2014年10月16日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(46)「”私は幸福だ”(soy feliz)」(8終) 「マルティン、僕はいまや年俸一万五〇〇〇レアール(約三七〇〇ドル)の宮廷画家だ! (実のところ、宮廷画家などという大仰なものではない。定給が出るようになったというだけのことである)」

ゴヤ『カルロス三世』(1786)
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ともあれ、彼のなかにあって、息を詰めて棲息をしているもう一人の、彼自身のなかの地下人物が、そろそろと、彼に近付きつつある
「ゴヤがはじめて怪異を描いた、ということでこの絵は多くの研究者たちの目を惹いているものではあるが、私はこの二枚のポルハ聖人画は、絵画的にはまったく大したものではないと思っている。・・・
・・・私は怪異そのものではないけれども、先に触れたスーニガ家のマヌエル少年を描いた極美な肖像画の背景にはいつくばっている三匹の猫、特にその目玉が、ゴヤにあらわれて来る怪物、異物、ものの怪のはじまりであろうと思っている。
ともあれ、彼のなかにあって、息を詰めて棲息をしているもう一人の、彼自身のなかの地下人物が、そろそろと、彼に近付きつつあるのである。
この二枚は、オスーナ公爵家によって、ポルハ聖人のために建立されたバレンシア大聖堂中の第二教会に奉献され、いまもそこに掲げられている。・・・」

ゴヤはとんでもない冒険をした
「とんでもない冒険をしたものであった。というのは、このポルハ聖人は、四代目ガンディーア公であると同時に、イエズス会の第三代総長となった人であった。しかも異端審問所の糺問をうけたことのある人であった。
すなわち、四代目ガンディーア公としての領主及びカタルーニァ副王としての義務を勝手に放棄して、出家をするという、王に対する不服従の罪を犯していた。第二に、イエズス会の総長であったこと自体が、現異端審問所にとっては、罪ということになっている。イエズス会は、一七六七年以来、スペインでもポルトガルでも、また本山のローマにおいても御禁制ということになっていたのである。第三に、ポルハ聖人自体が生前異端の罪に問われたことがあった。」

『カルロス三世』(1786):
当時のゴヤとしてはまぐれ当りの傑作とでも言うべきものであろう
「オスーナ家から多くの注文をうけていたこの頃(一七八六年~八八年)に、ゴヤは年老いたカルロス三世の、狩猟姿の肖像を何枚か描いている。・・・他の宮廷画家の描いたものを参考にして描いたものである。
しかし、それでもなおかつこの数枚の肖像画はある意味での傑作であるとさえ思われる。この当時のゴヤとしてはまぐれ当りの傑作とでも言うべきものであろう。白い、一枚の布切れのように薄いカツラが小さな、とがった頭にはりついていて、皺の深い顔にはブルボン家の長大な鼻が垂れ下っていて、その眼は、いったい微笑をしているのか、それとも誰かを嘲笑しているのかわからないほどに、微妙なこの王の内面感情を表出していると思われる。」

「まぐれ当りの傑作、と言ったのは、王としての威厳などというものがまったく無視されているからである。彼は、ほとんどわれ知らずに、人間としての王をなまのままに描いてしまった。」

1786年、はじめて王からの直接の注文があった
「・・・、この同じ年(一七八七年)に、はじめて王からの直接の注文があった。
それは、バリァドリードのサンタ・アナ修道院が建てかえられて、そこの新教会に三枚の祭壇画を描け、という注文であった。ところが、この注文なるものが、いささか無茶なものであった。王は六月のはじめに注文を出しておいて、七月の二六日、つまりは聖女アンナの日までに完成しろ、というのである。」

「しかし、作品は期日までに完成されなかった。・・・同じ年の八月には、「いまのいまも、いったいどっちへ頭をぶっつけたら(未完成のどの画布に向って立ったら)いいものかわからないほどだ。何しろ受けた注文をどうこなしたらいいかわからないんだしと友人に告げている。」

『十字架上のキリストの前に脆く聖女ルトガルディス』(1787)など三枚一組の絵:
この期日遅れで出来上った絵は、これまた後世の人々を驚かすに足るものであった
「この期日遅れで出来上った絵は、これまた後世の人々を驚かすに足るものであった。
この絵の前に立つ人は、そしてもしゴヤの作であることを知らなかったならば、誰にしても一七世紀の作品、ひょっとするとスルバランの作品と思うかもしれない。とりわけて『洗礼を授ける聖ベルナルド』、あるいは『十字架上のキリストの前に脆く聖女ルトガルディス』などは、その聖衣の純白さ、襞の扱いの丁重さ加減から見て、たとえスルバランの作としないまでも、ゴヤ以外の誰かの作とされても無理からぬと思わせるものである。
・・・いまの二枚と、もう一枚の『聖ヨセフの死』で三枚一組なのである・・・」

「・・・いずれも絵画そのものとして過不足なく充足しているのである。前二者の白、後者の画中の人物のまとった薄い褐色と青、ベージュ色に近い薄青などの配色も、それまでのゴヤには見られなかったものである。しかもバレンシア大聖堂内のポルハの配色のどぎつさと比べて見れば、同一人の手になるとは思えないほどの変貌ぶりである。人物・衣裳などはすべて線によってなぞられ、聖女ルトガルディスの脆いての祈りには花までが添えられている。
・・・
絵は一昔前の少女雑誌の口絵にしてもいいくらいに抒情的である。・・・宗教画としては、前記の聖フランシスコ・デ・ポルハについての二枚よりもはるかにすぐれているであろう。」

「この画家は、ほとんど近代的、と言ってよいところまで突出して来るかと思うと、さっと一七世紀まで引きかえしてしまったりもするのである。変幻自在、とでも言うべきか。」

「それからこの三枚の絵のもう一つの特徴は、人物たちの手、手というよりも指が実に丁寧に描かれていることである。人物の姿勢から言って、見えてしかるべき手の指は全部描かれているのである。・・・
それはゴヤにしては不思議な、とさえ思われるほどのことであった。・・・」

僕自身については、一向に昇進の見込みがない
「ゴヤは次から次へと仕事をこなして行く。
・・・タピスリーの下絵もつづけて描いているのである。・・・

僕自身については、一向に昇進の見込みがない。

と彼がサバテールに手紙を書いたのは、一七八五年の年初のことであった。宮廷画家の一人であったカリェーハなる人が死んで、ゴヤはまたしても、飽きずに宮廷画家にしてほしいと申し出て、それをアテにしているのである。」

僕はこの世で一番満足し、一番幸福だ
「しかしゴヤの希望は、例によって、と言ってよいほどであるが、やはりいれられなかった。
彼がえたものは、アカデミイの絵画部長代理というつまらぬ役職にすぎなかった。それも全部で一七票の投票のうち、やっと九票をえたにすぎなかった。やっとかっとの過半数である。
しかし彼は、

銀行の株とアカデミイの手当てで年に一万二〇〇〇(約三〇〇〇ドル)から一万三〇〇〇レアールの収入があって、僕はこの世で一番満足し、一番幸福だ。

という次第である。」

ゴヤは、いまやブルジョアである。スペイン最大の金融機関の株を運用する!
「彼はサン・カルロス銀行に多くの知り合いが出来、特に法官であり、経済学者であり、詩人で、歴史家で政治家で銀行家でもあるという、当時のスペインを代表する一大知識人ガスパール・メルチョール・デ・ホベリァーノス氏と親しくしていた。
・・・この大人物がゴヤに収入の運営法を教えてくれていたものであった。彼はゴヤと同年にアカデミイ入りをした人であった。・・・ゴヤは一七九八年に彼の肖像画を描くであろう。
サン・カルロス銀行は、現在のスペイン銀行であり、ここにはゴヤの署名入りの株券が保存されている。
ゴヤは、いまやブルジョアである。スペイン最大の金融機関の株を運用する!
サラゴーサの餓鬼大将時代には、夢にも見ることの出来なかった大物になったのである。」

マルティン、僕はいまや年俸一万五〇〇〇レアール(約三七〇〇ドル)の宮廷画家だ!
(実のところ、宮廷画家などという大仰なものではない。定給が出るようになったというだけのことである)
「さて彼はアカデミイの絵画部長代理というものになった。つまりは次長ということであろう。

役得はまるでないが、大変な名誉なのだ。

と彼は言い訳がましく威張ってみせる。
かくて一七八六年の七月になると、ようやく次のように書くことが出来るようになる。

・・・
マルティン、僕はいまや年俸一万五〇〇〇レアール(約三七〇〇ドル)の宮廷画家だ!

しかし、これはまた大袈裟なことを言ったものであった。・・・

実のところは、王の恩寵などとは大して関係がなかったのである。コルネリオ・ヴァン・デル・ゴッテンという王立タピスリー工場の長が死んだので、首席宮廷画家としてのフランシスコ・バイユーが二人か三人の画家を選んでこれをタピスリー製作に張りつけようとした。そうしてそのためにはいままでのような出来高払いではなくて、定給をつけてやろうではないか、と言い出した。それだけのことであった。バイユーは当然実弟のラモンを推し、ゴヤの名前を同時に示唆したものであった。そうして同じく宮廷画家のマエーリァはゴヤとラモン・バイユーを推薦し、王はタピスリー工場の技術主任に、死んだ工場長の甥を任命すると同時に、この二人をカルトン製作に従事するようにと命じた。
・・・宮廷画家などという大仰なものではない。定給が出るようになったというだけのことである。・・・」

まず、馬車を買おう
「ゴヤは、少し、〝宮廷画家〞としての体面をたもち、体裁をととのえなければならぬ。
まず、馬車を買おう。
馬車は馬車でも、やはり酒落たものでなくてはならない。
彼はビルローチョと称され、またイングレーサ、イギリス式とも称されることのあった二輪の、前方に二人用の無蓋席のついたものと、これを引かせる馬一頭を購入した。当時こういう方式の馬車はマドリードに三台しかなかったといわれている。・・・
で、縁起のいいサンティアーゴの日に、馬を売ってくれたナポリ人をつれて試乗、と出掛けた。
得意満面、乗り出したのはよかったが、たちまち一方の輪ッパが溝にはまり込んで転覆、ゴヤは放り出されて踝を傷つけ、しばらくはピッコを引かなければならない。・・・」

「この年の翌年、一七八七年の四月にもう一度転覆して道路へ放り出されている。「僕はもう二輪馬車は嫌になった」というのも無理はない。・・・今度は馬を売って騾馬二頭立ての四輪箱馬車、ベルリーナ、ベルリン式と称されるものを買うことになった。・・・」

「こうなると、今度は御者馬丁が必要となって来る。厩舎も馬車の置き場も……。いよいよ大ブルジョアである。フエンデトードス村の家では騾馬といっしょに暮していたものであるが・・・・。」

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