2014年11月7日金曜日

寛治元年(1087)12月 後三年合戦のあと義家への論功行賞はなし 義家のその後 清衡のその後


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寛治元年(1087)
12月7日
・陣定で越前へ来着した唐人のことを議論(「本朝世紀」)。
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12月13日
・若狭守正四位下藤原正家に式部権大輔を兼任させ、従五位下藤原経忠を越前権守に任じる(「本朝世紀」)。
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12月26日
・源義家の国解(国司の中央に言上する時の公的文書)、朝廷に到着。戦況を報告し、正式に官符を給わることを願う。
しかし、官符は下されず、恩賞の沙汰もない。 

朝廷は、この役を私闘として論功行賞せず。
義家は私財を投げ打って功績のあった将士に報いる。
このため源氏と関東武士団のは強く結び付き、強力な武士団を形成。源氏は武士の棟梁としての地位を確立していく。
藤原清衡(関白家と庇護関係を結び亡父の藤原姓を名乗る)は、出羽・陸奥両国支配者の嫡流として1人生き残り、更に勢力を拡大、平泉を中心とする奥州藤原氏の基礎を築いていく。

「将軍国解(こくげ)を奉(うけたまわり)て申せう。武衡が謀叛すでに貞任宗任に過たり。わたくしの力をもってたまたまうちたいらぐる事を得たり。はやく追討の官符をたまわりて首を京へたてまつらんと申す。然れどもわたくしの敵たるよし聞ゆ。官符を給わらば勧賞(けんじよう)おこなわるべし。乃て官符をなるべからざるよし定まりぬと聞て、首を道に捨てむなしく京へのぼりにけり」(『群書類従』第二十、合戦部)。

(国解を奉じた義家は、武衡と家衝の謀叛は、かつての安倍貞任・宗任以上のものであり、これを義家が自ら独力で平定した。そのため、今からでもすみやかに追討の官符を賜って、謀叛の首謀者たちの首を携え上京したい。しかし、朝廷からはこの戦いが朝敵ではなく、「わたくしの敵」としての戦争であるとして許可がない。したがって、官符を与えられなければ恩賞もないということで、彼らの首級を道に捨ておき、上京した。

朝廷側の主張は明解。
「わたくしの敵」には、追討の官符は認められない、というもの。官符を与えれば「勧賞」を認めねばならなくなる。義家の申請は却下された。
この頃の日記が多くこれを、「義家合戦」と評している(『後二条師通記』応徳2年11月2日条)。

義家の主張:
義家にとっては、頼義以来の奥州での勢力拡大構想のもと、清原氏の内紛に介入したが、これを「朝敵」(公戦)との戦いと主張する根拠がないわけではない。
鎮守府将軍武則の嫡流たる真衡の真衡館への家衡らの攻撃がそれ。
真衡が義家下向以前に鎮守府将軍に任じられていた可能性も高く、その館は職務遂行の半公的機関の性格を併有していた。この白鳥の館で鎮守府機能が代行されていた関係から、その公的性も否定できない。
そもそも陸奥での不穏な情況への対処もあって義家の下向が実現した以上、政府側が「わたくしの敵」(私戦)論を前提に、公戦論を否定することは問題も残る。
おそらく、この戦争が一族の内紛に端を発しつつも、その前段階では真衡対家衡・清衡の対決という情況のなかで、国務秩序の回復という理由からの戦闘行為には根拠があった。
だが、後半の清衡対家衝の対立は、完全なる遺領・勢力争いであった。
従って、義家側の論理はこの戦争の発端に力点をおくことで、後半の私戦的要素を強弁しようとしたことになる。
一方の政府側は、隣国の出羽にまで赴き、一族の内紛に介入する義家の姿勢を私戦以上のものではないと断じた。
結果、義家の主張は認められず、「首を道に捨てむなしく京へのぼりけり」ということになった。

棟梁
通説では、前九年合戦・後三年合戦を介し武家の棟梁たる源氏の威勢が高まったといわれている。とりわけ後三年の戦いを主導した義家については、自身の私財を以て従軍した戦士たちに償ったことが喧伝され、主従関係の結合が促進されたとされる。
たが、美談風に仕立て上げられた頼義や義家論には、源氏政権への予定調和が見える。

実態上の呼称としての「武家の棟梁」は、「武家」概念の成立と表裏の関係のなかで誕生したもので、そこにどのような内実を与えるかにより、棟梁の見方にも違いが出てくる。
昨今の諸研究には、義家を「武家の棟梁」とみなすことに、疑問を投ずる見解も提起されている。
「棟梁」を東国武士の利益の代弁者として限定的に考えれば、源氏に関しては義朝あたりが妥当とされる。
武家の棟梁として率いる武士団にヒエラルキーを認めうるか否かは、武士団内部の領主制の問題でもあり、その点から12世紀後半の義朝段階に棟梁成立の画期が求められる。
しかし、それは頼義~義朝の間で配された”遺産”の使い方(=主従関係での量の問題)でしかない。

満仲以来の源氏が、軍事貴族として成長してきた過程で義家や義光も「兵の家」の継承者であり、武門の棟梁であったし、平維時・維衡・致頼らもこれに相当した存在であったとされる。
ただし厳密にいえば、棟梁たる条件には、武力動員の仕方が大きく、その点では、「住人」と呼ばれた武的領有者たちと広範囲な形で動員を可能にした前九年・後三年の戦いは、棟梁の出現にふさわしい。

二つの戦争を遂行した頼義・義家は、棟梁としては未熟であった。
それは率いた戦士集団が、その領主としては未だ発展途上にあったことによる。
鎌倉期の地頭領主を雛型に設定した場合はそれを指摘できる。

しかし、軍事貴族たる彼らが、奥羽という場で「坂東の精兵」たちと長期にわたり戦争を遂行した。
「棟梁」には利益の代弁者(階級的利害の代弁者)の意味がある。
地域領主として成長した「住人」の要望(官職への推挙や恩賞沙汰)を、自らが媒介・仲立ちする役目が期待されていた。王朝的武威を擁した頼義・義家は、その資格を持っていた。
かれらは「天下第一武勇之家」との名声を得ることで、中央政界の武力権門の代表者とされ、その流れがやがて頼朝へとつながる。

■源義家(1039~1106)
これまでの概観
父は源頼義、母は平直方女。八幡太郎と号す。
左近衛将監、検非違使、左衛門尉、左馬権頭、河内・相模・武蔵・信濃・下野・伊予等の国守を歴任。正四位下。
前九年の役に、父頼義に従って安倍氏と戦い、その功によって康平6(1063)年2月、従五位下、出羽守となる。
関白藤原頼通邸で軍功を披露した際、大江匡房から兵法の未熟さを論され、匡房に師事。承暦3(1079)年美濃で源重宗と同国房が戦った際、詔を受けて重宗を追討、更に永保元年の園城寺と延麿寺の抗争の際には、検非違使とともに園城寺の僧兵を追捕。
同3年頃、出羽の清原真衡が異母弟清衡・家衡と対立、義家は陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ下向、これを収拾。直後、真衡は急病死。遺領を清衡・家衡に折半。これを不満の家衡は、清衡を攻撃、妻子を殺害、義家は清衡を助けて家衡の沼柵を攻撃、大雪と飢寒のため敗北。寛治元(1087)年9月、家衡の金沢珊(横手市)を攻撃。同年11月、柵は陥落、家衡は敗死、清原氏は滅亡(後三年の役)。
この戦役で、義家は家衡追討の官符を要請するが、朝廷は私闘として官符を発せず、勧賞もなし。義家は、私財を以て配下の軍将をねぎい、両者の関係がより強化される。

■義家のその後
「わたくしの力」で「わたくしの敵」を鎮圧した義家の声望は高まった。
しかし義家は後三年合戦後、約10年にわたり「前陸奥守」の立場のままだった。
政府が義家の陸奥守時代の功過定をおこなったのは、永長2年(1097)で、翌年に院の昇殿が許された(『中右記』承徳2年10月23日条)。義家の10年におよぶ冷遇には、干渉戦争への失敗だけでなく、中央政界における白河院政の登場が、源氏内部での対立が反映している。
白河院は、摂関家への対抗のために、義家の軍事貴族としての独占的台頭を警戒し、義家の弟義綱を対抗馬として登用しようとした。

<院の昇殿までの経緯>
寛治2年(1088)、後三年合戦終結により陸奥守を免ぜられ、藤原基家が陸奥守に任命される。(『後二条師通記』など)
寛治5年(1091)、弟義綱と対立し兵を構えようとする。宣旨により義家の兵の入京を停める。(『百錬抄』『後二条師通記』など)
この年6月頃、義家の郎等藤原実清と、義綱の郎等藤原則清が河内国の所領の領有をめぐり対立(『後二条師通記』寛治5年6月11、12日条)。子細は不明だが、関白藤原師実が騒擾の調停に動くほどに緊迫した事態だったという。
寛治6年(1092)、義家の荘園樹立を停止。義綱の陸奥守就任。(『中右記』)
嘉保元年(1094)、陸奥守義綱、出羽の平師妙・師李の乱を平定、入京。臨時の叙位があり、義綱を従四位上美濃守に任命。(『中右記』)
嘉保2年(1095)、延暦寺・日吉社が強訴し、義綱の流罪を要求。
永長元年(1096)、義家、後三年合戦の間、陸奥の砂金を貢納しなかったため、その未進を督促される。
永長2年(1097)、朝廷、陸奥守義家の功過定を行う。
承徳2年(1098)、義家、院の昇殿を許される。(『中右記』)

寛治5年(1091)6月頃、義家の郎等藤原実清と、義綱の郎等藤原則清が河内国の所領の領有をめぐり対立した(『後二条師通記』寛治5年6月11、12日条)。子細は不明だが、関白・師実が騒擾の調停に動くほど緊迫した事態だったらしい。
同母弟といえ、自己の家人の争乱には命を賭け守りぬくという主従間の保護・奉公の関係が示されている。主従の関係が血縁の情誼に優先する世界が出現した。封建的主従関係の端緒が誕生した。
ここでも義家への制肘が目立ち、義綱への沙汰は見当らない。義綱が陸奥守に任ぜられ。
義綱は賀茂二郎の通称を有し、前九年合戦にさいしては頼義・義家ともども活躍し、左衛門尉となった。後三年合戦の勃発当初、義家にかわり奥羽へ派される計画があった。その義綱が寛治6年末、藤原基家に代り陸奥守に就任した。
事情は明らかではないが、後三年合戦の勝者清衡に挙兵の企てがあるとの報が寄せられたためだった。奥羽方面に武名を有した源氏が再度陸奥守に就任したことで、清衡の挙兵問題は鎮静化した。
義綱はこの功績により美濃守へと遷任された。かつて平忠常の乱を鎮圧した祖父頼信がこの美濃守となっており、河内源氏にとっては、東国へのルートとしては重要な拠点だった。
その義綱もこの美濃守時代に比叡山との関係が悪化し岐路に立たされる。
義家が昇殿を許され再度浮上するのは、その背景に陸奥守時代以来十年におよび砂金貢納の停滞があり、これが解決した事情もあった。その点では義家の不遇は、これまで受領功過を受けずにきた義家の国務経営(徴税問題や中央の指示を無視した合戦の強行)といった、経営責任に帰せられるべきとの見解もある。
そして、義家は昇殿を許され。「義家朝臣は天下第一の武勇の士なり。昇殿を許され、世人甘心せざるの気ある歟、但し言うなかれ」(『中右記』承徳2年10月23日条)。
後三年合戦からほぼ10年、義家は還暦を迎えた。「世人甘心せざる」との世評のなかで、河内源氏の内紛はさらに続く。

<院の昇殿後>
康和3(1101)年7月頃、義家の嫡子義親は対馬守として九州にあり、大宰府の命に従わず、人民殺害・公物椋奪を繰り返したため追討使が派遣。父義家は義親を召喚するが、義親は帰洛を拒否。翌年12月、朝廷は義親の隠岐流罪を決定。義親の濫妨は続く。その間、長治元(1104)年延暦寺衆徒の濫妨停止のために僧兵を追捕。義親問題が解決しないまま、嘉承元年7月4日、病により出家、同日没(68)。

■清衡のその後
『吾妻鏡』(文治5年9月23日条)に
「清衡、継父武貞 荒河太郎ト号ス 鎮守府将軍武則ガ子 卒去ノ後、奥六郡 伊沢・和賀・江刺・稗抜・志波・岩井 ヲ伝領シ、去ヌル康保年中、江刺郡豊田ノ館ヲ岩井郡平泉ニ移シテ宿館トナシ、三十三年ヲ歴テ卒去ス、」とある
これは奥州藤原氏滅亡後の文治5年(1189)、秀衡の側近豊前介実俊が、頼朝に語った藤原氏の来歴の一部である。そこには清衡が武貞卒去後、奥六郡を継承したこと(ここに岩井郡の名が記されるが、六郡の名が南から並んでいる点で、これは岩手郡の誤り)。さらに康保年中(964~968)に豊田館から平泉に移り、ここを宿館としたことが確認できる。
このうち岩井郡平泉への移住が康保年中とするが、誤記であり、嘉保(1094~96)か康和(1099~1104)の可能性が高い。いずれも後三年合戦後の間もない段階である。

清衡・真衡の清原一族の拠点は、鎮守府(胆沢城=奥州市水沢区)を軸にその周辺に位置していた。安倍氏の拠点、衣河柵はこの真衡館の南3~4km、胆沢郡の最南、奥六郡の入り口に位置していた。いずれも北上川の西側にあたる。
清衡の拠った豊田郡は北上川の東側にあり、胆沢郡という奥六郡の中心からははずれた位置にあった。清衡が母方の安倍氏の拠点衣河柵を越え、衣川をはさみその南方にある岩井郡平泉を拠点としたのは、安倍にも清原にもかかわりのない地域を選択した結果でもあった。血縁に規定された地縁からの解放という意味が平泉選定の一つといえる。
また、平泉が衣川以南にあったことは、奥六郡の外部世界との接触をはかる上で重要だった。陸奥国府にも近づき、平泉の地は、奥六郡以北との接点に当っていたわけで、北方世界の媒介者としての役割を担っていた。安倍・清原ではなく経清系の藤原を名乗ることの思惑と、新天地平泉への移拠は無関係ではなかったろう。

平泉以前の清衡について、後三年合戦直後の二つの出来事が確かめられる程度。

①寛治5年(1091)11月の関白師実への貢馬(『後二条師通記』)。この時期、京都では義家と義綱が郎等問題で対立事件がおきたころ。
馬2疋の献上だが、摂関家との接触をはかろうとした清衡の思惑が見える。義家撤退後の奥州に清衡自らが影響力を強化するためには、摂関家の後楯が必要だったはずで、貢馬の件はそうした清衡の摂関家への存在証明ともいえる。奥州産の馬は当時の貴族にとって、垂涎の的でもあった。"

②清衡挙兵の報。義家にかわり陸奥国守となった藤原基家(道綱流、母は刀伊入寇で活躍した隆家の末裔)からの報告として『中右記』にある。
「近日、陸奥国より国解を進む、これ清平(衡)、合戦を企つると云々」(寛治6年6月3日条)と見える。詳細は不詳だが、義家以後の奥州において、在地勢力の再編を企てた清衡の動きも考えられる。この清衡合戦に関しては、義綱の陸奥守補任で鎮静化したようで、大きな事件には発展しなかった。ただし、奥羽はその後の寛治7年~8年、平師妙らの反乱事件があり(『中右記』寛治8年3月8日条)、不穏な情勢にあった。
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