2014年11月13日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(49)「砂漠と緑」(2終) 「フエンデトードス村の虚無を拒否しても、マドリードもまた本質的には虚無でなかったろうか」

ゴヤ『聖イシードロの牧場』(1788年)

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1787年、「僕は老いた。・・・四一歳という年が重くのしかかって来る。」
「ゴヤはその頂点の孤独にあって、一七八七年、

僕は老いた。顔には皺がいっぱいで、ずんぐりした顔つきと窪んだ眼がなかったら、君も僕とは見分けがつかないだろう。・・・四一歳という年が重くのしかかって来る。君はきっとホアキン神父の学校に行っていた頃のように健康なのだろう。

とサバテールに書き送り、仕事が出来ないことを嘆くのである。
それはまったくこの男にしては意外な、と言ってよいほどのことで、何日ものあいだ画室に閉じこもって出て来なくさえなる。しかも「最悪なのは、彼が絵を描くことを厭がることです」と弟のカミーロがサバテールに報告をするほどのことになる。
しかしこの鬱病めいた症状は、さいわいにして短期間ですぎ去り、彼はまたまた仕事を開始するのであるが、それは何等かの前駆症状ではなかろうか。肉体的に、また精神的に……
この男の仕事それ自体、また仕事の仕方、手法の振幅がひどく大きいように、気分や精神の持ち方の振幅もまた大きく不安定である。歓喜から絶望へ、猜疑から呪岨、またその道へと大きく、短い期間中に転換するのである。そうしてサバテールあての手紙に見られるように、彼はそういう自分を読み取って自分で自分の舵がとれないのである。・・・」

五月は、マドリードでもっとも気持のよい季節である
「・・・一七八七年の厳しい冬が去って、一七八八年の春が来た。
五月は、マドリードでもっとも気持のよい季節である。
五月一五日は、マドリードの守護聖人イシードロの祝祭日で、この日から一週間ほどはお祭り気分で上から下まで全マドリードが浮かれて歩くことになる。」

ゴヤ『聖イシードロの牧場』(1788年)
「ゴヤは後期のタピスリーのカルトンにこの教会のお祭りを描いている。画中におそろしく派手な一張羅を着た男が、女性にこの聖イシードロの水を汲んで来てやっている光景が描かれる。
この聖水をまず頂いて、それから彼らのすべてはこの教会よりもマンサナーレス河の上流にかけて川沿いにひろがった牧場へピクニックに行くのである。貴族や金持は馬車で、マハやマホ、平民などは徒歩で、それぞれが弁当と葡萄酒やブランデーを用意して春をたのしむわけである。
ゴヤの描いた『聖イシードロの牧場』の景は、実はやはりタピスリーのためのカルトンであった。

僕はいま聖イシードロの牧場を描いているのだが、見られる通りの、千もの細部のおかげで本当にこまかい仕事をしなければならず、実際たまったものではない。寝る暇もないし、とにかくこの仕事が出来上るまでは休めない。

と親友に書くのであるが、この細密な、私の勘定ではおよそ七〇〇人の人物と一三台の馬車の登場している絵は、実のところ、ほんのタテ四四センチ、ヨコ九四センチの、ミニアチュアと言ってよいほどのものであった。」

構図は、サラゴーサを描いたベラスケスの作品にヒントをえたものと思われる
「構図は、皮肉なことにサラゴーサを描いたベラスケスの作品にヒントをえたものと思われるが、しかし、それは実に丁寧な、しかも一九世紀の印象派を完全に先取りした一傑作であった。描き方は、荒いタッチによる細密画という矛盾した言い方でしか表現の出来ないようなものである。」

この小さな絵をじっと見ていると、都市としてのマドリードというものの、肌ざわりの荒さがじかに伝わって来ると思われる
「前面には、逆ピラミッド型の小丘によって区切られた川岸の緑の牧場が展開していて、そこにマドリードの全階級がさんざめいている。
マンサナーレス河は、実はスペイン人たちの嘲りの対象になっていたほどに、通常はほんのちょろちょろ川で、”川の徒弟”などという仇名がついたりしていたものであったが、ゴヤは水をたっぷりと与えている。画中の、ほとんど水没しかねまじい橋は、奇妙なことに「日本風小橋」(Puentecito casi Japones)と呼ばれていた。
・・・
後景は、遠くピレネー山脈を越えてフランスまでもつづいている「北西」方向の空であり、その下の小丘に建っているものは、王宮をはじめとするマドリードの代表的な宮殿、大聖堂である。
画面の、やや右寄りの中央に位置する大きなドームをもった教会は、ゴヤも宗教画を奉献したサン・フランシスコ・エル・グランデ大聖堂であり、左寄り中央の角ばった大建築物は、ほかならぬ王宮である。そうして、この王宮のもう少し左側には、アルバ公爵家のモンクロア宮殿も認められる筈である。
川があり、緑の牧場がある。」

「けれども、サン・フランシスコ・エル・グランデと王宮との、その建物の土台のすぐ下から川までの「砂漠」のような、黄褐色の岩肌に、やはり注目しなければならないであろう。王宮の四囲も大聖堂の裏も、要するにむき出しの岩なのである。この対岸の川岸には二〇本ほどの楊柳がやっとの思いでこびりついている。
前景の緑の牧場といえども、水が凄み透る川岸の平地だけが緑なのであり、最前景の逆ピラミッド型の丘は、すでに「砂漠」の始りである。何かの雑草が、やっとの思いで岩にこびりついている。草には、おそらくトゲがあるであろう。
流れをはさんで、王宮と大聖堂の建つ岩砂漠の小丘と、トゲのある草のこびりつく岩砂漠とのあいだの、ほんのたまさかの緑なのである。
ドールス氏流に言えば、ゴヤは、このほんのたまさかの緑に賭けた、と言えるであろう。
かくて、この一瞬の夢にも似た緑をはなれたが最後、次の緑は南へ向って下って行くとして、タホ川の水を人工的に利用したアランホエースの離宮までは見られず、北に向ってはグアダラーマの山地までは見られない。
マドリードは現実に岩砂漠のど真中に、人工的に建てられた都市であった。この小さな絵をじっと見ていると、都市としてのマドリードというものの、肌ざわりの荒さがじかに伝わって来ると思われる。」

「この岸の緑と群衆の春に酔いしれたような喜びの表情と、川向うの首都の、威厳のようなものはあるかもしれないが、要するに岩の上にまた岩を積み上げて造成された都市というものの対比が痛いほどに感じられて来る。」

フエンデトードス村の虚無を拒否しても、マドリードもまた本質的には虚無でなかったろうか
「フエンデトードス村の虚無を拒否しても、マドリードもまた本質的には虚無でなかったろうか。
このときから二一年後に、ゴヤは彼が画架をたてたまさにこの前景の丘に、六万平方メートルの土地を買ってそこに別邸を建て、複雑な政治情勢のなかにある王宮と、青春時代の仕事ののこっている大教会と、痛切な思い出のあるアルバ公爵家の別邸モンクロア宮殿を睨みつけながら暮すことになるであろう。」
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