2014年7月11日金曜日

堀田善衛『ゴヤ』(37)「アカデミイ会員=ゴヤ」(3終) 「がしかし、成功と出世のための道筋だけは、はっきりとついたのである。」

ナデシコ 江戸城(皇居)東御苑 2014-07-10
*
ゴヤ自身の身から出た錆
「いったいこの喧嘩の真の原因は何であったか。はっきりしたことは何もわかっていない。
・・・
・・・ゴヤ自身の身から出た錆、としなければ落着く先はないことになる。
新アカデミイ会員としての、自任されたる重要性、重要人物であるとの、おそらくは過大な自己評価……。こういう自己評価が生む、あるいはそれと裏腹な関係にある嫉妬心などが考えられるであろう。」"
"おれが騾馬を買ったことを、そっち(サラゴーサ)ではどう思われているか話してくれ
「それに、もう一つ重なって行くものは、他人の、この新重要人物に対する嫉妬心というものも無視してはならないであろう。
・・・
この大騒ぎ以前に、新アカデミイ会員はマドリードからサバテールに、

おれが騾馬を買ったことを、そっち(サラゴーサ)ではどう思われているか話してくれ。

と得意満面で手紙に書いているが、アラゴンには”馬車に乗ってる奴を殺せぬなら、せめて馬を毒殺してやれ”という言い方さえもあるものであった。」

ゴヤは、新アカデミイ会員として、”猫穴”からサラゴーサへ入って行ったのではなかった
「・・・マドリードでさえ、”猫穴から入る”という言い方があったものである。
猫穴から入る、というのは、人とつきあうについての謙虚さを言いあらわしたものであった。他人の家を訪問するについて、玄関の二枚戸を、二枚ともひらいて受け入れられることを、〝大戸開きで入る〞と称されたものである。・・・
ゴヤは、新アカデミイ会員として、”猫穴”からサラゴーサへ入って行ったのではなかった。
バイユー兄弟とともに、堂々と〝大戸開き〞で入って行ったものである。・・・」"
"誤りをおかしたのは、明らかにゴヤ自身である。彼は傲慢の罪を犯したと言えるだろう
「アラゴンにはまた、”輪ッパに棒を”という言い方もあった。馬車の車輪に棒を突っ込んでひっくりかえせ、という次第である。
サバテールへの騾馬購入についての手紙で、すでに彼が故郷に渦巻いている筈の嫉妬心に気がついていることは明らかである。彼はその嫉妬を逆撫でしたものであったろう。他人の嫉妬心をもてあそぶなどということは、最低の処世術である。
誤りをおかしたのは、明らかにゴヤ自身である。七つの大罪風にこれを言えば、彼は傲慢の罪を犯したと言えるだろう。」

ゴヤが描いたエル・ビラール委員会責任者マティーアス・アリュエーの肖像
「・・・(ゴヤが)、エル・ビラールでその委員会責任者の、マティーアス・アリュエーの肖像を描いたのがこのサラゴーサ滞在中であったとすれば、それはありうることである。・・・ ー ゴヤは、この肖像画で、アリュエー氏の御機嫌伺いをした形跡もある、というものであろう。
私はこの肖像画を、西フランスはもうピレネー山脈に近いカストルの町の美術館で見たとき、ゴヤの営む画家商売の危うさ加減を、描かれたアリュエー氏が危っかしいものだ、と思いながら描かれているかに思ったものであった。」

いったい彼の描いたフレスコ画そのものについてはどうなのか
「・・・、いったい彼の描いたフレスコ画そのものについてはどうなのか、・・・
「円天井の大壁画『殉教者の聖母』とその附属穹隅を眺めてみると、当時の人々がいかに盲目であったかに驚かされる。ゴヤの壁画を、バイユー兄弟の描いたものと比較してみると、後者も、確かに、かなりの出来ではあるが、その差は顕著で、特に、色彩の輝き、人物群のまとめ方に見られる新しさ、主要人物、例えば極めて美しい『信仰』の女人像に見られる創造性などにその違いが明らかである。」
と、その差と、その違いを明言しているのはサンチェス・カントン氏なのであるが、・・・筆者などには、バイユー兄弟のそれと比較して、その差、その違い、というものが、それほどに、顕著であるとは、どうしても思えないのである。・・・
・・・。望遠鏡で、如何に細部を検討し比較をしてみても、それほどとは思えないのである。・・・
私に、なるほど、と思えた点は、前回の仕事と同じく円天井なのに、凹形を強調することがまったくなく、大きな雲塊を使ってやわらかく全体を処理していることだけであった。」

この男(ゴヤ)は転んでもただでは起きない
「しかし、この男は一筋縄では行かない。転んでもただでは起きない。
・・・六月も明けぬうちにマドリードへ馳せ戻った・・・。
彼はおそらく一つの情報をもっていた。
それは著名なる、王の建築家であったベントゥーラ・ロドリゲス、あるいはこの建築家の周辺から出たものであったろう。・・・。
マドリードで、この建築家の設計及び指揮の下で、長の年月と巨額の君をかけた一つの大修道院兼教会が建設されていた。それはフランシスコ会のもので、首都マドリードの誇りともなるべき一大建築となる等のものであった。
・・・
この修道院兼教会、サン・フランシスコ・エル・グランデが、ちょうど完成をした。」

建築家ベントゥーラ・ロドリゲス氏はゴヤの後見者であったという推理
「後日(一七八四年)に、ゴヤは建築家ベントゥーラ・ロドリゲス氏の肖像を描くことになるが、・・・。われわれはここで一七八四年という日付けを覚えておかなければならない。というのは、この年は、これから問題になる、ゴヤのいわゆる”コンクール”による作品群が完成し公開された年であり、この肖像画には、どこからどう考えてみてもゴヤの側からのお礼の気持が入っているものである。
さらにこの肖像画のなかで、建築家は彼が設計をした、ほかならぬサラゴーサのエル・ピラール大聖堂の中央天井の設計図を手にしている。ロドリゲス氏はこの教会を生涯の傑作と考えていたもののようであるが、・・・。
がしかし、実のところは、この大聖堂で最初の(一七七一年)大きな仕事を彼はさせてもらった。その時以来、建築家とゴヤが知り合い、おそらく前者が後見者のような役割りを果していたものであろうとの推理を可能にする一つの根拠である。ロドリゲス氏はまた前枢機卿ドン・ルイース親王とも、総理大臣フロリダプランカ伯爵とも親しかった・・・」

またまた”機会”がめぐって来た
「・・・、またまた”機会”がめぐって来たのである。・・・。
早くも七月二〇日に、王の勅命が下った。勅命は、時の総理大臣フロリダブランカ伯爵を通じて伝達された。・・・。
勅命が下った、となれば早速にもサバテールに知らせなければならない。七月二五日付けの手紙を抄しておきたい。

友よ、時が来た、マドリードで絵画の領域で起り得る限りの最大の企画の。
王におかせられては、サン・フランシスコ・エル・グランデ教会のための絵画を描かせる決定をなされ、ついてはこのぼくに、そのうちの一つをまかせるよう、宮廷において任命をされるという栄誉が下された。

・・・。七人の画家のコンクール、競作なのである。そのなかにはフランシスコ・バイユーも入っている。・・・
・・・バイユーは巨大な主祭壇を描くのであり、ゴヤ及びその他の画家たちは七つあった副祭壇を担当することになったのである。」

この知らせをどう扱ったら棍棒の一撃を(サラゴーサの連中に)与えることが出来るか
「・・・新しい「希望」がありさえすれば、絶望と苦悩のどん底からでもこの男は跳躍が出来る。

ぼくは本当に参っていたんだ。神がぼくに元気を出させてくれるようにと祈っていたんだよ。

・・・

君は、事ぼくに関する限り何にでも興味をもってくれているが、君は、きっとこの知らせをどう扱ったら棍棒の一撃を(サラゴーサの連中に)与えることが出来るかを、君自身、目に物見せてやれるだろう。

・・・
・・・、とにもかくにも郷党の連中に目に物を見せてやらぬば胸が収まらぬのである。・・・」

彼が描いた主題
「彼が描いた主題は、シエナの聖ベルナルディーノがシチリーの王レナートの前で説教をしていたときに起った奇蹟について、であった。ここでシチリーの王レナートと言われている人は、一五世紀にフランスのアンジュウ、バール、ロレーヌ、プロヴァンスなどの領主をしていた、歴史には Rene d Anjou として、より知られている大公である。この領主は八歳のときシチリーを相続し、また二五歳のときにナポリ公国を相続しはしたものの、実はほかならぬアラゴンのアルフォンソ五世からの邪魔が入って、ついに一度もシチリーにもナポリにも行ったことがなかったのである。ただの、名目だけの領主であった。」

なんという自己顕示慾であろうか、と、それは声に出して驚きたくなるほどのもの
「・・・彼は途中で、この王(*シチリーのレナート王)をアラゴンのアルフォンソ五世に変更した。敵と味方をとっかえてしまったのである。」
「しかし、ここでも驚くべきことは、細部の出来上りという点でいちばんよく出来ているものは、聖人や王そのものなどではなくて、絵の右隅に王の家臣の一人として捲き込まれた、ゴヤ自身の自画像である。
なんという自己顕示慾であろうか、と、それは声に出して驚きたくなるほどのものである。」

こういう男とはつきあいにくい
「タピスリーのカルトン『仔牛での闘牛』に伊達男としての自分自身を描き込むことなどは、まだまだ無邪気なものだとして許されるであろう。それは、御愛嬌、というものである。
またベラスケスの『カルロス王子騎乗図』を版画化するについて、王子の顔と自分のそれとをとっかえっこをするなども、まずは浸画ということで、これも強いて答めるにもあたるまい。
しかし、彼がここで一挙に名誉を挽回し、他の作者たちとの競作でまる二年、三年近くもかかって描いた、マドリード一の大教会の装飾に、おのれ自身を描き込むとはどういう神経であろうか。しかも、三枚のこっている下絵には、そんなものはかけらもなかったのである。本番にだけそれがある。アルフォンソ五世の堂々たる家臣であり、扈従である。
またそれは誰が見てもゴヤ自身であると見て見誤ることがありえない。
こういう男とはつきあいにくい……」

とにかく彼は報われた、成功と出世の道筋はついた
「いわゆるコンクール、制作期限が延期され、最終的に完成し、公開されたのは三年後の、一七八四年であった。ゴヤは、彼としては異常なほどに長い時間をこの絵にかけたものであった。
それだけに一七八四年一二月八日、王と宮廷の全員及び仕事に従事した画家全員も列席のもとにこれらの作品が公開されたときの喜びは一入のものであった。
例によって手紙を書かねばならぬ。

ぼくは運がよかった、例のベルナルディーノ聖人のことだよ、専門家たちだけではなくて、一般人にもだ。まったく文句なしに、誰も彼もがぼくの側だ。王だって、宮廷全員の前で満足の意を表してくれたんだ。」

「しかしとにもかくにも、彼は報われたと言うべきであろう。仕事についたはじめの年の年末には、父のホセが死に、つづいては妹のリタが死んだ。リタの死はとりわけて彼を悲しませた。いまや一家の大黒柱として家族の世話を見なければならぬ立場の彼として、父の死に様のみじめさと同様に、充分に妹の面倒を見てやれなかったという後悔がのこったものである。母はホセーファと折り合いがわるい。やがては弟の面倒も見てやらねばならぬ。
がしかし、成功と出世のための道筋だけは、はっきりとついたのである。
ベントゥーラ・ロドリゲスだけではなく、総理大臣フロリダブランカ伯爵までが、”ぼくの側”である。」
*
*


0 件のコメント: