遽これらが作り直され、「市中は到るところ旗と提灯で鼻を衝くやうな次第」となり、提灯行列などが行なわれた(『東朝』9月4日)。
東京でも「取つておきの旅順の催ほしを繰上げたるもの多く」(同6日)という。

旅順陥落祝賀の準備を、遼陽占領祝捷に差し替えた例が多かった。
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9月4日
・遼陽占領。
午前0時、日本軍、ロシア軍の退却を知り前進開始。
日本死傷23,533(戦死5,557)旅順口第1回攻撃の1,5倍、日清戦争の全死傷者の1,7倍、陸軍史上空前の死傷者。ロシア死傷17,912(戦死3,611)。
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9月5日
・日韓協約(第1次)公布。同時に日本政府は英文で「日韓協約に関する日本政府声明」発表。
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9月5日
・ロシア最大軍港クロンシュタット港、バルチック艦隊主力第2太平洋艦隊出港(司令官ロジェストヴェンスキー少将)。皇帝ニコライ2世・皇太后激励。旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」。
10日、レーヴェリ軍港入港。1ヶ月の訓練。この時点で「アリョール」は工事中(9月30日工員を乗せたままクロンシュタットからレーヴェリに向う。10月5日着)。
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9月7日
・イギリス・チベット、ラサ条約締結。
ダライ・ラマは外国の介入禁止合意。ロシアのチベット進出阻止。イギリスは交易地獲得。清国政府は未承認。
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9月8日
・(露暦8/26)露、ヴィリノ県知事スヴャトボルク・ミルスキー公爵、内務大臣任命。自由主義政策「ミルスキーの春」。
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9月9日
・遼陽会戦で首山堡のロシア軍陣地での攻防戦を指揮して戦死した橘周太少佐(中佐に進級)を称賛する新聞記事が一斉に出る。

橘の人となりを紹介するのは、彼と特に親しかったという教育総監部参謀柚原完蔵少佐。
「彼の軍神と称へらるゝ廣瀬海軍中佐は、共の最後の勇壮なりしが為のみにあらで、其の平素に在つて敬仰すべき事の多かりしを以て人の欣幕(きんぼ)を受くること探し、この橘少佐も亦其の平生の性行洵(まこと)に嘆美すべきもの多く、恰も陸軍に於ける鹿瀬中佐ならんと思考せらる」 と、柏原はいう。
廣瀬と同じように、平生模範的な軍人であった点が着目されている。
そして、「平素より常に身体を戦時的に作り居らざる可らずと謂ひ、其の主義を堅持履践し居た」例が紹介される。
冬でも沐浴は冷水で行なった。食事や衣服は質素を旨としたが、軍服だけは「常に美事なるもの」を着ていた。早起きをして「書生を対手に撃剣の稽古」をし、隊附きの際でも起床ラッパが鳴る頃には稽古場にいた。名古屋の中隊に勤務していた時には、2里(8km)を歩いて往復した。など、「軍人は常に戦場に在るの心懸ならざるべからずてふ主義を貫行する十年一日の如くなりし」様子が語られる。
また、精神においても、橘は模範的な軍人であった。
東宮武官を5年間勤めたが、毎朝必ず「家人と共に尊影を遥拝し勅諭を捧読」し、隊で部下に休暇を与えるのは、常に皇室の祭祀に関する日を用い、いかなる祭祀日なのかを説いた。郷里から来た書生は、真っ先に丸の内に連れて行き、宮城を遥拝させ、一人息子は、5歳で「勅諭勅語の要領を覚え」た。このように皇室に対する深い尊崇ぶりが紹介されている。
これらは、柚原からみても「驚くの外なし」というほどの徹底ぶりであった。

橘は自分に対してだけではなく、部下に対しても「厳正にして所謂信賞必罰を旨として一歩も仮借する所」がなかった。しかし、「実は其厳正なる裡(うち)に熱き情を包めりし人にして、決して武骨一片の人」ではなかった。名古屋地方幼年学校校長だった時には、生徒たちが常に家に遊びに来て、日曜日には座敷があふれかえるほどであった。彼はこれを喜んで、「懇切に教訓戒諭を加ふるが故に、皆其慈に懐(なつ)きて恰も父母を見るが如く」だったという。陸軍戸山学校在職中も、時には演習が終了しての帰途に、生徒たちが橘の家に寄り「食を乞ふことなどもあり、其状恰も生家に於けるが如し」であった。
廣瀬と同じように、部下とは親子のような関係であったことが強調されている。
この他に、筆まめな橘が著述した「各個教練」や「夜間戦闘演習」などが、軍隊教育に貢献したことも指摘されている(『東朝』9月9、10日)。
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9月10日
・大蔵省主税局目賀田種太郎、韓国政府財政顧問着任。
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9月11日
・週刊『平民新聞』第44号発行。

芳岳(下中弥三郎)「悪魔萬歳!」
見よ国内の津々浦々
釣るす球灯、樹つる旌旗(せいき)
旌旗は犠牲の血の色に赤く
球灯は人魂(ひとだま)の火の如く輝やく

犠牲を送りて涙を隠せし同胞は
今や悪魔の勝利を讃美す
病死には喪服を纏うて弔し
戦死には晴衣を装うて祝す

「帝国萬歳大勝利」
何ぞ悪魔の大勝利と書かざる
「陸海軍の大捷を祝す」
何ぞ人道の滅亡と記さざる
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9月12日
・韓国、通信施設妨害容疑で3人の朝鮮人公開処刑。
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9月14日
・韓国、始興民擾。
京幾道始興郡、群集数千、京釜鉄道軍役人夫徴発反対。郡守と日本人2人殺害。
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9月15日
・遼陽の戦闘詳細が明らかになるにつれて、日本側は苦戦を強いられ、多くのロシア軍部隊の奉天方面への撤退を許したことがはっきりしてきた。期待されたような、日露の決着をつける戦いにはならなかった。
このために、祝捷気分よりも犠牲の大きさが、しだいに実感されるようになる。

「遼陽占領の詳報」を伝える新聞は、「敵に肉薄して銃剣突撃を為し、勇壮猛烈なる白兵戦の後一旦是れを占領したるも、遂ひに之れを守持するを得ず」とか、「敵は石を投じ擲弾を擲うちて我が兵に迫り、戦史上未だ見ざる程の悪戦を為したり、其の戦ひに於て某大隊の如きは健全なるもの将校一人のみ、他は悉く負傷若しくは戦死し」といった言葉で埋められ、「斯る激烈なる戦闘を継続すること旬余に及ぶは、世界戦史上未だ其例を見ず」と結ばれている(『報知』9月15日)。
そして、新聞の紙面は、戦死した将兵の経歴や人となりを描いた記事で、連日埋められるようになる。

一方で、「非戦論者のトルストイ」や「命からがら逃延びて予定の如くと負惜(まけおし)みをあやつる敗将」、「勝に誇りて味方の死傷を忘れ一本の線香だも立てず、濫りに祝捷熱に浮かされて夢中に提灯を振舞はす連中」が、「孰(いず)れか狂にあらざる可き」と攻撃されるようになる(『東朝』9月19日)。
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9月15日
・イタリア、ミラノなどでで革命的サンディカリスト指導の全国的ゼネスト(~20日)。
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