2014年11月10日月曜日

日系二世人権活動家ユリ・コチヤマの年譜(7) 1941(昭和16)年 20歳 (その1:1月~6月の日米関係年表)

北の丸公園 2014-11-10
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1941年(昭和16年) 20歳
5月
「大学を卒業した兄は、一九四一年五月、日本とアメリカのあいだに何かが起こる前に、故郷の日本をもう一度訪ねたいと考えていた両親と一緒に日本へ旅立った。六カ月後、日米間の緊張が高まったので、両親と兄はアメリカに帰国することを決め、太平洋戦争の始まる一週間前、戦前の最後の船で我が家に戻ってきた。」(ユリ 大統領行政命令九〇六六号)

6月
ユリ、カレッジを卒業し、就職。
「太平洋戦争の始まる半年前の一九四一年六月、私と双子のピーターはカンプトン・ジュニア・カレッジを卒業した。ピーターはUCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)に進学したが、私はサン・ペドロで仕事を探し始めた。
・・・白人の友人たちは高校を出ると次々と就職していったのに、ジュニア・カレッジまで出ながら、私は五セント・ストアの売り子の仕事すら見つけることができなかったのだ。
・・・日用品チェーンのウルワース・・・
・・・
・・・ウルワースは雇ってくれたのだ。かくして私は、サン・ペドロの商店街で採用された最初の日本人となった。それは夏休みとクリスマスとイースターと土曜日だけの臨時雇いだったが、ほかの店では履歴書すら受け取ってもらえなかったのだから、文句など言えない。
ウルワースの仕事がないときは、日本人が経営する屋台の八百屋で働いたり、ベビーシッターやメイドの仕事をした。・・・」(ユリ 大統領行政命令九〇六六号)

(日米関係)
1月6日
・ルーズベルト大統領、一般教書で「4つの自由」掲げる。

1月7日
・山本五十六連合艦隊司令長官、海相及川古志郎にハワイ攻撃構想示す(前年11月に口頭で開陳)。同時に、第11航空艦隊参謀長大西瀧治郎少将にハワイ作戦研究指示。大西は第1航空艦隊作戦参謀源田実中佐に研究委ねる

1月8日
・アメリカ、全艦隊を太平洋・大西洋・アジアの3地域に編成替え。 

1月16日
・ルーズベルト大統領、日本都市爆撃の検討命ずる。

コーデル・ハルの回想録による。
大統領は「海軍は日本の都市に関し、爆撃実施の可能性のあることを考慮すること」と指示したとされる。日米開戦前、アメリカの対戦参戦前のこの時期のこの発言は、参戦後も欧州では最後まで無差別都市爆撃をためらい昼間精密爆撃に執着した事実と照らし合わすと、日本軍機による重慶爆撃(1939年の「五・三、五・四」から翌年の百一号作戦に至る流れ)との関連が推測される。
アメリカは、核爆弾投下だけではなく都市爆撃も、ドイツには行わなかった無差別爆撃を、対日戦では主要な作戦に採用。根底にはアジア人への人種偏見があるにしても、重慶に対する無差別爆撃がその偏見に根拠を与えたと推測できる。

1月26日
・松岡外相、アメリカが中国援助続行する限り日米の国交絶望、と議会演説

1月27日
・米英参謀本部秘密戦略会議開催(~3月29日 ワシントン)。対ドイツ戦争優先を決定。

1月28日
・駐日米大使ジョセフ・グルー、ペルー公使情報として日本の真珠湾奇襲の可能性を警告する機密電報。アメリカ政府・海軍は特別な関心を示さず。

「小官ノ同僚、駐日ペルー公使ノ談ニヨレバ、日本側ヲ含ム多クノ方面ヨリ、日本ハ米国ト事ヲ構フ場合、真珠湾ニ対スル奇襲攻撃ヲ計画中ナリトノコトヲ耳ニセリト。同公使ハ、計画ハ奇想天外ノ如ク見ユルモ、アマリ多クノ方面ヨリ伝へラレ来タルヲ以テ、トモカクオ知ラセストノコトナリキ」

1941年2月1日付スターク作戦部長より太平洋艦隊司令長官宛の、「日本が真珠湾を攻撃する流言について」と題する電報で、「米海軍情報部としては、この流言は信じられないものと考える」と言う。

2月
・米中、金属借款。

2月1日
・アメリカ海軍、大西洋艦隊・太平洋艦隊・アジア艦隊の3つに再編成。太平洋艦隊はハワイに集結。

2月3日
・アメリカ、イギリス、オーストラリア3国間、太平洋共同防衛の諒解が成立。引続き、軍当局者間で共同防衛計画の為の各種協議、蘭印代表も加わる。 
アメリカは蘭印に対し、前年11月から陸軍飛行教官15名を派遣。この頃更に海軍飛行教官12名を派遣。

2月6日
・野村大使、サンフランシスコ着。
11日、ワシントンに着任。出迎えは国務省儀典課長1人のみ。
3月30日、陸軍省軍務局御用掛岩畔豪雄(前軍事課長)、ニューヨーク着。

2月10日
・ワシントン、アメリカに亡命中の元ソ連情報将校クリビツキー、暗殺

2月11日
・ルーズベルト大統領、日米戦が始まってもイギリスへの援助は変らないと言明。

2月13日
・上海のアメリカ領事館、極東在留のアメリカ人に対して引き揚げを命令。

2月17日
・産業組合中央金庫理事井川忠雄、ニューヨーク着。

2月19日
・野村吉三郎駐米大使、アメリカの挑発がない限り日本は戦争を起こさないとアメリカ人記者団に言明。

2月20日
・軍務局長岩畔豪雄、ニューヨーク着。

3月
・吉川猛夫予備海軍少尉、外務書記生森村正の偽名でハワイ総領事館に派遣。喜多長雄総領事、奥田乙治郎副領事の下で真珠湾の艦船出入りをチェック。

3月1日
・ウォーカー郵政長官を後楯とするウォルシュ・ドラウトと井川忠雄・岩畔豪雄の民間協議。
1日、野村大使は松岡外相に対し井川の役割について問い合わせると、回答は井川否認の内容。しかし、野村が陸軍に依頼して人選した岩畔が協議に関心を示した為、野村大使はこの民間協議に踏み込む事にする。米国政府筋も、大統領・国務長官間で、個人の資格でウォルシュらを日本大使館と接触させ、日本の考えを文書にさせることで一致(「コーデル・ハル「回想録」)。

3月8日
・野村吉三郎駐米大使、ハル国務長官の第1回の会談。 

3月15日
・アメリカ議会、武器貸与法通過。
連合国への軍事援助に関する法律。
ルーズヴェルト大統領はイギリスの敗北を防ぐ為に積極的に軍事援助する必要を感じ、立法化を議会に要請。大統領には、アメリカの防衛に重大な関わりがあると認められる国に対し、食糧・兵器・役務を含む軍事的援助を与える権限が付与。最初は中国とイギリスに対して行われるが,1941年10月以降ソ連もこれに加えられ,大戦終結時には全連合国に適用、連合国を勝利に導く原動力の一つになる。同法によるアメリカの貸与金額は500億ドル超、内イギリス310億ドル、ソ連110億ドル。 

4日後のルーズベルト大統領の演説。
「中国もまた、その祖国の分割を阻止しようとする数百万の一般人民の強固な決意を表明している。蒋介石主席を通じて中国は我々の助力を求めた。米国は中国が我々の助力を得べきであると述べたのである」

3月18日
・「米側三月十八日試案」、大統領側近から「日米原則的協定案」として井川忠雄の許に届く。これに岩畔が大幅手直しを加え、岩畔案ともいうべき「四月九日案」がハル国務長官に届く。

この試案は、ウォルシュとドラウトが日本で聞いた2条件の延長上に作成されたもの。
支那の完全な政治的独立、日本軍隊の撤収が日支和平条件として挙げられ、三国枢軸同盟の実質空洞化、ある時期までのドイツとの一切の通商関係断絶などを含む。
岩畔案は、三国同盟厳守の建前で大幅に手直し。

3月30日
・アメリカ海軍、西大西洋の哨戒開始。

4月9日
・トラウト~ウォーカー郵政長官経由、ハル国務長官に「日米諒解私案(四月九日案=岩畔案)」提出。
ハル国務長官は、この草案(「私人たる米国人および日本人の個人を通じて米国務省に提出せられたる提案」(「極東国際軍事裁判速記録」第107号)について、3日間、国務省の極東問題専門家と共に検討。
「研究をすすめるにつれてれわれは非常に失望した。それはわれわれが考えていたよりもはるかにくみしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった。・・・私は一部には全然承諾出来ない点もあるけれど、そのまま受けいれることの出来る点もあり、また修正を加えて同意出来る点もあるという結論を下した。私は日本との間に幅の広い交渉を開始するいとぐちになるような機会を見逃してほならないと患思った」(ハル「回想録」)。
16日ハル4原則提示に続く。

4月15日
・ルーズベルト大統領、駐米大使胡適・宋子文に軍用器材貸与を通知。義勇兵許可。
クレア・リー・シェンノートの働き。AVG(アメリカン・ボランティア・グループ);パイロット雇用。

4月16日
・野村・ハル交渉正式開始。
ハル国務長官、野村駐米大使に、「4原則」を前提として、民間私案の「日米諒解案」を基礎として予備的交渉開始を提案。

「そこで私は最近移ったウォードマン・パーク・ホテルの部屋に野村の来訪を求めた。私は野村に、日米間の問題解決のための非公式の提案を受取ったことを伝え、「大使自身もこの提案に参与しているときいているが」と述べた。野村はすぐに「あの提案のことは全部自分も知っている。本国政府にはまだ送っていないが、政府もこれには賛成すると思う」といった。それから二日たって私は、私の部屋で、日米協定の基礎になるべき四つの基本原則を述べたステートメントを手渡した」(ハル「回想録」)。

ハル国務長官は、4原則の前提の他に、基礎となる民間試案(四月九日案)には、同意できる部分もあるが、修正、拡大、全面削除を必要とする諸条項があることを、野村大使に対して周到に念を押す(ハル「覚書」1941年6月16日の項、「速記録」第107号)。

「ハル4原則」:
①あらゆる国家の領土保全と主権尊重、
②他国の内政問題に対する不干渉原則、
③通商上の機会均等を含む平等原則、
④平和的手段により変更される場合を除き、太平洋における現状の不攪乱。

野村大使は、この日のハル国務長官との会見を本国に報告。野村電には、叩き台となる試案が米側から提案されたかのような作為を含み、「4原則」も伝えず、「四月九日案」とは別の「四月十六日案」を請訓。

野村の請訓電からは、「四月九日案」(岩畔)から2点、①支那事変に関し、「若シモ蒋介石政権ガルーズヴェルト大統領ノ要請ヲ拒否セル場合ニハ米国ハ中国ニ対スル援助ヲ停止スベシ」という条文と、②太平洋に於ける政治的安定に関して、「日本政府ハ英国ノ東亜ニ対スル是以上ノ政治的侵略ノ為ノ入ロトシテノ香港及ピシンガポールヲ除去スルコトニ対シ米国政府ノ好意的且外交的援助ヲ要請スル」という条文が、完全に欠落。
野村吉三郎「米国に使して」収録の同請訓電「日米諒解案」(英文)には、欠落のない全文が、ハルが基礎的試案として取り上げた「四月九日案」とある。

蒋介石援助停止と香港・シンガポール除去を削除すれば、残りは岩畔案といえるほど内容的に日本の主張を多く盛り込んだ日米民間諒解案を、米国政府に採択させることができるであろうとの安易な観測が、野村、岩畔、井川にあり、ウォルシュやトラウトも、これ(甘い情勢判断)を支持していたと推測できる。

「外務省宛の暗号電報は若杉公使によって起案されたが、重要なな一点が故意に改変せられた。それは「日米諒解案」が、米国政府の起案にかかるかのようにした点である。これは『真実のことを述べるよりもこのように改めるのが、本国政府の意見をまとめるために好都合であろう」との判断に基づいたものであった」(岩畔豪雄「文馨春秋」稿)。

4月17日
・ハル米国務長官、蘭印の現状維持を声明。対日警告。

4月19日
・野村駐米大使からの「日米了解案」受信。
夜、大本営政府連絡会議、「諒解案」受諾に傾く。

この諒解案は、岩畔・井川・ドラウト3人が試案を作り、ハルが手直しして出来上がったと日本に伝えられる。
この案では「(一)日米両国ノ抱懐スル国際観念並二国家観念」~「(七)太平洋ノ政治的安定こ関スル両国政府ノ方針」の7点で合意に達したといい、中心はアメリカの満州国承認、支那事変解決の仲介にあり、末尾では、日米の代表者の会談をホノルルで開き、近衛とルーズベルトが話し合ってもいいとさえ言う。

野村大使の請訓電を補足するこの日着の岩畔電は、「第二次試案即チ外務電所報ノモノハ「ルーズヴェルト」ノ同意ヲ得アリ寧ロ確実ナルモ若シ日本政府ニ於テ蹴ラレタル場合米国ハ立場ヲ失フコトトナルヲ以テ本日(四月十六日)ノ会談ニ際シ「ハル」ヨリ野村大使ニ対シ先ヅ東京政府ノ意見ヲ聴カレ度トノ提案アリタル次第・・・」とある。
どう読んでも米国側提案と判断できる。

午前、軍務課長佐藤賢了は、軍務局長武藤章に呼ばれ、野村から送られた「日米諒解案」を手渡され、これを読み、「それは困惑したというよりは、若い娘が豪華なファッションでも見たような、そしてまた眉にツバでもつけたいように変に交錯した気持(だった)」を覚える。
佐藤・武藤・石井秋穂(日米交渉を担当する軍務課高級課員)も、日米諒解案の内容に興奮し東條の許に飛ぶ。
東條は、目を細め、「アメリカの提案は支那事変処理が根本第一義であり、したがってこの機会を外してはならぬ。断じて利用しなければならぬ」と言う。

午後の陸軍省軍務局での打ち合わせ。
米側の諒解案を土台にし、日米交渉の方向を3点に絞る。
①米国は援蒋政策を捨て日支和平の仲介をする、
②日米両国は欧州戦争には参戦しない、なるべくなら両国協力してその調停を行なう、
③米国は対日経済圧迫を解除する。

午後8時、大本営政府連絡会議で諒解案の取り扱いを検討。
会議の空気は和やかで、東條と武藤の笑顔が目立つ。東條は得意気に発言を続け、「この案ではじめるのは結構だが、ドイツとの信義から三国同盟に抵触しないようにすべきだ」とか「アメリカと対時する軍事的余裕はいまはない」と出席者たちに具体的に説明。すぐに野村に「原則上同意」電報を打とうとの声もあがるが、外交責任者の署名なしにはできないということになり、欧州訪問中の松岡外相帰国を待つ事になる。

「木戸幸一日記」では:
①(近衛と木戸内府との話し合い)「独伊に対し信義を失はず、又我国の国是たる大東亜共栄圏の新秩序建設に抵触せざる様、充分研究工夫の上、是が実現に努力するを可とすとの結論に一致す」(4月19日)。
②(天皇の木戸への発言)「米国大統領があれ迄突込みたる路を為したるは寧ろ意外とも云ふべきが、かう云ふ風になって来たのも考へ様によれば我国が独伊と同盟を結んだからとも云へる。総ては忍耐だね、我慢だね」(4月21日)。

4月22日
・シンガポール、米・英・蘭3国軍事専門家会議開催(~26日)。

5月
・アメリカ、ニューギニアに航空基地建設準備を進める。アメリカ・イギリスと、中国・蘭印・オーストラリア・フィリピソなどとの軍事協力関係が着々と進展。

5月6日
・ルーズベルト大統領、武器貸与法の規定に従い、中国防衛が米国防衛にとって緊要である旨を声明。
9日、アメリカ、中国に武器貸与法を適用。

中国に対する武器貸与援助は1941年に開始され、特に中国非占領地域への唯一の物資輸送路であったビルマ公路からの輸送改善に重点が置かれた。・・・蒋介石の要請により、ビルマ公路を調査し、その輸送量拡充の為の勧告を行う目的で、米国の輸送専門家が1941年6月中国へ派遣された。・・・1941年初め米国政府は米国人の義勇飛行士によって操縦され、米国人の地上勤務員によって整備される米国戦闘機が、中国軍に加わって対日戦に参加することを許可した。・・・さらに米国は強力かつ優秀な装備をもつ中国空軍を編成する計画を実施することに着手した。1941年5月、クラゲット将軍を団長とする航空使節団が、実情調査のため中国に派遣された(「一世紀間の米華関係」)。

5月7日
・野村大使、松岡外相指示に従いハル国務長官に中立条約を持ち出すが、ハルは問題とせず。口上書は手交せず。

松岡外相からハル国務長官宛て口上書には、独伊の指導者は勝利を確信している、米国の参戦は戦争を長びかせ文明破壊をもたらすだけ、日本は同盟国の立場を危くするようなことは出来ない、というもの。野村が、ハルに「松岡から電報が来ているが、これらはいろいろよくないことも書いてある。おわたししますか」と聞く。ハルは、よくない事が書いてあるのだったら、そちらにとっておいてもらって結構だと答える(ハル「回想録」)。米は暗号解読技術「マジック」により日本からの通信は全て解読済み。

5月11日
・駐米大使野村吉三郎、松岡修正案をアメリカに提示。
①アメリカは中国より手を引く、
②日本は三国同盟厳守、
③日本は南進に武力を持ちいない保障をしない。
ハルは失望するも、交渉打ち切りは好ましくないと判断。

5月12日
・野村駐米大使、ハル国務長官に修正案を提出。

5月17日
・アーノルド陸軍航空部隊司令官、B29試作着手時点で量産内約結ぶ

5月27日
・ルーズベルト大統領、国家非常事態を宣言。欧州での独軍の行動は対米侵略準備と決め付ける。「米政府を暴力によって破壊転覆することの教唆と宣伝」を犯罪とするスミス法制定。ブラウダーは旅券法違反で起訴され禁固4年刑。 

5月31日
・ハル国務長官、野村大使に非公式案提示
①全国家の領土・主権の尊重、
②内政不干渉、
③通商上の機会均等含む平等原則、
④太平洋の現状維持
の4原則

6月21日
・ハル国務長官、野村駐米大使に、5月31日の米側「中間案」の修正(5月11日提示の松岡修正案に対する公式対案)と松岡外相を非難するオーラルステートメントを渡す。
23日、東京着。

日本案が、三国同盟は防禦的なものであり、「現に欧州戦に参加していない国の参戦を防止する」ものであるとしている点を修正し、「欧州戦争の拡大防止に寄与せんとするもの」とするが、同時にアメリカの欧州戦争への態度は自衛の考慮によってのみ決せられると、自衛の為の欧州戦争参加余地を残し、一方、三国同盟による援助義務確認条項を削除。中国問題では、善隣友好、主権・領土の相互尊重に関する原則とその実際の適用に矛盾しない条件提出を要求し、中国の満州国承認は削除。通商関係では、無差別待遇原則を強調し、太平洋の政治的安定に関しては、特に領土的野心を持たない事の表明を要求。更に、これには口上書が付けられ、日本にナチスドイツとその征服政策を支持する指導者がいては、現在の交渉が実質的成果を収める事は期待できない、と松岡を非難。松岡は激怒し、無礼であるとこの口上書を突き返す。
対米関係悪化を望まず、日米交渉妥結を望む内閣全体の意向から、松岡は浮き上がってゆく。

独ソ戦を見越したハルの松岡枢軸依存外交への揺さぶり。
「・・・不幸にして政府の有力なる地位にある日本の指導者中には、国家社会主義の独逸及びその征服政策の支持を要望する進路に対しぬきさしならざる誓約を与え居るものあること及び・・・」(ハルの口上書)。

6月23日
・ルーズベルト大統領もソ連を同盟国と声明発表。

6月24日
・野村駐米大使より電報、「日米諒解案」はアメリカの公式提案ではなく私的提案であると言ってくる。東條らの諒解案への甘い期待は崩れる。

6月24日
・アメリカ、ソ連資産凍結解除。ルーズベルト大統領がソ連への援助を約束。 

6月25日
・アメリカ、公正雇用実践委員会設置。政府機関と防衛産業での人種差別廃止を監督。
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