2014年11月15日土曜日

1785年(天明5年)1月~2月 林子平『三国通覧図説』 ピアノ協奏曲第20番(K466)・弦楽四重奏曲『ハイドン・セット』完成  【モーツアルト29歳】

北の丸公園 2014-11-14
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1785年(天明5年)
この年
・幕府、勘定方役人を派遣。手賀沼・印幡沼開墾工事監督。
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・潰し銀といえど銀座以外での売買禁止令(再々度)。
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・幕府の蝦夷地調査。
老中田沼意次、工藤平助の意見採用、勘定奉行松平秀持の立案により蝦夷地見分隊を派遣。
翌年、田沼失脚により、松平秀持も勘定奉行解任、蝦夷地見分隊も江戸へ引き上げ。

宝暦・天明期は幕藩体制の全般的危磯の時期(年貢増徴策は頭打ち、広範な地域での百姓一揆続発、流通構造変化と幕府財政の危機)。
幕府は、財政立直しを蝦夷地の産物俵物貿易に求める。
また、ロシアの南下政策の活発化、工藤平助「赤蝦夷風説考」などの建白による抜荷(密貿易)などの風評を知り、幕府の北方への関心は強まる。
この年、普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎、庵原弥六、皆川沖右衛門、青島俊蔵らに命じ、蝦夷地検分を行わせ、翌6年には、択捉、得撫方面の調査を命じる。幕府はこの調査派遣を契機に、俵物を全国画一に直買制とし箱館に会所を開設、所役人に河野伴左衛門、青野助十郎を任命し検分役と同時に江戸を出発させる。

この天明度の検分は、国防的意図は殆どなく、抜荷・横流しの密貿易の有無、蝦夷地経営の経済力の実相調査が重要なる眼目。
そのため幕府は、この調査に際し、江戸の回船方御用達苫屋久兵衛を起用し、幕吏の蝦夷地輸送を命じ、アイヌ交易にも従事させ、俵物の直買など諸色産物の交易を積極的に試みさせて、その実体を把握し、進展しつつある蝦夷地漁業生産物一般を幕府直営下に置こうとする意図を含ませる。
調査の結果、請負人らが直接異国人と交渉していた事実は認められないが、アイヌをその取次ぎにして禁制の異国渡来品を軽物と称し、売買している事実をおさえ、たとえそれが手先のものの不正とはいえ、松前藩の取締り不行届の責めは免れられないものとして、後に東蝦夷地上地の口実となり、また松前藩転封の端を開く。
しかし、これら一連の政策は調査途中で老中田沼意次の失脚によって、一時中止される。
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・林子平、「三国通覧図説」著す。樺太は半島と断定。
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・この年、幕府、長崎の俵物会所を俵物役所と改め箱館に会所を設け、一手請方問屋を廃止して直仕入制をとる。
箱館が、北国筋の俵物集荷拠点となり、毎年江戸から普請役・請払役などが出張して、北国筋俵物の統制と買入れを行うようになる。
天明8年の買入高は、箱館3,546両、松前蝦夷地廻り3,458両、江差300両と、箱館と松前がほぼ同額となり、箱館が延享年代に比較して上昇、江差はこの両地に比べ1/10にも達せず。
寛政2(1790)年・同3年の買入高では、箱館が5,250両・9,827両、松前3,189両・2,246両、江差は1,350両・1,100両と、箱館が3港のトップになり、松前・江差は減少傾向す。これは、天明5年以降の箱館を中心とした幕府の俵物直仕入制の採用によるもので、幕府による蝦夷地支配への道を切開くものである。
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・この年、米沢藩主上杉鷹山の隠退。
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・パリ、新しい市壁が完成。市の境界が、拡大される。大臣カロンヌの計画。
新しい市壁は、高10フィー卜の壁で繋がれる45の税関の環の工事が完成、全長18マイル以上にわたりパリを囲む。
市の境界は、外に広がり、東のフォーブール・サン・タンワーヌ、北のフォープール・サン・マルタンとフォーブール・サン・ドニを囲い、西方のパッシ村とシャイヨ村、南の古いサン・ヴィクトル、サン・マルセル、サン・ジャック、サン・ジェルマンの「フォーブール(場末町)を初めてパリに加える。
第一の目的は、国内関税組織を強化し、密輸出入を阻止する事により、国王の収入を増加させることにある。実際1789年のパリの関税収入は、国家の総額7千万リーヴルの内、2,800~3,000万リーヴルをもたらす。「パリを取りかこむ壁が、パリに不平をいわせる」と云われる所以。市壁は、僧族・第三身分の不満の的となり、「人市税取立門」は、民衆の激怒の的となる。
この年、建築業の労働者は、請負人が押しつける賃金引き下げに反対してストライキ。
労働者数百人が警視総監ルノワールと談判し、他の者はブーノワの館にいる国王へ行進したのち、高等法院は労働者に賛成すると言明。
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・クルーゾに、フランスで初めて、石炭を用いる高炉が建設。
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・フランス、化学者アントアーヌ・ラヴォアジェ(42)、水素と酸素を燃焼させて水の合成に成功、水が酸素と水素の2つの気体が結合を実証。
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・フィリピン、王立フィリピン会社創立。~1830年。
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・フランス、サド候爵「ソドムの百二十日」刊行。
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・スロバキアのバンスカー・ビストリツァで「学術協会」が設立。
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1月1日
・イギリス、「ザ・タイムズ」創刊。
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1月4日
・童話作家グリム兄弟の兄ヤーコブ・グリム、誕生。
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1月7日
・フランス人ジャン・ブランシャール(32)と米人医師ジョン・ジェフリーズ、熱気球で初めて英仏間海峡横断。
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1月7日
・モーツアルト(29)、フリーメイスンの第2級(「職人」)進級。
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1月10日
・モーツアルト(29),「弦楽四重奏曲 イ長調(ハイドン四重奏曲第5番)」(K.464)、「弦楽四重奏曲 イ長調」(K.Anh.72(464a))(断片)作曲。
14日、「弦楽四重奏曲 ハ長調(不協和音)(ハイドン四重奏曲第6番)」(K.465)作曲。
15日、自宅にヨーゼフ・ハイドン他を招待し、ハイドン四重奏曲の最初の3曲(K.387、421(417b)、428(421b)を演奏。
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1月12日
・アルターリアが『ヴィーナー・ツァイトゥング』誌上に、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲の連作(K413~K415)のパート譜の広告を掲載。
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1月22日
・この頃のモーツアルトの活動を伝えるこの日付けレオボルトの手紙。
「今しがた、お前の弟の短信を受け取ったが、あの子の最初の予約演奏会が始まるのが二月十一日で、毎金曜日に続いて催されること、四旬節の第三週にはハインリヒのために劇場での音楽会を一日必ず催すこと、私にすぐにも来てもらいたいこと、 - 先週の土曜日に自作の四重奏曲六曲を、親友のハイドンや他の友人たちに聴かせたことが書いてある。これらの曲はアルターリアに百ドゥカーテンで売ったものだ。最後にはこう書いてある。『ところでまた作りかけの協奏曲にかからなければなりません。さようなら!』」
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1月 28日
・モーツアルト父がミュンヘン、ヴィーンを目指してザルツブルクを出発。ミュンヘンでは弟子のハインリッヒ・マルシャン家に泊まる。オペラや舞踏会に顔を出し、2月7日、ハインリッヒと共にミュンヘンを出発、アルトエッティング、ハーク、ランバッハなどを経て、11日にヴィーンに到着。
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1月31日
・皇帝ヨーゼフ2世、警察長官に「フィガロの結婚」の上演を禁止するか変更を加えさせるか要請。結果、2月3日予定の上演禁止。
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2月
・鯖江藩領内の各組から計7603人の飢人救願が出され、3月にこの飢人に20日ないし30日分の稗代として金200両、このうち東鯖江村へは35人・20日分として銀45匁8厘が下される。4月には作食米1千俵が貸し与えられる。
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2月10日
・モーツアルト、「クラヴィーア協奏曲(第20番) ニ短調」(K.466)完成。
短調が基調となった初めてのピアノ協奏曲。ベートーベンは熱愛、カデンツァも書く。
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2月11日
・モーツアルト父レオポルト、ウィーン到着。夜、メールグルーベで開催された息子の予約演奏会に出席。「クラヴィーア協奏曲(第20番) ニ短調」(K.466)が演奏。

2月26日付けレオポルトのナンネルル宛ての手紙
「お前の弟が家に必要な家財道具一切がついた立派な住居にいることは、家賃を四百八十フロリーンも支払っていることからもお前にはわかるだろう。〔到着〕当日の晩に、私たちは六時にあの子の最初の予約演奏会に出かけたが、身分の高い人たちがたくさん集まっていた。めいめいが六回の四旬節演奏会に一スヴラン・ドールまたは三ドゥカーテンを支払うのだ。メールグルーペが会場で、あの子は会場費として毎回わずか半スヴラン・ドールを払うだけだ。演奏会はまことに素晴らしいもので、オーケストラもみごとだった。いくつかの交響曲のほかにイタリア語劇場の女性歌手がアリアを二曲歌った。それからヴォルフガングの素晴らしい新作クラヴィーア協奏曲(*前日作曲したばかりのK466)があったが、私たちが着いた時、写譜屋はまだそれを書いていたし、お前の弟はロンドーをまだ一度も通し弾きしてみる時間がなかったのだ。筆写譜に目を通す必要があったからね。たくさんの知りあいに出会ったことと、みんな私のところに走り寄ってきたことは容易に想像できるだろう。ほかの人たちにも引き合わされたよ。土曜日の晩にはヨーゼフ・ハイドンさんとお二人のティンティ男爵が私たちのところを訪ねてこられ、新作の四重奏曲が演奏された。でも、すでにある他の三曲につけ加えた新しい三曲だけが演奏されたのだ。これらの曲はたしかにいささか軽いものだが、素晴らしい作品だ。ハイドンさんは私にこう言った。『誠実な人間として、神の前に誓って申し上げますが、ご子息は、私が名実ともども知っている最も偉大な作曲家です。様式感に加えてこの上なく幅の広い作曲上の知識をお持ちです。』日曜日の晩には劇場で、イタリアの歌手ラスキ嬢の音楽会があったが、彼女はもうイタリアに旅立ちます。彼女はアリアを二つ歌ったのだが、チェロ協奏曲があり、テノールとバスがそれぞれアリアを一曲、それにお前の弟はパリ用にとパラディス嬢のために作った素晴らしい協奏曲を弾いた。私はたいそう美しいヴュルテンベルク公爵令嬢からうしろに二つほどロージュをへだてていただけで、楽器の交替はすべてものすごくよく聴き分けられるという満足がえられたので、この満足感で眼に涙があふれたものだった。お前の弟が退場すると、皇帝は手にもった帽子で挨拶をおくり、『ブラヴォー、モーツァルト』と叫ばれた。」
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2月11日
・この日の夜、ヨーゼフ・ハイドン、フリーメイスン分団「ツア・ヴァーレン・アイントラハト(真の融和)」ロッジに入会。ただし、年の暮れ頃に脱会したらしく、会のための音楽曲は一つも書いていない。
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2月12日
・モーツアルト、ハイドンを招待。弦楽四重奏曲「ハイドン・セット」のうち3曲「変ロ長調K458(狩)」「イ長調K464」「ハ長調K465(不協和音)」等演奏。演奏者は、父レオポルト、ティンティン男爵兄弟、モーツァルト。
この3曲に、ト長調K387、ニ短調K421=K6・417b、変ホ長調(K428=K6・421bⅣ四三b)を加えた6曲の連作はこの年9月にアルターリアから出版される。ハイドンは9月1日付で有名な献辞を送る。

ハイドンはレオポルトに「あなたの御子息は私が個人的に知っている、 あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な人です。 御子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです。」と語る。これが父・子の最後の対面。2人の長年のしこりも幾らか溶けたようで、息子の勧めにより、父は4月4日にフリーメーソンに入会。
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2月13日
・ウィーンでラスキ嬢の音楽会。パラディス嬢のための協奏曲(変ロ長調K456)演奏。
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2月中旬
・この月中旬、蝦夷地調査隊が出発し、帰還後報告書を提出。
報告は、調査継続とともに、蝦夷地開発とアイヌ人の農耕民化を訴える。
見積りによれば、本蝦夷地(北海道)の十分の一を開発すると116万6,400町歩(583万2千石)の耕地が得られるという。
開発には浅草の弾左衛門以下の長吏(ちようり)や非人も動員されることになった。
しかし、これが実行される直前の天明6年(1786)8月、田沼が失脚し、計画は頓挫した。
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2月17日
・モーツアルト父レオポルト、コンスタンツェの母マリーア・ツェツィーア・ウェーバー訪問。
18日、シュテファニー訪問。
19日、宮廷俳優ミュラー邸で午餐会。
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2月18日
・モーツアルト予約演奏会、多く開く(2月11、15、18、25日、3月3、11、18日と続く)
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2月24日
・ナポレオン父シャルル・ボナパルト、没。ナポレオン、母親のために節約を心掛ける。
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春の頃
・天明5年春頃より、また米価が騰貴し始める。天明3年以来、江戸へ流入する難民の数は増加する一方で、しかも高物価にあえぐ武家・町家では、人減らしのため奉公人をつぎつぎに解雇したので、無宿者となるものが多く、市中は不穏な空気につつまれた。
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